第十五章 ぎおん
次の朝、ぼくは早く起きて、台所に行った。
バケツをのぞいた。
金魚は、横になりかけていた。
完全に横向きではないけれど、まっすぐ立っていない。斜めに傾いたまま、えらだけが動いている。
水は、昨日の夜より濁っていた。
ぼくは、バケツの前にしゃがんで、しばらく動かなかった。
どうすればいいのか、何も知らなかった。
新聞を読んでいた父が、そのうちに立ってきて、後ろからのぞきこんだ。
しばらく見ていた。
それから、新聞をたたんで言った。
「よし、行くか」
◇
父は、車を出した。
うちで運転するのは父だけだ。
助手席に乗るのは、めずらしいことだった。ぼくはシートベルトの高さがうまく合わなくて、首のところに当たるのを、ずっと手で押さえていた。
日曜の朝の、ペットショップだった。
入ってすぐのところに、水槽がずらっと並んでいる。
同じ大きさの箱が段になっていて、その一つずつに、違う魚が入っていた。金魚の水槽もあった。昨日の屋台にいたのと同じような赤いのが、ゆっくり泳いでいた。
「どれがいい」
父が言った。
ぼくは、値段を見た。
一番小さいのが二千円くらいで、その隣が三千円くらいだった。
「これでいい」
ぼくは、一番小さいのを指した。
父は、それを見て、その隣の隣を持ち上げた。
◇
結局、買ったものはこうなった。
水槽。砂利。網。エアポンプ。ホース。カルキ抜き。水温計。餌。それから、水槽を置く台。
レジで、八千円と少しになった。
ぼくは、その数字を見ていた。
昨日、ぼくが一日で使ったのが三千円だ。母がそれを渡すとき、駅の階段の下で財布を開けて、少し困った顔をしていた。
父は、その倍以上を、何も言わずに出した。
「どうせやるなら、ちゃんとやれ」
それが、この日、父が一番長く喋った言葉だった。
◇
帰りの車の中で、父が言った。
「父さんもな、あの祭りで迷子になったことある」
ぼくは、助手席で父の方を見た。
父は前を見たまま運転していた。
「下木戸の交差点のとこ。ちょうど、山車が来てるときだった」
「……どうしたの」
「泣いた」
それだけだった。
ぼくは、笑ってしまった。
父も少し笑った。それから、二人とも黙った。
あの夜、母が「あなたはあのとき――」と言いかけて、父が「その話はいい」と遮ったこと。
ぼくは、そのことをそのとき思い出した。
父は、知っていたのだ。
四年生でも行っていい、と言ったとき、父はもう、こうなる可能性を知っていた。
それでも、行かせた。
◇
水槽は、玄関の脇に置くことになった。
父が台を組み立てて、ぼくが砂利を洗った。何回洗っても水が白く濁って、父が「もういいだろ」と言うまでやった。
水を入れて、カルキ抜きを入れて、エアポンプをつないだ。
ぶくぶくと泡が上がった。
バケツから移すとき、金魚は少し暴れた。
水槽に入ると、しばらく底にいた。
それから、ゆっくり浮き上がって、まっすぐ泳いだ。
まっすぐ泳いだ。
ぼくは、それを長いこと見ていた。
名前は、その日の夜に決まった。
ぎおん。
「なにそれ」
母が笑った。
「いいだろ別に」
ぼくはそう言った。
それ以上は、誰も何も言わなかった。
◇
九月になった。
掃除の時間だった。ぼくは廊下のぞうきんがけの担当で、遼もそうだった。
バケツのところで、たまたま隣になった。
「小野寺」
ぼくは言った。
自分から名前を呼んだ。
「なに」
「神輿、すごかった」
遼は、ぞうきんを絞る手を止めて、ぼくを見た。
「なんだそれ」
笑っていた。
「見たの?」
「見た」
「言えよ」
「言えなかった」
自分でも、なんでそんなことを言ったのかわからない。
「来年も出るから」
遼はそう言って、ぞうきんを絞り終えて、廊下の方へ行った。
「うん」
ぼくは、その背中に言った。
たぶん、聞こえていない。
全部で、十秒くらいだ。
その十秒を言うのに、ぼくは二か月かかった。
◇
その日の帰り、ぼくは窓際の、一番後ろの席を見た。
席替えがあって、あの子はもうそこにいない。
教室の反対側の、前の方にいた。
本を読んでいた。ページをめくる手が、動いていなかった。
ぼくは、何も言わずに教室を出た。
◇
習字教室は、木曜だった。
夏休みの間も何回かあったけれど、ぼくは行かなかった。行けなかった、という方が正しい。
九月に入って、母に「行かないの」と言われて、それで行った。
真央は、いつもの席にいた。
ぼくは、隣に座った。
謝るつもりだった。
道を歩きながら、ずっとその文を作っていた。
でも、座ったら、口が動かなかった。
「この前、来てたでしょ」
真央の方が先に言った。
半紙を並べながら、こっちを見ずに。
「うん」
ぼくは言った。
それから、続けた。
「……あの、ごめん」
「べつに」
真央はそう言って、それから半紙の角をそろえた。
「ねえ、先生遅くない?」
「……うん」
それで、その話は終わった。
◇
その日、ぼくは墨をこぼした。
硯を押したときに、机の上に少しだけ流れた。半紙の端が黒くなった。
前だったら、何か言っていたと思う。
うわ、とか、やば、とか。真央がそれを見て、笑うか、雑巾を貸してくれるかしていた。
ぼくは、何も言わなかった。
真央は気づいていた。
こっちを一度見て、それから、自分の半紙に戻った。
二人とも、そのまま書き続けた。
あれから真央とは、普通に話している。挨拶もするし、聞かれれば答える。
ただ、あの部屋でだけ話せた、あの感じは、戻らなかった。
何かが壊れたわけではない。
壊れていないから、直しようがなかった。
変わったのは、ぼくの方だけだ。
◇
拓海とは、あれからも一緒に遊んだ。健太とも遊んだ。
電話は、結局一度もかけなかった。
あの名簿は、五人の誰にとっても、ただの紙のままで終わった。
でも、祭りの話は何回もした。
拓海は「あの射的、絶対ズルだった」と、二学期の間言い続けていた。
健太は牛串の話ばかりした。八百円という数字を、なぜか九百円だと覚えていた。
誰も、ぼくが迷子になったことを知らない。
言わなかった。
言うタイミングがなかったのではなく、言わないことに決めた。
ただ、一度だけ。
九月の帰りの会のあと、美咲が横に来て、小さい声で言った。
「あの日、ちゃんと帰れた?」
ぼくは、少し間をおいて答えた。
「帰れたよ」
「ふうん」
美咲はそれだけ言って、行ってしまった。
いまでもわからない。
美咲は何か気づいていたのか、それとも、ただ聞いただけだったのか。
◇
十月になった。
ぎおんは、少し大きくなった。
夏に来たときは五センチもなかったのに、体の幅が明らかに増えていた。
餌をやると、水面まで上がってくるようになった。ぼくが玄関に立つと、こっちに寄ってくる。
父は、水を替えるたびに「元気だな」とぎおんに声をかける。
母は「意外と長生きするかもね」と、笑いながら水槽をのぞく。
ぼくは、その頃、あの夏のことをあまり考えなくなっていた。
考えなくても、水槽はそこにあった。
毎朝、玄関を出るときに、目に入るところにあった。




