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夏祭りの金魚  作者: 横田 真


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終章 空の水槽

「二十時に、駅で――」


 そこで止まった口を、ぼくはもう一度動かした。


「東口の駐輪場」


 蓮が、靴を履き終えて顔を上げる。


「東口だぞ。改札出て、右」


「わかってるって」


 その言い方を、ぼくは知っている。



   ◇



「言ってみて」


「えー」


「言ってみて」


「……八時に、駅」


「どっち」


「……ひがしぐち」


「駐輪場は」


「改札出て、右」


 二回目で、やっと合った。


 連絡はつくようにしてある。今はそういうものだ。

 それでも、ぼくは口で言わせた。



   ◇



「三千円ねえ」


 妻が出てきて、蓮の襟の折れているところを直した。


「なんで三千円なの」

「三千円がいいんだよ」

「意味わかんない」


 それから、思い出したみたいに言った。


「私、あの日五千円持ってたけどね」


 ぼくは、その台詞を昔、一度聞いている。

 駅の西口の、ハの字の階段の下で。


「知ってる」

「お義母さん、口開いたまま止まってたもん」

「よく覚えてるな」

「忘れるわけないでしょ」


 美咲は笑って、蓮の背中を押した。



   ◇



 あの年の九月に、美咲は一度だけ聞いた。


 あの日、ちゃんと帰れた?


 ぼくは「帰れたよ」と答えた。

 美咲が何を思って聞いたのかは、いまも知らない。


 聞けばいい話だ。同じ家にいる。台所にいる。

 二十五年、聞いていない。


 もう、聞かないと思う。



   ◇



「行ってきます」


 蓮がドアを開けた。


 ぼくは、外まで出た。


「東口な」


「わかってるって」


 蓮は振り返らずに、手だけ上げた。


 その後ろ姿を、ぼくは見えなくなるまで見ていた。



   ◇



 玄関に戻る。


 脇に、水槽がある。


 水は入っていない。もう三年になる。


 ぎおんは、二十二年生きた。


 金魚すくいの金魚は、たいてい数日で死ぬらしい。うちのは、ぼくが小学校を出ても、中学を出ても、まだ生きていた。


 家を出るとき、水槽ごと持っていった。

 一人暮らしのアパートの、玄関のところに置いた。結婚したときも運んだ。蓮が生まれた頃には、もう十五センチくらいになっていて、餌をやると水面に口を出した。


 三年前の冬の朝、水槽の底に沈んでいた。


 水槽は、そのまま置いてある。


 片付けようと思ったことは、何度もある。

 そのたびに、やめている。


 理由を、ぼくはいままで言葉にしていなかった。


 今夜、あの子が何か提げて帰ってくるかもしれないからだ。



   ◇



 あの日、ぼくが礼を言えなかった人は、二人いる。


 金魚をくれた屋台のおじさんと、駅で声をかけてくれた女の人。


 どちらにも、もう会えない。


 顔も思い出せない。それでも、しゃがんだときの声だけは残っている。

 あのときベビーカーに乗っていた子は、いま三十歳近いはずだ。ぼくの膝の上の袋を、ずっと目で追っていたあの子は、たぶん何ひとつ覚えていない。


 それでいいのだと思う。


 助けた方は忘れて、助けられた方が、ずっと覚えている。

 たぶん、そういう風にできている。



   ◇



 七時半に、家を出た。


 自転車で行こうかと思って、やめた。

 歩けば二十分かかる。ちょうどいい。


 県道の方から、太鼓が聞こえている。


 東口の駐輪場の前に立って、ぼくは県道の方を見た。


 屋根がある。自転車がいっぱい停まっている。

 昔から、何ひとつ変わっていない。


 母は、ここに立っていた。


 自転車のハンドルを持って、片足をペダルにかけて、来ない子どもを待っていた。

 あのとき母が何を考えていたのかを、ぼくはこれから、自分の体で知ることになる。


 まだ、七時五十分だ。

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