第十四章 駅の駐輪場
西口に戻ると、急に静かになった。
県道からたった三分しか離れていないのに、音が半分になる。
人はまだたくさんいた。でも、みんな祭りから帰る人で、同じ方向に向かって歩いていた。
ぼくらは、朝と同じベンチのところに立った。
ハの字の階段の下。屋根があって、日陰になっていて、朝はここに四人が座っていた場所。
「じゃあ、また学校で」
美咲が言った。
「おう」
「バイバイ」
「うん」
あんなに準備して、三日かけて許可をもらって、朝から数えて待った一日が、その四つの言葉で終わった。
◇
ロータリーに、白っぽい車が入ってきた。
美咲が「あ、来た」と言って、手を上げた。
運転席の窓が開いて、美咲のお母さんが顔を出した。
ずいぶん久しぶりに見る顔だった。幼稚園の頃、迎えのときに何度か見ている。目のあたりが美咲に似ていた。
「お待たせ。楽しかった?」
「まあまあ」
美咲と杏が、後ろのドアを開けた。
乗りこむ前に、美咲のお母さんがぼくの方を見た。
「あら、優真くん? 大きくなったねえ」
ぼくは頭を下げた。
「うち、送ってこうか?」
「大丈夫です」
考える前に、出ていた。
聞かれたから、その形の音が口から出ただけだ。
「そう? じゃあ気をつけてね」
窓が閉まった。
美咲が、後ろの席から一度こっちを見た。
車はもう動き出していた。
◇
拓海は駐輪場の方へ行った。自転車で来ていたらしい。
健太は「じゃあな」と言って、県道と反対の方へ歩いていった。
三十秒くらいで、誰もいなくなった。
ぼくは、ベンチの横に立っていた。
八時ちょうどだった。
◇
母は来ない。
最初の五分は、なんとも思わない。
人が多いから遅れているのだろう、と思う。今日はどこも混んでいる。
ぼくはベンチに座らない。座ると見つけてもらえない気がする。
立ったまま、人が来る方を見ている。
自転車が一台、脇を通り過ぎる。母じゃない。
もう一台来る。違う。
人が、少しずつ減っていく。
県道の方から帰ってくる人の波が、細くなってくる。さっきまで途切れなかったのに、いまは何人か通って、少し間があいて、また何人か通る。
十分たった。
右手の袋を持ち直す。指の付け根が、ずっと同じところで痛い。
◇
母が言ったことを、思い出そうとする。
八時。それは合っている。
駅。それも合っている。ぼくはいま、駅にいる。
だから、待っていればいい。
そう思っていた。
ぼくは、自分が間違っているとは、一度も思わなかった。
もう一つ、何か言っていた気がする。
駐輪場。
その言葉が、急に出てきた。
ぼくは周りを見た。
西口にも、駐輪場はある。屋根のない、小さいやつが、階段の脇にある。
ぼくはそっちへ移動した。
自転車が三十台くらい停まっていて、そのほとんどが、もう持ち主のいない自転車だった。
ここだ、と思った。
いま思えば、ぼくはあのとき、精一杯正しくやろうとしていた。
思い出せる限りのことを思い出して、その通りに動いた。
八時は、合っていた。
駅も、合っていた。
駐輪場も、合っていた。
合っていなかったのは、一つだけだ。
◇
十五分たった。
屋台の明かりが、県道の方から順番に消えていく。ここからは見えないけれど、空の明るさでわかる。オレンジ色だった向こう側が、だんだん暗くなっていく。
人が、ほとんど通らなくなった。
周りを見る。
知っている顔が、ひとつもない。
朝はここに四人いた。三時間前は五人で歩いていた。いまは誰もいない。
電話をかければいい、と思った。
公衆電話がどこにあるか、ぼくは知らない。駅の中にあるのだろうか。改札の向こうだろうか。
財布を開ける。びりびり、と鳴った。
空だった。
十円玉一枚、入っていない。
番号は覚えている。うちの番号なら、言える。
でも、かけられない。
◇
泣くのは、我慢した。
我慢していることが顔に出ているのは、自分でもわかった。
口を結んで、目を大きく開けて、上を見ないようにしていた。上を見ると出そうな気がした。
右手の袋を、両手で持ち直した。
水は、ぬるいというより、あたたかかった。
顔に近づけると、少し臭かった。
金魚は、袋の底の方で、ほとんど動かなくなっていた。
それでも、ぼくはそれを持っていた。
◇
「あれ、金魚すくったの?」
声がした。
顔を上げると、女の人が立っていた。
ベビーカーを押していた。中に、小さい子が乗っている。一歳か、二歳くらい。眠そうな顔で、こっちを見ていた。
ぼくは、その人の顔をよく覚えていない。
思い出そうとすると、輪郭のところで止まる。
「……もらった」
ぼくは、そう答えた。
すくった、と言えばよかった。
美咲にはそう言ったのだから、同じことを言えばよかった。
でも、そのときのぼくには、そういう余裕がひとつも残っていなかった。
「そっか」
女の人はそう言って、それから、ベビーカーの横にしゃがんだ。
目の高さが、ぼくと同じになった。
「お母さんと、はぐれちゃった?」
◇
ぼくは、うまく説明できなかった。
「八時に、駅で待ってて、それで」
「うん」
「駐輪場で、って言われて」
「うん」
「でも来なくて」
女の人は、急がなかった。
