第2話 死者の領地
王都を出発して七日目、レオン・グレイヴを乗せた馬車は北西辺境領へ続く山道に差しかかった。
道と呼ぶにはあまりにも荒れていた。車輪は何度も石に乗り上げ、馬は疲労のため歩みを遅くしていた。周囲には枯れた木々が立ち並び、遠くの山々には灰色の雲が垂れ込めている。
「ひどい道ですね」
向かいに座るエリシアが呟いた。
「ここから先は、王国の地図にも詳しい記載がありません。三十年前までは鉱山があったそうですが、魔物の襲撃で放棄されたと聞いています」
「鉱山が放棄された理由は、それだけではない」
レオンは窓の外を見ながら答えた。
「どういうことですか」
「この土地には、王国が隠している秘密がある」
「秘密?」
「いずれわかる」
エリシアは不満そうだったが、それ以上は尋ねなかった。
彼女は二十四歳。地方騎士の家に生まれ、王立士官学校を優秀な成績で卒業した女性だった。剣術と魔法の両方に秀でているが、貴族社会の駆け引きには疎い。
前の人生で、レオンは彼女を守れなかった。
今度こそ、同じ過ちを繰り返すつもりはなかった。
馬車が急に停止した。
御者が叫んだ。
「旦那様! 前方に人が!」
レオンは窓から顔を出した。
街道の中央に十数人の男たちが立っていた。
全員が粗末な革鎧を身につけ、剣や斧を持っている。
盗賊だった。
「金目のものを全部置いていけ!」
先頭の大男が叫んだ。
エリシアが剣の柄に手をかけた。
「私が排除します」
「待て」
レオンは馬車を降りた。
大男は彼を見て笑った。
「なんだ、貴族様か。運が悪かったな」
「お前たちは何者だ」
「見てわからねえのか」
「元王国兵だろう」
大男の笑みが消えた。
レオンは男たちの装備を観察していた。
剣の形状、革鎧の縫製、隊列の組み方。いずれも王国軍北方守備隊の特徴だった。
「三年前に解散させられた第十九辺境警備隊。違うか」
大男の表情が変わった。
「なぜ、それを知っている」
「軍務省の記録を読んだ」
レオンは静かに答えた。
「第十九辺境警備隊は魔物の侵攻を防いでいた。しかし、中央政府は維持費を惜しみ、部隊を解散した。兵士たちは退職金も受け取れず、家族を養うために盗賊になった」
「だったらどうした!」
大男が怒鳴った。
「俺たちは国に捨てられたんだ!」
「知っている」
「何も知らねえ貴族が偉そうに!」
男が斧を振り上げた。
その瞬間、レオンの視界に青白い文字が浮かんだ。
《戦略演算・起動》
《敵性戦力:十四名》
《戦闘能力:低》
《指揮官適性:高》
《推奨対応:非殺傷制圧》
レオンは右手を軽く上げた。
地面が震えた。
次の瞬間、盗賊たちの足元から土の柱が突き出し、十四人全員の身体を持ち上げた。
「なっ!」
男たちは空中で身動きが取れなくなった。
エリシアも驚いていた。
「レオン様、今の魔法は……」
「地形を少し変えただけだ」
レオン自身も驚いていた。
魔法を使うための詠唱も、魔力を集める動作も必要なかった。
地面を動かそうと思った瞬間、その通りになったのだ。
《地形掌握・熟練度上昇》
文字が消えた。
レオンは盗賊たちを地面に下ろした。
「殺すつもりはない」
大男は膝をついたまま睨みつけてきた。
「何が望みだ」
「お前たちを雇いたい」
「何?」
「私は北西辺境領の新しい行政監察官だ。領内の治安維持と防衛を任せる兵士が必要になる」
男たちは顔を見合わせた。
「給料は出るのか」
「当然だ」
「食料は」
「家族の分も保障する」
「そんな金がどこにある」
「これからつくる」
大男は呆れたように笑った。
「馬鹿じゃねえのか」
「そうかもしれない」
レオンは平然と答えた。
「だが、お前たちには二つの選択肢がある。このまま盗賊を続けて討伐されるか、私と一緒に領地を立て直すか」
長い沈黙が流れた。
やがて大男が立ち上がった。
「俺はガルドだ」
「レオン・グレイヴだ」
「一つ聞かせろ」
「何だ」
「本当に、俺たちを兵士として扱ってくれるのか」
「働きに応じて待遇を決める。出自は問わない」
ガルドはレオンをじっと見つめた。
そして剣を地面に突き立てた。
「わかった。あんたについていく」
