第十章 焼きそばの前で
「佐久間くん」
名前を呼ばれて、ぼくは振り返った。
焼きそばの屋台だった。
大きい鉄板の上で、湯気と煙が上がっている。ソースの匂いが、風下にいるぼくらのところまで来ていた。
その屋台の端に、女の子が立っていた。
白いエプロンをして、髪を後ろでまとめて、割り箸の束を持っている。
焼きそばを受け取った人に、一膳ずつ渡す係らしい。
誰だかわからなかった。
一秒か、二秒。
それから、わかった。
◇
石川真央は、習字教室で一緒の子だった。
毎週木曜の夕方、公民館の和室でやっている教室で、ぼくと真央はいつも隣同士だった。
学校は違う。真央は第一小で、ぼくは第二小だ。だから会うのは週に一回、あの部屋の中だけだった。
真央とは、普通に話せた。
これは、ぼくにとってかなりめずらしいことだ。
墨をこぼしたとか、先生の字が読めないとか、半紙が足りないとか、そういうことを、ぼくは真央には言えた。向こうから話しかけてくることもあったし、こっちから話しかけたこともあった。
なぜ話せたのかは、いまでもわからない。
たぶん、あの部屋にはぼくを知っている人が誰もいなかったからだと思う。
拓海も、健太も、美咲も、あの和室にはいない。教室でのぼくがどういう子かを、真央は知らない。
だから話せた。
◇
「佐久間くん、来てたんだ」
真央がそう言う。
ぼくの口は、動かない。
言うことは、ある。あるどころか、いくつもある。
来てた、とか、手伝ってるの、とか、その箸すごい量だね、とか。習字教室でならいくらでも言えることだ。
でも、ここは和室じゃない。
ぼくのすぐ後ろに、拓海がいる。健太がいる。美咲と杏がいる。
四人とも、こっちを見ている。
真央が待っている。
ぼくが何か言うのを、待っている。
「……うん」
それだけだった。
真央は、少し笑って、「そっか」と言った。
◇
「誰?」
拓海だった。
「習字の」
「習字?」
「習ってる。木曜に」
「へえ」
拓海はそこで一拍おいて、それから言った。
「彼女?」
健太が「うわ」と言って笑った。
ぼくは、真央の方を見なかった。
見られなかった、というのが正しい。
「違う!」
近くにいた人が、何人かこっちを見た。
そのまま、ぼくは歩き出した。
真央に何も言わずに。
じゃあね、とも、また木曜、とも言わずに。
◇
二十メートルくらい進んでから、一度だけ振り返った。
真央は、もう別の人に箸を渡していた。
次の人が焼きそばを受け取って、真央が箸を出して、その人が受け取って、また次の人が来る。
同じ動きを、何度も繰り返していた。
こっちは見ていなかった。
ぼくは前を向いて、また歩いた。
◇
「ねえ」
少し後ろから、美咲の声がした。
拓海と健太は、もう先の方を歩いている。杏もそっちにいる。
「いまの、感じ悪かったよ」
ぼくは黙っていた。
「ちがう、ってあんな大きい声で。あの子、聞こえてたよ」
「べつに」
「しかも、なんにも言わないで行っちゃったし」
「うるさいな」
美咲が、止まった。
ぼくも止まった。止まるつもりはなかったのに、足が止まった。
人が、ぼくらの横を通り過ぎていく。何人も、何人も。
誰も、ぼくらのことは見ていない。
「……ごめん」
と言えばよかった。
でもぼくは、そのまま前を向いて歩き出した。
美咲は、ついてこなかった。
◇
あの日、ぼくが人に向かって強く言葉を出したのは、この一回だけだ。
拓海にでもない。健太にでもない。真央にでもない。
美咲に、だった。
しかも、言うべきことを一番正しく言ってくれた人に向かって。
ぼくは、それから一時間くらい、誰とも喋らなかった。
右手の袋を持ち直しながら、四人の後ろの方を歩いていた。
六時をまわって、屋台の電球が全部点いた。
空はまだ完全には暗くなっていない。あの、青が濃くなっていく時間だ。
人はもっと増えていた。
そして、あと二時間で、ぼくは駅に戻らなければならなかった。




