第十二章 通り過ぎるもの
最初に来たのは、笛の音だった。
太鼓はずっと前から聞こえていたけれど、笛は近づくまで聞こえない。
高くて、細くて、少し外れているような音。それが何本か重なって、道の向こうから寄ってくる。
人の頭の上に、提灯が見えた。
山車だ。
木で組んだ台に車輪がついていて、その上に子どもが何人か乗っている。座って、太鼓を叩いている。両側から大人が綱を引いて、ゆっくり進んでくる。
台の四隅から、提灯が下がっていた。
風もないのに、進むたびに、全部が同じ向きに揺れる。
◇
目の前を通るとき、音が変わった。
太鼓が、耳ではなく、腹に来る。
ドン、と鳴るたびに、胸の内側が押される。アスファルトからも来る。足の裏が、少し震えているのがわかる。
ぼくは息を止めていた。
山車が行ってしまうと、少しだけ間があいた。
その間に、遠くから、揃った声が近づいてくる。
わっしょい、わっしょい。
子どもの声だ。
◇
神輿が来る。
大人のものより小さい。それでも、担いでいるのが子どもだから、担ぎ手の数が多い。
法被を着ている。
紺色の地に、背中に白く町の名前が入っている。何人も、何人も、同じ背中が並んで進んでくる。
前の方を大人が歩いていて、ときどき何か声をかけている。横にも大人がついていて、はみ出した子を戻している。
担ぎ手は、みんな必死な顔をしている。
わっしょい、と声を出しながら、肩に棒を食い込ませて、上を向いたり、下を向いたりしている。汗で前髪が額に貼りついている子がいる。口を開けたまま歩いている子がいる。
顔が、赤い。
全員、赤い。
◇
「遼だ」
ぼくは言った。
考えて言ったのではない。口が勝手に動いた。
言ってから、自分がその名前を声に出したのが初めてだと気がついた。
四人が、同じ方向を見た。
拓海も、健太も、美咲も、杏も、ぼくの指した先を見た。
この日、五人が同じものを見たのは、たぶんこれが最初だった。
◇
遼は、神輿の右の後ろの方にいた。
背が高い方ではないから、棒の位置が肩に合っていない。だから少しつま先立ちみたいになって、それでも離さずに歩いている。
顔は、教室で見る顔ではなかった。
牛乳を最後に飲む子の顔でも、「毎年出てる」と言ったときの顔でもない。
もっと単純で、もっと真剣で、何も考えていないみたいな顔だった。
ぼくは口を開けた。
名前を呼ぼうとしたのだと思う。あるいは、何か別のことだったかもしれない。
声は、出た。
出たけれど、太鼓に消された。
ドン、と一発、ちょうどそのとき鳴った。
遼は、こっちを見なかった。
目も合わなかった。
そのまま、ぼくらの前を通り過ぎていった。
◇
人が押した。
後ろから来た人が前に出ようとして、ぼくの背中を押した。ぼくは半歩前に出て、それから戻された。
右手が揺れた。
袋の口が下を向いて、水がひと筋、腕にかかった。
ぬるかった。
肘のところまで流れて、その先はTシャツに吸われた。
ぼくは袋を抱え直した。
金魚は、まだ動いていた。
◇
神輿が行ってしまうまで、たぶん一分もなかった。
最後の担ぎ手が通り過ぎて、大人が何人か続いて、それで終わった。
道の真ん中に、また人が戻ってくる。誰かが「もう終わり?」と言った。
わっしょい、という声が、だんだん遠くなる。
ぼくらは、まだ屋台の前に並んでいた。
誰も動かなかった。
「……すげえな」
拓海が言った。
誰に言ったのでもない言い方だった。
「うん」
美咲が答えた。
ごめん、とは誰も言わなかった。さっきの話は、誰も蒸し返さなかった。
仲直りをしたわけでもない。
ただ、五人が同じ方向を向いたまま、しばらくそこに立っていた。
健太が「腹減った」と言って、杏が少し笑った。
◇
時計を見ると、七時十五分。
あと四十五分で、ぼくは駅に行かなければならない。
そのことを、ぼくはまだ、ちゃんとは考えていなかった。