こうしてレオンは、辺境領に到着する前に十四人の兵士を手に入れた。
その日の夕方、一行は北西辺境領の中心都市ベルグに到着した。
都市という名ばかりだった。
城壁は崩れ、家々の屋根には穴が開き、街路には雑草が生い茂っていた。市場は閉鎖され、広場には痩せ細った人々が座り込んでいる。
子どもたちは裸足で歩き、老人たちは空の器を抱えていた。
エリシアが息を呑んだ。
「これが……領都ですか」
レオンは頷いた。
「予想以上にひどいな」
領主館は街の北端にあった。
石造りの古い建物で、門は傾き、窓の半分が板で塞がれていた。
一行が到着すると、白髪の老人が出迎えた。
「新しい監察官殿ですな」
「レオン・グレイヴだ」
「私は代官のオルフェンと申します」
老人は深々と頭を下げた。
「よくぞ、このような土地へお越しくださいました」
「まず、領地の現状を知りたい」
「承知しました」
領主館の執務室で、オルフェンは古びた帳簿を広げた。
「現在の人口は二千八百四十七人。耕作可能な農地は百二十ヘクタールですが、その大半は痩せています。食料備蓄は二週間分しかありません」
「税収は」
「ほぼありません」
「兵力は」
「自警団が二十人ほど」
「交易は」
「街道が危険なため、商人はほとんど来ません」
エリシアは頭を抱えた。
「これでは領地経営どころではありません」
オルフェンも沈痛な表情だった。
「冬まで持つかどうか……」
レオンは帳簿を閉じた。
「問題は三つだ」
二人が顔を上げた。
「食料、治安、財源。この三つを同時に解決する」
「同時に?」
「まず食料だ」
レオンは地図を広げた。
「この領地には大きな川があるな」
「はい。黒水川です。しかし、水には毒が含まれているといわれ、農業には使えません」
「毒ではない」
レオンは答えた。
「地下から流れ出している魔力鉱石の成分だ」
オルフェンは驚いた。
「なぜ、ご存じなのですか」
「調査資料で読んだ」
実際には、未来の知識と新たな能力によって把握していた。
レオンの視界には、領地全体の地下構造が浮かんでいた。
《魔力構造解析・起動》
《黒水川:高濃度魔力粒子を検出》
《浄化方法:地層分離》
《必要魔力量:現在保有量の三パーセント》
「明日の朝、川へ行く」
「何をなさるのです」
「水を使えるようにする」
翌朝、レオンはエリシアとガルドたちを連れて黒水川へ向かった。
川幅は三十メートルほどあり、水面は黒く濁っていた。
岸辺には枯れた草が広がり、魚の姿もない。
村人たちが遠巻きに見守っていた。
「監察官様、危険です!」
一人の農夫が叫んだ。
「その川に触れた者は病気になります!」
「心配はいらない」
レオンは川岸に立った。
目を閉じ、地下の魔力の流れを探る。
無数の線が見えた。
地中深くを走る魔力鉱脈。
そこから漏れ出す粒子。
水に混じり、周囲の土壌を汚染している。
原因は明白だった。
レオンは右手を川へ向けた。
《地形掌握》
《魔力構造解析》
二つの能力を同時に発動する。
地面が低く唸った。
川底の岩盤が動き、地下の鉱脈との間に新たな地層が形成される。
黒い水が渦を巻いた。
村人たちが悲鳴を上げた。
「川が!」
「水が光っている!」
川面から青白い光が立ち上った。
やがて黒い濁りが消え、水が透明になっていく。
数分後、川底の小石が見えるほど澄んだ水が流れ始めた。
沈黙が広がった。
最初に声を上げたのは、先ほどの農夫だった。
「奇跡だ……」
レオンは首を振った。
「奇跡ではない。原因を取り除いただけだ」
彼はオルフェンに命じた。
「水質検査を行い、安全が確認できた場所から灌漑用水路を整備する。農地を三倍に広げる」
「三倍ですか!」
「それでも足りない。さらに西側の荒野を開墾する」
エリシアが尋ねた。
「人手はどうしますか」
「領民全員に仕事を与える。労働には食料と賃金を支払う」
「財源は?」
「次に確保する」
レオンは北の山々を見上げた。
そこには三十年前に放棄された鉱山があった。
王国の記録では、すでに鉱石は枯渇したことになっている。
だが、地下には巨大な魔力結晶が眠っていた。
大陸全体の魔力供給量を変えてしまうほどの資源だった。
