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夏祭りの金魚  作者: 横田 真


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序章 二十時に、駅で

 玄関で、蓮が靴のかかとを踏んだまま立ち上がろうとしたので、ちゃんと履け、と言った。

 返事はない。指だけが動いて、かかとが直った。それでいい。十歳の返事なんてそんなものだ。


 今日は祇園祭だ。

 市内を南北に走る県道が、夕方から夜まで歩行者天国になる。道の両側に四百軒の店が出て、町ごとの神輿が出て、この市で一年のうち一番人が出る日になる。


 その祭りに、蓮は今年、友達だけで行く。


 言い出したのは先週だった。夕飯のときに、いかにも今思いついたという顔で「今年さ、友達と行っていい?」と言った。

 妻は「いいんじゃない」と即答した。ぼくは麦茶を飲む手が止まった。


「四年生だよ」

「四年生だからでしょ」


 その言い方があんまり平気そうだったので、ぼくは何も言い返せなかった。

 言い返せなかった、というより、言い返す言葉が自分の中で長すぎたのだと思う。だめだ、と言うのにも、いい、と言うのにも、ぼくの場合はいちいち説明が要った。


 結局、ぼくは三日かけて許可を出した。自分の母親がぼくにそうしたのと、たぶん同じ日数だ。


 台所から妻が出てきて、財布から五千円札を抜こうとした。

「三千円でいい」

「えー、足りないでしょ」

「三千円」

 妻は五千円札を財布に戻して、代わりに千円札を数えた。数え方が雑で、一枚多かった。ぼくが黙って一枚返した。妻は「けち」と言った。


 蓮は受け取った札を折りたたんで、ズボンの尻ポケットに突っ込んだ。落とすぞ、と言おうとしてやめた。落とすなら落とせばいい。落としてわかることもある。


 連絡はつくようにしてある。今はそういうものだ。何かあれば、すぐにわかる。

 それでも。


「蓮」

「なに」

「二十時に、駅で――」


 そこで、ぼくの口は止まった。


 駅の、どこで。


 言いかけて、自分がたったいま何を言おうとしていたのかに気がついた。

 ぼくはいま、二十五年前の母とまったく同じ言い方をしようとしていた。


 玄関の脇に、水槽が置いてある。

 水は入っていない。もう何年も入れていない。


 なぜぼくが「駅で」の続きを言わずに、そこで止まれたのか。

 それを説明するには、ずいぶん昔まで戻らないといけない。


 ぼくが十歳だった年の、七月の話だ。

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