第二章 メンバー
次の日、ぼくは学校に行くのが少し怖かった。
前の日の「行けたら」を、誰かに蒸し返されるんじゃないかと思っていた。あるいは、そんな中途半端なことを言うやつは連れていかない、と言われるんじゃないかと。
通学路の途中でランドセルの肩ひもを何度も握り直しながら、教室に入ったら真っ先に「昨日のあれ、行くから」と言おうと決めていた。何回も口の中で練習した。行くから。ぼく、行くから。
教室に入った。
拓海は自分の席で、健太と何かの紙を広げて笑っていた。
ぼくの方を見もしなかった。
誰も、昨日のことなんて気にしていなかったのだ。
ぼくはランドセルを机の横にかけて、練習した言葉をそのまま飲み込んだ。
いま思うと、あの朝の気の抜け方が、ぼくの十歳をよく表している気がする。
怖がっていたのは自分だけで、世界はまったく別のことを考えていた。
◇
「あと誰呼ぶ?」
その日の休み時間、拓海がそう言い出した。まるで昨日の続きが当たり前にあるみたいな言い方だった。
広げていた紙は、なんてことのないただのノートの切れ端だった。そこに拓海が、鉛筆で名前を書いていた。
たくみ
けんた
ゆうま
三つ。
自分の名前が、他の二人と同じ大きさで書いてあった。
こんなことを覚えているのが、我ながらどうかしている。でもぼくは、あの切れ端に自分の名前が書かれているのを見たときのことを、はっきり思い出せる。
ぼくは、たしかにそこに入っていた。
「五人くらいがいいんじゃね」
健太が言った。根拠はまったくなさそうだった。
「なんで五人?」
「五人だと、なんかいい感じ」
「意味わかんね」
拓海は笑いながら、それでも鉛筆を持ったまま考えていた。名前を書き足す場所を探すみたいに、紙の余白を見ていた。
◇
「ねえ、それ祇園祭の話?」
後ろから声がした。
川嶋美咲だ。ノートを抱えて、当たり前みたいにぼくらの机のところに立っていた。
美咲は学級委員で、朝の会も帰りの会も仕切っていて、遅れている人がいると廊下まで呼びに行くような子だった。忘れ物をした人の数を、たぶん先生より正確に把握していた。
ぼくと美咲は、幼稚園が同じだった。
家も近くて、母親同士が知り合いで、小さい頃は休みの日に一緒に遊んでいたらしい。らしい、というのは、ぼく自身にはあんまり記憶がないからだ。
でも母は今でもときどき「みさきちゃんは元気なの」と聞いてくる。ぼくが「知らない」と答えると、母は決まって少し変な顔をした。
「うん、そう」
拓海が答えた。ぼくは答えられなかった。美咲とは、教室ではほとんど話さない。
「わたしも行っていい?」
教室の、そのあたりだけが一瞬止まった。
「え」
拓海が言った。「女子来んの?」
「なんで女子だとだめなの」
「いや、だめじゃないけど」
「じゃあいいじゃん」
拓海が黙った。
拓海が黙るところを、ぼくはあまり見たことがなかった。
◇
いま思い起こすと、小学四年生というのは、男子と女子が一番ややこしい時期だと思う。
三年生までは普通に混ざって遊んでいた。四年生になったあたりから、なんとなく境目ができ始める。教室の中で男子と女子の島が分かれて、給食の班替えでどちらかに偏ると誰かがふざけた声を出す。
でも、まだ完全には分かれきっていない。
だから、美咲みたいに境目をまたいでくる子がいると、みんなどう反応していいかわからなくなる。
誰かが「おー」と言った。
誰かが「なんで?」と笑った。
冷やかす声というほど強くもない、ただ空気を埋めるためだけの音だった。
ぼくは、笑いもしなかったし、何も言わなかった。
ただ、心のどこかで、来てくれたらいいのに、と思っていた。
それがどういう気持ちだったのか、十歳のぼくにはわからなかった。
いまでもよくわからない。好きとか、そういうことではなかったと思う。ただ、美咲がいたら、たぶん全部大丈夫なんじゃないかという気がしていた。
「じゃあ、杏も誘っていい?」
美咲が言った。もう行くことが決まったみたいな言い方だった。
◇
藤井杏は、美咲といつも一緒にいる子だった。
美咲がはっきりものを言うのとは反対に、杏はいつも人の顔を先に見る。何か言う前に、まず一回、周りを確認する。そういう子だ。
声が小さくて、笑うときに口を手で押さえる。
その日の昼休み、美咲が杏を連れてきた。連れてきた、という言い方が正しい。杏は美咲の後ろに半分隠れるようにして立っていた。
「杏も行くって」
「……行っていいなら」
杏は美咲の方を見ながらそう言った。ぼくらの方は見ていなかった。
その仕草を、ぼくは知っていた。
ぼくが毎日、教室でやっていることとほとんど同じだったからだ。
拓海が紙の切れ端を広げて、名前を書き足した。
たくみ
けんた
ゆうま
みさき
あん
五つ。
健太が「ほら、五人じゃん」と得意そうに言った。誰も、それのどこが得意なのかわからなかった。
◇
その紙が机の上に置かれたとき、ぼくは教室の後ろの方を見た。
窓際の、一番後ろの席に、ひとりの子が座っていた。
その子は本を読んでいた。ずっと本を読んでいるふりをしていた、と言った方が正確かもしれない。ページをめくる手が、さっきから一度も動いていなかったからだ。
ぼくらの声は、たぶん全部聞こえていた。教室はそんなに広くない。
ぼくは、その子と目が合いそうになって、あわてて視線を戻した。
声をかければよかった。
あのとき、拓海に「あいつも呼ぼうよ」と言えばよかった。
言えなかった理由は、いくつでも思いつく。ぼくは自分から誰かを誘ったことがなかったし、拓海の決めたことに口を出すのは怖かったし、そもそも五人でちょうどいいと健太が言っていた。
でも本当のところは、そんなに立派な理由ではない。
ぼくはただ、自分がその紙に入っていることに安心していて、それを揺らしたくなかっただけだ。
情けないことに、ぼくはその子の名前を思い出せない。
同じ教室で一年間過ごしたはずなのに、顔の輪郭と、動かない手だけを覚えている。
気づいた、というのは、たぶんそういうことだ。
気づいただけで、何もしなければ、それは気づかなかったのとほとんど同じ形をして残る。
◇
「じゃあ決まりな」
帰りの会のあと、拓海が紙をポケットに突っ込みながら言った。
健太が「やった」と言い、美咲が「持ち物とか、あとで決めようね」と言い、杏が小さくうなずいた。
五人。
ぼくは、その五人の中にいた。
嬉しかった。それは間違いない。
昨日の朝には想像もしていなかったことが、たった二日で本当になっていた。
なのに、家に帰る道で、ぼくの足はなんだか落ち着かなかった。
嬉しいのに、胸のどこかが、ずっと少しだけ浮いている。
そういう感じを、うまく言葉にできなかった。
いま考えれば、ぼくは怖かったのだ。
名前が書かれた紙は、書かれた人と、書かれなかった人を作る。
ぼくは今回、書かれた側にいた。それだけのことだった。
そして、まだ何ひとつ始まっていなかった。
母に、まだ何も言っていなかったのだ。




