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夏祭りの金魚  作者: 横田 真


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第三章 三日間

 その日の夕飯は、たしか鮭とみそ汁だった。


 どうしてそんなことを覚えているかというと、ぼくがずっと箸を持ったまま、鮭の身をつつく以外のことをしていなかったからだ。

 食べていないわけではない。食べてはいた。ただ、口に入れたものの味が、まったくわからなかった。


 切り出すタイミングを探していた。


 母は台所と食卓を行ったり来たりしていて、父はテレビをつけたまま黙って食べていた。普通の夜だった。普通の夜だからこそ、どこに言葉を差し込めばいいのかわからなかった。


 いま思えば、話を切り出すのに最適な瞬間なんてものは、どこにも存在しない。

 でも十歳のぼくは、それがどこかにあると本気で信じていた。世界のどこかに「いま言えば絶対に許してもらえる瞬間」があって、それを逃したら終わりだと思っていた。


 結局、ぼくは食器を下げるついでに、後ろを向いたまま言った。


「あのさ」

「なあに」

「今年の祇園祭、友達だけで行きたい」


 言ってしまった。

 言ってしまってから、心臓が耳の中で鳴り始めた。



   ◇



 母は、だめ、とは言わなかった。

 いいよ、とも言わなかった。


「誰と」


 それが第一声だった。


 ぼくは面食らった。用意していたのは「だめ」と言われたときの言い訳ばかりで、質問されるとは思っていなかったからだ。


「拓海と、健太と」

「岡田くんと、西野くんね」


 母は流しの水を止めて、ふきんで手を拭いた。それだけの動作なのに、なんだか改まった感じがした。


「あと?」

「あと……女子も二人」

「誰」

「藤井さんと、川嶋さん」


 川嶋、と言ったとき、母の手が一瞬止まった。


「みさきちゃん?」

「うん」

「みさきちゃんも行くの」

「うん」


 母は「へえ」と言った。


 その「へえ」の温度が、それまでの声とはっきり違っていた。何かがひとつ、こちら側に転がってきたのがわかった。

 当時のぼくには、なぜ美咲の名前でそうなるのかがわからなかった。ただ、言っておいてよかった、とだけ思った。


 いま考えれば、答えは簡単だ。

 母は美咲を、ぼくよりずっとよく知っていたのだ。幼稚園の頃から、母親同士で顔を合わせていたのだから。


 うちの子が誰かにくっついていくとしたら、あの子ならまあ大丈夫だろう――たぶん、そういうことだったのだと思う。


 自分の息子が信用されていないことに、ぼくはまったく気づいていなかった。



   ◇



 その日は、結論が出なかった。


「お父さんとも相談する」


 母はそう言って、それきりその話をしなかった。


 ぼくは自分の部屋に戻って、宿題を広げて、一問も解かずに一時間座っていた。


 相談する、というのは、だめだということなんじゃないか。

 いいなら、その場でいいと言うはずだ。わざわざ相談するというのは、断る理由を探すということなんじゃないか。


 あの頃のぼくは、悪い方に転がりだすと止まらなかった。

 ぼくはその夜、拓海に「やっぱり行けなくなった」と言う場面を、頭の中で三回くらい再生した。三回とも、拓海は「なにそれ」と笑っていた。


 次の日も、母は何も言わなかった。

 学校から帰って、おやつを食べて、テレビを見て、風呂に入って、それでも母は何も言わなかった。


 こちらから聞けばよかった。

 でもぼくは聞けなかった。聞いて「だめ」と言われるくらいなら、まだ何も決まっていない方がましだった。


 二日目の夜、ぼくは布団の中で、行けなかった場合のことを考えていた。

 みんなが四人で行って、ぼくだけがいない。次の日の教室で、拓海と健太と美咲と杏が四人で話している。ぼくはその輪の外にいる。


 そこまで想像して、ぼくは自分でびっくりした。


 ぼくは、祭りに行きたかったのではなかった。

 置いていかれたくなかったのだ。



   ◇



 三日目の夜だった。


 父が新聞を広げたまま、テレビの音の間に言った。


「祭りの話、まあ、いいんじゃないの」


 あんまり急だったので、ぼくは反応が遅れた。


 台所から母が顔を出した。


「四年生でしょ」

「四年生だから行くんだろ」


 父は新聞から目を上げなかった。ぼくの方も見なかった。


「俺もそのくらいのときには行ってたよ」


「あなたはあのとき――」

「その話はいい」


