第一章 言い出しっぺ
七月の教室は、匂いで覚えている。
給食のあとの、牛乳とソフト麺と、四十人分の汗の匂い。窓は全部開いているのに風は入ってこなくて、天井の扇風機だけが首を振っていた。首を振るたびに誰かの机のプリントの端がめくれて、扇風機が行ってしまうとまた戻った。それを何回も見ていた。
五時間目が始まるまで、まだ十分ほどあった。
ぼくは自分の席で、机に突っ伏していた。眠かったわけじゃない。突っ伏していれば、誰かが話しかけてきたときにすぐ顔を上げられるからだ。何もせずにただ座っていると、何もしていないことがばれる。
いま思えば、ぼくは十歳の頃からずっとそうだった。
自分から誰かのところに行くのが苦手で、かといって一人でいたいわけでもなくて、だから「話しかけられるのを待っている」という中途半端な姿勢を、あの狭い教室の中でずっと取り続けていた。
教室ではよく笑っていたと思う。声も大きかった。
でもそれは全部、誰かが先に何かを言ってくれたあとの話だった。
◇
橋川の祇園祭は、七月の第三土曜と日曜にある。
市内を南北に走る県道が――普段は片道一車線しかなくて、トラックがひっきりなしに通る、なんの変哲もない道が――その二日間だけ、車を止めて人だけの道になる。歩行者天国、というやつだ。
道の両側に四百軒くらいの店が出る。五つの町が、それぞれ神輿を出す。子どもの神輿も出るし、笛と太鼓を乗せた山車も出る。
六月の終わり頃から、市内のあちこちにポスターが貼られ始める。商店街のシャッター、床屋のガラス戸、パン屋のレジの横、駅前の掲示板。だいたい同じ絵で、提灯と神輿と、赤い字で「祇園祭」と書いてある。
学校の昇降口にも貼ってあった。誰かがいたずらで隅を折っていて、それを先生が直して、また誰かが折った。
ポスターが貼られると、七月が始まる。ぼくらの実感としてはそうだった。カレンダーより先に、あの赤い字が夏を連れてきた。
◇
去年まで、ぼくはあの道を母と歩いていた。
夕方の五時頃に、母と二人で自転車に乗って家を出る。駅の少し先の踏切を渡って東口に回って、駐輪場に停めて、そこから歩いて県道まで行く。人が多いところに入ると、母は必ずぼくの手を握った。
ぼくはその手が少し恥ずかしかったけれど、振りほどいたことは一度もなかった。人の多い場所で母の手を離したら、二度と会えなくなるような気がしていたからだ。
その頃のぼくは、祭りというものを、たぶんちゃんとは見ていなかった。
覚えているのは、母の後ろから見た大人の背中と、頭の上の方にある提灯の色と、それから母が「なに食べる?」と聞いてくる声だけだ。何を食べたのかは覚えていない。お金を払っているところを見た記憶すらない。
母が全部やってくれていた。
どこを歩くかも、何を食べるかも、いつ帰るかも。ぼくはただ、握られた手についていけばよかった。
それを、楽だとも窮屈だとも思っていなかった。祭りとはそういうものだと思っていた。
◇
「なあ」
前の席の岡田拓海が、椅子ごと後ろを向いた。
拓海は椅子を回すのがうまかった。腰の動きだけで、音を立てずに百八十度回る。ぼくは何度か真似して、そのたびに机にぶつけて笑われた。
「今年の祇園祭さ」
「うん」
「みんなで行かね?」
ぼくは、顔を上げるのが一瞬遅れた。
みんなで、というのがどういう意味か、わからなかったわけじゃない。
わかったから、遅れたのだ。
みんなで、というのは、つまり、親なしで、ということだった。
「行く行く」
すぐ横で西野健太が言った。健太は自分の席にいたはずなのに、いつのまにか拓海の机に寄りかかっていた。健太はそういうやつだった。話が面白そうな方へ、体が勝手に移動する。
「マジで? 親いないで?」
「いないで」
「うわ」
健太が「うわ」と言った瞬間に、教室の空気が少しだけ動いた気がした。
近くの席の何人かが顔を上げた。誰かが「なに、祇園祭の話?」と言った。「行くの?」「行く」「誰と?」――そこから五分くらい、教室のその一角だけが妙にうるさくなった。
小学四年生の教室で、話題というのはそういう風に広がる。誰かが石を投げて、その波紋が机の島をひとつずつ渡っていく。
波紋が届いた子は顔を上げて、届かなかった子はそのままだった。
◇
ぼくの胸の中では、さっきから何かが跳ねていた。
行きたい、と思った。
これは、はっきり覚えている。あのとき、ぼくは行きたいと思った。
ただ、その「行きたい」の中身が何なのか、十歳のぼくにはうまく言えなかった。
たこ焼きが食べたいわけでも、金魚がすくいたいわけでもなかったのだ。
ぼくが行きたかったのは、たぶん、あの道だ。
母の手を握らずに歩く、あの道。
どこを歩くかも、何を食べるかも、いつ帰るかも、自分で決めていい道。
去年まで頭の上にあった提灯を、自分の目の高さで見上げる道。
それがどんな風なのか、ぼくは想像できなかった。
想像できないから、行きたかった。
◇
「優真は?」
拓海がこっちを見た。
三十人以上いる教室の中で、ぼくの名前が呼ばれた。ぼくはいま、話しかけられた。待っていた側から、答える側になった。
だから、行く、と言えばよかった。
それだけでよかった。
「まあ……行けたらだけど」
言ってから、自分でびっくりした。
なんでそんなことを言ったのか、いまでもわからない。
母に怒られるかもしれないと思ったからでもないし、みんなが本当に行くのか疑っていたからでもない。
たぶん、ぼくは、怖かったのだと思う。
「行く」と言い切ってしまうことが。言い切って、それで行けなかったときのことが。あるいは、そんなに行きたがっていると思われることが。
だからぼくは、逃げ道のついた言い方をした。
行けたら。
「なにそれ」
拓海は笑った。悪気なんてまったくない笑い方だった。
「行けたらってなんだよ。行くか行かないかだろ」
「いや、だから、行くけど」
「じゃあ行くじゃん」
「うん」
拓海はもう次の話に移っていた。射的がどうとか、去年は何時までいたとか、そういう話だ。健太が「からあげ食いたい」と言って、拓海が「まだ祭り始まってねえよ」と言った。
誰も、ぼくの「行けたら」なんて覚えていなかった。
ぼくだけが覚えていた。
◇
五時間目のチャイムが鳴った。
算数だった。何をやったかは覚えていない。
窓の外では、校庭の白線がひどく白く見えていた。空はもう夏の色で、雲は上の方で止まっていた。
ぼくは黒板を見ているふりをしながら、ずっと祭りのことを考えていた。
母になんて言おう。
なんて言えば、いいって言ってくれるだろう。
その日の帰り道、ぼくは自分の言った「行けたら」を、何度も頭の中でやり直した。
行く、と言えばよかった。普通に、行く、と。
言い直せるものなら言い直したかった。
でも、言ってしまった言葉というのは、そういうものではないらしい。
このことを、ぼくはあと何回か、もっと大きな形で思い知ることになる。




