第九章 知らない顔
「じゃあ、あとで集合な」
拓海がそう言って、もう射的の方へ体を向けていた。
「どこで」
美咲が聞いた。
拓海は聞こえなかったのか、聞こえていて答えなかったのか、そのまま人の間に入っていった。健太も「じゃあ」と言って、から揚げの列の方へ歩き出した。
どこで、と美咲はもう一度言った。
今度は誰にも届かなかった。
「優真くんは?」
美咲がこっちを見た。
「どっちでもいい」
ぼくはそう答えた。
それから拓海の背中を追いかけた。
◇
射的の列は、思っていたより長かった。
前に七人いる。一人が三発撃つとして、けっこうかかる。
拓海は列に入るなり、「あの緑の箱」「あの上の段のやつ」と、どれを狙うかの話を始めた。ぼくは相づちを打っていた。
右手の袋が、だんだん重くなってきた。
持ち替えると水が揺れて、金魚が驚いたみたいに動く。だからあまり持ち替えたくない。
でも同じ手で持っていると、指の付け根に線が食い込む。
「それ、置いとけよ」
拓海が言った。
「どこに」
「そのへん」
拓海が指したのは、屋台の脚のあたりだった。段ボールが積んであって、その隙間。
「やだ」
「なんで」
「蹴られる」
拓海は「ふうん」と言って、それきりその話をしなかった。
ぼくは、自分がはっきり「やだ」と言ったことに、あとから気づいた。
あの日、拓海に逆らったのは、たぶんこれが最初だった。
◇
順番が来た。
二百円で三発。ぼくは六百円出して、九発撃った。
右手には袋がある。だから左手で銃を支えて、右の人差し指だけで引き金を引くことになる。
うまく構えられない。頬に当てる台尻の位置が、毎回ずれる。
一発目、外れた。
二発目、缶に当たったのに、缶は倒れなかった。ぱん、と音がして、少し揺れて、それだけだった。
三発目も同じ。
拓海は隣で、緑の箱を三発とも当てていた。箱は一ミリも動かなかった。
「ズルだろこれ」
拓海がおじさんに聞こえるように言った。おじさんは笑っていた。
結局、二人とも何も取れなかった。
残り、千円。
三千円が、千円になっていた。
◇
拓海が「次どこ行く」と言って、振り返る。
ぼくは返事をしようとして、口を開けたまま止まる。
拓海の姿が、もうない。
いなくなったのではない。人が流れてきて、間に入っただけだ。
でも、ぼくと拓海の間に三人か四人の大人が入ると、それでもう見えなくなる。
背伸びをする。
見えるのは、腰と、背中と、鞄と、うちわ。それだけだ。
右手の袋が誰かの脚に当たった。「ごめんなさい」と言うけれど、その人はもう通り過ぎている。
人の流れは、川みたいには進まない。
止まって、詰まって、また少し動く。動くときに、こちらの意志と関係なく体が運ばれていく。
ぼくは、拓海がいたはずの場所を見ている。
そこにはもう、知らない人が立っている。
◇
紺色を探した。
美咲の浴衣が紺色で、白い花の柄だった。杏は水色。
浴衣の柄を探すのが、一番早いと思った。
でも、その日、浴衣を着ている人は何十人もいた。
紺色を見つけて、近づいて、違う人だとわかる。
水色を見つけて、また違う人だとわかる。
それを、何回かやった。
「拓海」
呼んでみる。
自分の声が、自分の耳に届かない。
太鼓と、拡声器と、発電機と、それから何百人分の話し声。その全部が上に乗っていて、ぼくの声はその下から出られない。
もう一度呼ぶ。もっと大きい声で。
誰も振り向かない。
周りの人の顔を、順番に見た。
全部、知らない顔だった。
この町の人じゃない人が、たくさん来ているのだ。
そのことを、ぼくはこのとき初めて実感として理解した。
◇
どのくらいそうしていたのか、わからない。
いま数えれば、五分くらいだ。十分もなかったはずだ。
ぼくは動かないことにした。
動くと余計にわからなくなる気がしたし、動く方向を決められなかった。
立っていると、人がぶつかってくる。
舌打ちをした人がいた。「ちょっと」と言った人がいた。ぼくは謝りながら、少しずつ、屋台の脇の方に押されていった。
右手の袋を、両手で持ち直した。
水がぬるい。
さっきまで冷たかったのに、もう手のひらと同じくらいの温度になっている。中の金魚は、さっきより動いていない。
その袋を、ぼくは胸のところまで上げて、抱えるみたいにして持った。
なぜそうしたのか、自分でもわからない。
◇
「優真くん」
肩を叩かれた。
美咲だった。
ぼくは何か言おうとして、声が出なかった。
「どこ行ってたの」
ぼくは首を振った。
「拓海くんたちは」
「わかんない」
「一緒じゃなかったの」
「……はぐれた」
美咲は、ぼくの顔を見ていた。
それから、何も聞かずに「じゃあ、行こ」と言って、歩き出した。
ぼくは、その斜め後ろについて歩いた。
美咲は人が多いところでは少し速度を落として、ときどき振り返った。振り返るたびに、ぼくがいることを確認していた。
いま思うと、あれは去年までの母と同じやり方だった。
母も、そうやってぼくを歩かせていた。
母は、手を握った。
美咲は、振り返るだけだった。ぼくが遅れると立ち止まり、追いつくとまた歩き出す。
その距離が、ずっと変わらなかった。
◇
五時を過ぎていた。
空はまだ明るかったけれど、屋台の裸電球が、もうひとつずつ点き始めていた。
拓海と健太は、から揚げの店の前で見つかった。
拓海が「どこ行ってたんだよ」と言った。ぼくが言おうとしたのとまったく同じことを、先に言われた。
杏は、りんご飴を持っていた。
結局買ったらしい。「一人で買ったの」と美咲が聞くと、杏は少し得意そうにうなずいた。
五人がそろった。
誰も、何も起きなかったみたいに歩き出した。
ぼくも歩き出した。
さっきまでのことは言わなかった。言えばよかった。「はぐれた」「怖かった」「大きい声を出しても誰も振り向かなかった」。
でも、その頃にはもう、みんな次の店の話をしていた。
三時間後、ぼくは同じことをもう一度やることになる。
そのときは、美咲は来ない。




