第12話 最後の戦争
世界完全初期化まで、残り十二時間。
王都アルヴェインの空から、星が消えた。
昼でも夜でもない、奇妙な暗黒が大陸全体を覆っていた。空には巨大な黒い魔法陣が浮かび、その中心から無数の光の糸が地上へ伸びている。糸は都市や村、森林や河川へ突き刺さり、あらゆる生命から魔力を吸い上げていた。
王都の大通りでは、人々が逃げ惑っていた。
建物の壁が突然消え、地面から見知らぬ植物が生え、老人が一瞬だけ若返ったかと思えば、次の瞬間には数十年分も老いてしまう。
時間と空間と生命の秩序が、同時に崩壊し始めていた。
中央記録庫の巨大な水晶には、赤い警告が繰り返し表示されていた。
《第零補正機能・アビス》
《世界完全初期化処理》
《実行まで、残り十一時間五十八分》
レオン・グレイヴは、その表示を見つめていた。
「ルシア。初期化が始まれば、何が起きる」
十二枚の翼を失った女神は、静かに答えた。
「現在の生命、文明、地形、歴史が消去されます」
「時間もか」
「はい。世界は原初の状態へ戻され、管理機構が新しい文明を構築します」
「生き残る者は?」
「存在しません」
エリシアが息を呑んだ。
「すべての人間が……」
ルシアは頷いた。
「人間だけではありません。エルフ、魔族、獣人、精霊、そして神格管理生命体も消滅します」
レオンはしばらく黙っていた。
そして尋ねた。
「アビスはどこにいる」
ルシアは地図を表示した。
王都の大神殿から地下深くへ、一本の赤い線が伸びている。
その先には巨大な球形の空間が描かれていた。
《第零管理領域》
《最終安全装置・アビス》
「王都地下、約二千メートルです」
「直接攻撃は可能か」
「不可能です。第零管理領域は、通常空間から隔離されています」
「転移は?」
「第三補正機能でも突破できません」
レオンは地図を見つめた。
「つまり、外から攻撃できない要塞というわけか」
「そうです」
「ならば、内部から開ければいい」
ルシアは眉をひそめた。
「どういう意味ですか」
レオンは答えなかった。
彼は机の上に、王都の地下構造図を広げた。
そこには古代文明の魔力導管、排水施設、軍事用地下道、神殿の祭祀回廊が複雑に交差していた。
レオンは一本の細い線を指さした。
「これだ」
エリシアが覗き込んだ。
「旧王宮の地下水路ですか」
「ああ」
「ですが、第零管理領域とは接続していません」
「現在はな」
レオンは別の図面を重ねた。
それは千年前の王都の地図だった。
古代文明が崩壊する前、王都の地下には巨大な魔力炉が存在していた。
その炉を冷却するため、周囲から大量の地下水が引き込まれていたのである。
「第零管理領域は、古代魔力炉の跡地につくられている」
レオンは言った。
「そして、この地下水路は、その冷却施設につながっていた」
ルシアは目を細めた。
「現在は封鎖されています」
「封鎖されているだけなら、開けられる」
「管理機構の防御障壁があります」
「障壁の内側に入る必要はない」
レオンは静かに答えた。
「水を流せばいい」
ルシアは黙った。
レオンは続けた。
「第零管理領域は完全に隔離されている。しかし、魔力炉の冷却機能まで停止すれば、中枢装置そのものが過熱する」
「……」
「だから、冷却回路だけは外部と接続されているはずだ」
ルシアの表情が変わった。
「その通りです」
レオンは頷いた。
「そこが弱点だ」
エリシアが尋ねた。
「水で攻撃するのですか」
「いや」
レオンは首を振った。
「水路へ、別のものを流す」
彼は古代魔力導管を指さした。
「世界管理機構の認証信号だ」
ルシアは驚いた。
「それは不可能です」
「なぜだ」
「第零管理領域は、すべての認証信号を遮断します」
「外からの信号はな」
レオンは静かに答えた。
「だが、冷却装置の異常を知らせる信号まで遮断すれば、装置の安全性を維持できない」
ルシアは黙った。
「つまり、冷却回路の警告信号だけは受信する」
レオンは続けた。
「その信号に管理命令を紛れ込ませる」
ルシアは長い間、図面を見つめていた。
やがて、静かに言った。
「理論上は可能です」
エリシアが微笑んだ。
「ならば、道はありますね」