 父が新聞をめくった。


 母は何か言いかけた口を閉じて、それから、ふ、と息だけで笑った。


 ぼくは、その一往復の意味がまったくわからなかった。

 わからないまま、父が味方になってくれたということだけを受け取って、それで満足していた。


 あの夜、母が言いかけたのが何だったのかをぼくが知るのは、この夏が全部終わったあとのことになる。



   ◇



「じゃあ、条件」


 母が食卓に座って、そう言った。


 条件、という言葉の響きが、なんだか大人っぽくて、ぼくは少し緊張した。

 これは交渉なのだ、と思った。ぼくは、初めて交渉のテーブルについていた。


「一つ。おこづかいは千円。足りなくなっても追加はなし」

「千円?」

「千円」


 何か言おうとして、やめた。ここで粘って全部だめになる方が怖かった。


「二つ。暗くなってからは絶対に離れないこと。ひとりで行動しない」

「うん」


 ぼくは指を折って数えていた。ひとつ、ふたつ。


「三つ。八時に、いつもの駐輪場で待ち合わせ」

「うん。……自転車で行っていい?」

「だめ。あの日は停めるところなんてないんだから」


「四つ。帰りは必ず迎えに行くから、ひとりで歩いて帰らないこと」

「歩いて帰れるよ」

「だめ」

「いつも歩いてるじゃん」

「昼と夜は違うの」


 ずるい言い方だと思った。


「それにお祭りの日はね、普段この町にいない人が、たくさん来るから」


 母はそれ以上は説明しなかった。

 ぼくもそれ以上は聞かなかった。聞いたら、四つが五つに増えそうな気がしたからだ。


 四つ。

 ぼくは四本の指を立てて、それを見せた。母は少し笑った。


「わかった?」

「わかった」


 ぼくは、そう答えた。



   ◇



 いま、この部分を書くのが一番つらい。


 あのとき、ぼくの頭の中には、駐輪場の絵が一枚も浮かんでいなかった。


 母は「いつもの駐輪場」と言った。


 母の頭の中には、たぶん、はっきりした一枚があったのだと思う。

 祭りに行くたびに自転車を停める、駅の東口の、あの屋根つきの駐輪場。去年も、その前の年も、ぼくらはあそこに停めてから県道へ歩いていった。母にとって、祭りの日の駐輪場といえば、あそこ以外にありえなかった。


 しかも、祭りは東口でやっている。会場から近い方がすぐ合流できる。

 母の考えは、どこも間違っていなかった。


 ぼくの頭の中にあったのは、駅、という言葉だけだった。

 いや、正直に言えば、その言葉すら、ちゃんと頭に入っていたかどうかわからない。


 なぜなら、母が三つ目を言っているとき、ぼくはもう祭りの中にいたからだ。

 人がいっぱいで、提灯がぶら下がっていて、たこ焼きの匂いがしていて、ぼくの隣には拓海と健太がいる。そういう場面を、ぼくは母の声を聞きながら、頭の中で勝手に再生していた。


「わかった」とぼくは言った。


 わかった、というのは、ぼくの場合、たいてい「話が終わった」という意味でしかなかった。

 内容がわかったという意味ではなかった。


 母は、ぼくが指を四本立てたのを見て、笑って、それでこの話を終わりにした。

 数えられていたのだから、聞いていたのだろうと思ったはずだ。


 ぼくはたしかに数えていた。

 四つあった、ということだけを、正確に数えていた。



   ◇



 部屋に戻って、ぼくは机の前に座った。


 嬉しかった。今度こそ本当に、はっきりと嬉しかった。


 明日、教室で拓海に言える。行けるって。もう「行けたら」じゃない。ぼくは行く。


 ノートを一枚破って、そこに何か書こうとした。持ち物とか、条件とか、そういうものを。

 拓海が名前を書いた紙みたいに、自分でも何か紙に書いてみたかったのだ。


 鉛筆を持って、最初にこう書いた。


  1000円


 その次が、出てこなかった。


 離れちゃいけない、というのがあったのは覚えている。迎えに来てくれる、というのもあった気がする。

 でも三つ目が思い出せなかった。何時だったか。どこだったか。


 まあいいや、と思った。


 あと二週間もある。

 どうせ当日になったら、母がまた言うだろう。母はいつもそうだ。同じことを何回も言う。


 ぼくは紙を丸めて、ゴミ箱に入れた。


 あの紙をもし捨てずに、続きをちゃんと書いていたら。

 ――そんなことを考えても仕方がないのは、わかっている。


 ただ、二週間後の夜、ぼくは駅の反対側で、三十分ひとりで立ち尽くすことになる。

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