ぼくが詰まるたびに、待っていた。
「お母さん、どうやって来るのかな。歩き?」
「自転車」
言いながら、自分がどれだけ何も知らないかがわかってきた。
「駐輪場、どんなとこ?」
「……屋根があって」
ぼくはそう言った。
「自転車が、すごくいっぱい停まってて」
女の人が、少し首を傾げた。
それから、ぼくの後ろの駐輪場を見た。屋根のない、三十台くらいの、あの駐輪場を。
「屋根、あるんだね」
「ある」
「大きいとこ?」
「大きい」
女の人は、少しの間黙っていた。
それから言った。
「それ、たぶん反対側だね」
◇
反対側、という言葉が、すぐには入ってこなかった。
駅には、二つあるのだ。
知っていた。知らないわけがない。東口も西口も、何回も通っている。
でもぼくの頭の中で、今日の「駅」は、ずっとここだった。
ここで待ち合わせて、ここでお金をもらって、ここで解散した。ぼくにとっての駅は、この場所しかなかった。
「一緒に行こうか」
女の人が立ち上がった。
◇
女の人は、階段ではなく、エレベーターの方へ歩いた。
ベビーカーがあるからだ。
ぼくも、その横についていった。
箱の中には、ぼくらしかいなかった。
壁が鏡になっていて、ぼくの顔が映っていた。
目のふちが赤くて、鼻の下も赤かった。ぼくは下を向いた。
扉が開くと、自由通路だった。
昼に五人で渡ったときは、下駄の音が響いていた。いまは、ベビーカーの車輪の音だけがする。コロコロ、と低い音が、通路の天井に反射する。
ぼくの右手で、袋の水が揺れている。
歩くたびに、ちゃぷ、ちゃぷ、と鳴る。
ベビーカーの子が、それをずっと見ている。目で追って、ぼくが持ち替えるとまた追いかける。
その音を、ぼくは二十五年たっても覚えている。
◇
東口側のエレベーターで下りた。
屋根つきの駐輪場は、そこから少し歩いたところにある。
ぼくらは、そっちへ向かって歩き出した。
自転車を押した人が、早足でこっちへ向かってくるのが見えた。
途中で一度止まって、後ろの駐輪場の方を振り返って、それからまた歩き出した。
行くか、戻るかを、そこで決めきれずにいるように見えた。
顔が見えるより先に、わかった。
母だ。
「お母さん」
声が出た。
母が顔を上げた。
そこから先のことを、ぼくはうまく順番に思い出せない。
母が走ってきた。名前を呼ばれた。肩をつかまれた。それから、たぶん少し怒られた。何を言われたかは覚えていない。
我慢していたものが、全部出た。
ぼくは声を出して泣いたわけではない。ただ、顔がぐしゃぐしゃになって、鼻から息が漏れて、しゃくり上げるみたいになった。
右手の袋は、落とさなかった。
あんな状態でも、握っていた。
◇
「ありがとうございました」
母が、女の人に頭を下げた。
ぼくも、あわてて下げた。
顔を上げたときには、女の人はもう歩き出していた。
少し行ったところで、一度だけ振り返った。
こちらを見て、軽く頭を下げて、それからまた前を向いた。
ありがとうございました。
その言葉を、ぼくは口の中で作った。
作ったけれど、出さなかった。
ベビーカーを押した後ろ姿が、人の間に入って、見えなくなった。
あの日、ぼくが礼を言えなかった人は、二人いる。
二人目が、この人だ。
名前も知らない。顔も思い出せない。
しゃがんだときの声だけを、いまも覚えている。
◇
帰りは、歩いた。
母は自転車を押していた。
朝と同じだ。ぼくはその隣を歩いた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
県道から離れると、音が減っていく。
人の声が消えて、太鼓が遠くなって、そのうち自分の靴の音と、自転車のチェーンの音だけになった。
「楽しかった?」
並んで歩いていたから、母がどんな顔をしていたかは見ていない。
声が、いつもより少しゆっくりだった。
「楽しかった」
ぼくはそう答えた。
それが本当だということが、自分でも不思議だった。
三十分前まで泣いていたのに、あの一日を「楽しかった」以外の言葉で言う気は、まったく起きなかった。
母は、それ以上は聞かなかった。
◇
自転車のライトが、前の地面を丸く照らしていた。
その丸の中に、影が入っている。
ぼくのと、母のと、自転車の。三つあった。
「……金魚すくい、しちゃったか」
母が、ぼくの右手の方を見て言った。
ぼくにではなく、自分に言ったみたいな言い方だった。
「うん」
母は、そのあと何か言いかけて、やめた。
「そう」
それだけだった。
街灯と街灯の間は、暗かった。
そこを通るとき、母の顔が見えなくなって、また見えるようになった。
◇
家に着いたのは、九時前だった。
玄関で靴を脱いで、ぼくは財布を出した。
びりびり、と鳴った。
中には、何も入っていなかった。一円もない。
「全部使ったんだ」
母が笑った。
「うん」
台所からバケツを持ってきて、水を張って、ぼくが袋を渡すと、輪ゴムを外して、そっと傾けた。
金魚は、バケツの底に沈んだまま、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくり、一回だけ尾を振った。