その日の午後、レオンは鉱山へ向かった。
ガルドと五人の兵士が同行した。
坑道の入口は崩れかけていた。
内部から冷たい風が吹き出している。
「ここは危険です」
ガルドが言った。
「昔、鉱夫が何十人も消えたと聞いています」
「知っている」
レオンは松明を手に取った。
「だが、今日は奥まで行く」
一行は坑道へ入った。
内部は暗く、湿っていた。
壁には古い採掘跡が残り、ところどころに錆びた工具が転がっている。
しばらく進むと、奇妙な音が聞こえてきた。
金属を擦り合わせるような音だった。
ガルドが剣を抜いた。
「何かいます」
暗闇の奥で赤い光が二つ灯った。
巨大な影が動いた。
現れたのは、全身を黒い甲殻で覆われた魔物だった。
六本の脚を持ち、頭部には鋭い牙が並んでいる。
「鉱山喰らいだ!」
ガルドが叫んだ。
「逃げろ! あいつは剣が通らねえ!」
魔物が突進してきた。
レオンは動かなかった。
視界に文字が浮かぶ。
《敵性生命体:鉱山喰らい》
《危険度:A》
《弱点:腹部第三関節》
《推奨攻撃:地形圧縮》
レオンは指を一本立てた。
魔物の足元から岩の柱が突き出した。
巨体が宙に浮く。
続いて左右の壁が動き、魔物を挟み込んだ。
鈍い破裂音が響いた。
魔物は一瞬で動かなくなった。
ガルドたちは呆然としていた。
「……今の、何ですか」
「岩を動かした」
「いや、そういう話じゃなくて……」
レオンは魔物の死骸を調べた。
甲殻の内部には魔力結晶が形成されていた。
「これも資源になる」
「魔物まで金にするつもりですか」
「使えるものはすべて使う」
レオンは奥へ進んだ。
やがて坑道は巨大な地下空間へ通じた。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
天井から無数の青い結晶が垂れ下がり、地面には巨大な魔力鉱石が露出している。
空間全体が青白い光に包まれていた。
ガルドが口を開けた。
「なんだ、これは……」
「魔力結晶の鉱脈だ」
「これだけあれば……」
「王国の年間予算を何十年分も賄えるだろう」
兵士たちは歓声を上げた。
だが、レオンは笑わなかった。
視界に新たな警告が表示されていたからだ。
《古代文明遺構を検出》
《封印領域への接近を確認》
《警告:監視者が覚醒しました》
地面が震えた。
地下空間の奥で、巨大な石の扉がゆっくりと開き始めた。
扉の向こうには暗闇が広がっていた。
その闇の中から声が響いた。
「ようやく来たか」
低く、しかし美しい女性の声だった。
ガルドたちが武器を構えた。
「誰だ!」
返事はなかった。
代わりに、暗闇の奥で金色の瞳が開いた。
「待っていたぞ、時間を越えた者よ」
レオンの背筋に冷たいものが走った。
相手は自分が未来から戻ってきたことを知っている。
「何者だ」
レオンが尋ねた。
闇の中から一人の女性が歩み出てきた。
長い黒髪。
透き通るような白い肌。
人間離れした美貌。
そして額には、小さな金色の角が二本生えていた。
「我が名はセレナ」
女性は微笑んだ。
「かつて、この世界を滅ぼしかけた魔王だ」
ガルドたちが息を呑んだ。
セレナはレオンだけを見つめていた。
「お前が一度死んだことも知っている。お前がこれから何をしようとしているかもな」
「なぜ知っている」
「簡単なことだ」
彼女は楽しそうに笑った。
「お前を五年前に戻したのは、私だからだ」
レオンは言葉を失った。
頭の中で、処刑直後に聞こえた声が蘇る。
世界管理機構。
第七補正機能。
能力制限の解除。
あれは神の奇跡ではなかったのか。
セレナは一歩近づいた。
「取引をしよう、レオン・グレイヴ」
「取引?」
「お前には国をつくってもらう。そして、その国で世界を征服してもらう」
「断ると言ったら?」
「構わぬ」
セレナは微笑んだまま答えた。
「その場合、五年後に世界が滅びるだけだ」
地下空間が静まり返った。
レオンは彼女を見つめた。
魔王。
世界の滅亡。
時間のやり直し。
すべてが一つにつながろうとしていた。
しかし、彼にはまだ疑問があった。
「なぜ私なんだ」
セレナの笑みが消えた。
そして、初めて真剣な表情を見せた。
「お前だけが、神を殺せるからだ」
