第十一章 崩れる
六時から七時までのことを、ぼくはあまり覚えていない。
歩いていた。それは確かだ。
五人で、県道の北の方へ向かって、少しずつ進んでいた。
でも誰が何を買ったのか、何を話したのかが、ほとんど残っていない。
拓海と健太は先を歩いていた。二人で何か喋って、ときどき笑っていた。
美咲と杏は、その後ろ。
ぼくは、さらにその後ろ。
五人、というより、二人と二人と一人だった。
誰も「次どこ行く」と言わなくなっていた。
誰も「集合」と言わなくなっていた。
言わない方が楽だからだ。
決めなければ、揉めない。
◇
七時になると、人はもう限界だった。
歩くのではなく、詰まって、押されて、少し進む。それの繰り返しになる。
止まっているときは、前の人の背中が目の前にある。動き出すと、こちらの意志と関係なく足が出る。
右手の袋は、両手で抱えていた。
そうしないと守れなかった。何度もひじが当たるし、後ろからも押される。
空はもう暗い。
提灯と裸電球が、道の上にずっと続いていて、その下だけがオレンジ色に明るい。
きれいだったのだと思う。
でもぼくは、そのとき、そういう風には見ていなかった。
◇
杏が転びかけた。
後ろから来た大人の集団に押されて、下駄の前がずれて、体が横に流れた。
美咲が腕をつかんだ。
二人とも倒れなかった。杏の下駄が一度アスファルトを擦って、それだけだった。
「大丈夫?」
「うん」
美咲が、杏の腕を持ったまま、前を見た。
拓海と健太は、もういなかった。
いや、いた。二十メートルくらい先の、くじ引きの店の前にいた。二人ともこっちを見ていない。何かの箱をのぞきこんで、笑っていた。
美咲は、その二人をしばらく見ていた。
◇
人をかき分けて追いついて、美咲は拓海の背中に言った。
「ねえ」
拓海が振り返る。
「なに」
「杏、転びかけた」
「え、大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
拓海は、少し困った顔をした。悪気がないときの顔だった。
「ごめん。気づかなかった」
「気づかないよね。前しか見てないもん」
拓海の顔が変わった。
「なんだよそれ」
「ずっとそう。行きたいとこ行って、勝手に決めて」
「みんなで来てんじゃん」
美咲が、そこで一度、息を吸った。
ぼくは、その息を覚えている。
◇
「みんなでって、何?」
美咲の声が、初めて大きくなった。
「みんなで来たんじゃないの。だったら、なんでバラバラなの?」
「バラバラじゃねえよ」
「射的、優真くんだけ連れてったでしょ。健太くんはから揚げ行っちゃうし、集合どこって聞いても誰も答えないし。杏なんてずっとわたしといるだけだし」
杏が、美咲の袖を引いた。
美咲は止まらなかった。
「こんなだったら、一人ずつ来ればよかったじゃん」
言い切った。
周りの人が何人か、ちらっとこっちを見て、また前を向いた。
誰も止まらない。人の流れは、そのまま流れていく。
「……うるさいな」
拓海が言った。
「委員長かよ」
言ってから、拓海も気づいた顔をした。
でも、言った言葉は戻らない。
◇
杏が泣きそうになっていた。
声は出していない。ただ、口を結んで、目のふちが赤くなっていた。りんご飴の棒を、両手で握っていた。
「からあげ、食う?」
健太が言った。
本気で言っていた。空気を変えようとしたのでもなく、ふざけたのでもなく、たぶん健太の頭の中では、それが一番いい提案だった。
誰も答えなかった。
◇
美咲が、ぼくを見た。
ぼくは、そこにいた。
拓海の横でもなく、美咲の横でもなく、二人の間の、少し後ろ。
右手の袋を、両手で抱えて。
美咲が正しいことは、わかっていた。
射的の列で三十分潰したのも、はぐれたのも、それを誰にも言わなかったのも、ぼくだ。美咲が探しに来てくれたことも、ぼくだけが知っている。
言えばよかった。
「そうだよ」
四文字だ。
ぼくは、口を開けなかった。
拓海の方を見て、美咲の方を見て、それから足もとを見た。
◇
「優真くんはさ」
美咲が言った。
さっきより、ずっと静かな声だった。
「いつもそう」
それだけだった。
ぼくは何も言わなかった。何も言えなかったのではなく、言わなかったのだと思う。
あのとき、ぼくの中には言葉があった。三つか四つあった。全部、口の手前で止めた。
美咲は、ぼくの返事を待たなかった。
待たれるより、その方がずっとこたえた。
◇
五人は、そこに立っていた。
誰も動かない。人だけが、ぼくらの横を通り過ぎていく。
拓海は、くじ引きの箱の方を向いたまま。
健太は、自分の手を見ていた。
杏は、下を向いていた。
美咲は、まっすぐ前を見ていた。
ぼくは、足もとを見ていた。
五人分の視線が、まだ四つの方向に散っていた。
どのくらいそうしていたのか、わからない。
そのとき、道の向こうから、音が来た。
太鼓だった。
さっきまでずっと遠くにあった音が、はっきり近づいていた。
笛も混じっている。それから、人の声。大勢の、揃った掛け声。
人の流れが、止まった。
道の両側に、人が寄っていく。真ん中を空けるためだ。
ぼくらも押されて、屋台の前まで下がった。
五人が、いやでも、一列に並んだ。