その瞬間、レオンの視界に赤い文字が浮かび上がった。
《世界管理機構からの緊急警告》
《管理対象外存在を確認》
《魔王セレナの排除を推奨》
《排除報酬:神格権限の一部解放》
レオンはその文字を見つめた。
そして、静かに笑った。
「なるほど」
どうやら、この世界には二人の支配者がいるらしい。
一人は魔王。
もう一人は神。
そして、その双方が自分を利用しようとしている。
「面白い」
レオンはセレナに向き直った。
「だが、取引には条件がある」
「言ってみろ」
「私は誰の駒にもならない」
セレナの金色の瞳が細くなった。
「ほう」
「神にも魔王にも従わない。私がつくる国は、私自身の意思で動かす」
沈黙が続いた。
やがてセレナは声を上げて笑った。
「よい! 実によい!」
地下空間に笑い声が響いた。
「ならば見せてもらおう。お前がどこまで世界を変えられるか」
彼女が右手を差し出した。
その掌には、小さな黒い結晶が載っていた。
「これは古代帝国の支配核だ。領地の魔力を制御し、兵器を起動し、失われた都市を蘇らせることができる」
レオンは結晶を受け取らなかった。
「代償は何だ」
「賢いな」
セレナは笑みを深めた。
「その結晶を使えば、神々にお前の存在が知られる」
「使わなければ?」
「この領地の地下に眠るものが、五年後に目覚める」
「それが世界を滅ぼす存在か」
「そうだ」
レオンはしばらく考えた。
そして結晶を受け取った。
《古代支配核を取得》
《領域支配能力と接続可能》
《接続しますか》
青白い文字が浮かんだ。
レオンは心の中で答えた。
接続する。
次の瞬間、地下空間全体が激しく震えた。
結晶から無数の光の線が伸び、レオンの右腕に絡みつく。
皮膚の下に金色の紋様が浮かび上がった。
《接続完了》
《領域支配範囲を拡張》
《北西辺境領・地下資源管理権限を取得》
《古代防衛設備の一部を解放》
《封印状態:不安定》
レオンの頭の中に膨大な情報が流れ込んできた。
地下水脈。
鉱山。
農地。
街道。
城壁。
そして、山岳地帯の地下に眠る巨大な都市。
それは現在の王国よりも遥かに高度な文明の遺産だった。
レオンは目を閉じ、情報を整理した。
「これなら、できる」
セレナが尋ねた。
「何がだ」
「五年も必要ない」
レオンは答えた。
「三年で、この領地を大陸最強の軍事国家にする」
セレナは満足そうに頷いた。
しかし、そのときだった。
突然、地下空間の天井に巨大な魔法陣が浮かび上がった。
赤い光が降り注ぐ。
《警告》
《神聖監察官の接近を確認》
《対象者:レオン・グレイヴ》
《抹消命令発令》
セレナの表情が険しくなった。
「早すぎる」
「何がだ」
「神々が、お前を見つけた」
天井が裂けた。
そこから白い鎧をまとった巨大な騎士が降下してきた。
背中には六枚の翼。
手には燃え盛る剣。
その姿を見た兵士たちは、恐怖で動けなくなった。
騎士は地面に降り立ち、機械のような声で告げた。
「世界秩序を乱す異物を確認」
燃える剣がレオンへ向けられた。
「対象者レオン・グレイヴ。直ちに消滅せよ」
レオンは静かに剣を抜いた。
彼は軍師だった。
戦場で指揮を執ることはあっても、自ら剣を振るうことは少なかった。
しかし、今は違う。
視界には敵の構造がすべて表示されていた。
《神聖監察官・第九位》
《戦闘能力:測定不能》
《弱点:存在核》
《勝率:一・二パーセント》
レオンは小さく笑った。
「一・二パーセントか」
セレナが叫んだ。
「逃げろ! 今のお前では勝てない!」
だが、レオンは動かなかった。
「軍師というのはな」
彼は足元の地面に剣を突き立てた。
「勝てない戦いを、勝てる戦いに変える仕事だ」
地下空間の魔力が一斉に動き始めた。
《戦略演算・最大起動》
《地形掌握・最大起動》
《領域支配・最大起動》
三つの能力が同時に発動した。
青白い光がレオンを包み込む。
その瞬間、神聖監察官が初めて動揺した。
「異常……」
騎士の声が揺れた。
「対象者の権限が、規定値を超過……」
レオンは剣を引き抜いた。
「さて」
彼は目の前の神の使者を見据えた。
「まずは、お前を倒してみるか」