「ただし」
ルシアは続けた。
「冷却回路へ接近するには、大神殿の地下を突破しなければなりません」
レオンは頷いた。
「そこは軍の仕事だ」
彼は通信装置を起動した。
「ガルド」
『はい!』
「全部隊を集めろ」
『承知しました』
「ただし、市街地での無差別攻撃は禁止だ。住民の避難を最優先する」
『了解!』
レオンは静かに続けた。
「王都を占領するのではない」
彼は地図を見つめた。
「世界を救うための通路を確保する」
王都西門の外には、北西辺境領の軍勢が集結していた。
兵力は約千八百。
ベルグで編成された常備軍に、エルフ族の義勇兵、王国軍から離反した兵士たちが加わっていた。
ガルドは馬上から王都の城壁を見上げていた。
「ずいぶん大きな街だな」
隣にいたユリウスが答えた。
「王国最大の都市です。人口は二十万人を超えます」
「それだけの人間が、今は逃げ惑っているわけか」
「はい」
城壁の上には、王国軍の兵士たちが並んでいた。
しかし、その動きは不自然だった。
全員が同じ方向を向き、同じ間隔で剣を構えている。
ユリウスは望遠鏡を覗いた。
「精神支配を受けています」
ガルドは眉をひそめた。
「厄介だな」
「殺さずに突破する必要があります」
「レオン様らしい命令だ」
ガルドは苦笑した。
「だが、嫌いじゃない」
彼は右手を上げた。
「魔力防護盾、前へ!」
巨大な盾を持った兵士たちが進み出た。
ベルグの工房で製造された新型装備だった。
盾の内部には魔力蓄積結晶が埋め込まれており、一定時間だけ魔法攻撃を防ぐことができる。
「前進!」
部隊が動き始めた。
その瞬間、城壁から無数の矢が放たれた。
「防御!」
兵士たちが盾を構える。
矢が弾かれ、地面へ落ちた。
続いて、城壁の魔導砲が火を噴いた。
青白い光が部隊へ向かってくる。
「伏せろ!」
巨大な爆発が起きた。
土煙が広がる。
しかし、盾の防護障壁が攻撃を受け止めていた。
ガルドは叫んだ。
「第二隊、右へ回れ!」
ユリウスが部隊を率いて移動した。
その先には、古い排水路があった。
レオンが事前に調査していた侵入経路だった。
「工兵隊、作業開始!」
兵士たちが排水路の鉄格子を取り外した。
内部には狭い通路が続いていた。
ユリウスは頷いた。
「ここから入る」
そのとき、背後から声が響いた。
「待ってください」
振り返ると、白い法衣をまとった青年が立っていた。
ノアだった。
かつて大神殿に仕えていた若い神官である。
「私が案内します」
ユリウスは眉をひそめた。
「危険だぞ」
ノアは頷いた。
「承知しています」
彼は王都を見上げた。
「私は、神殿が人々を救う場所だと信じていました」
その声は震えていた。
「ですが、神殿は人々の心を奪い、命を犠牲にしてきた」
ノアは静かに続けた。
「その罪を、少しでも償いたいのです」
ユリウスはしばらく彼を見つめていた。
そして頷いた。
「わかった」
ノアは排水路へ足を踏み入れた。
「こちらです」
こうして、王都攻略戦が始まった。
一方、中央記録庫では、レオンが別の問題に直面していた。
《世界完全初期化まで、残り十時間四十一分》
《原初管理者覚醒率:八十一パーセント》
胸元の紋章が、以前より強く輝いていた。
時折、彼の視界に知らない記憶が流れ込んでくる。
巨大な研究施設。
無数の管理生命体。
白い服を着た研究者たち。
そして、原初管理者レオン・アルヴェインの姿。
「……またか」
レオンは額を押さえた。
エリシアが駆け寄った。
「大丈夫ですか」
「ああ」
「顔色が悪いです」
「少し、古い記憶が見えるだけだ」
レオンは椅子に腰を下ろした。
「ルシア。原初管理者の覚醒が完了すれば、私はどうなる」
ルシアは静かに答えた。
「あなたの人格は、原初管理者の記録と統合されます」
「つまり、私ではなくなる可能性がある」
「はい」
エリシアの表情が変わった。
「そんな……」
レオンは考え込んだ。
能力を失っただけではなかった。
自分という存在そのものが、古代文明の管理者に置き換わろうとしている。
「覚醒を止める方法は?」
ルシアは首を振った。
「ありません」
レオンは彼女を見た。
「本当に?」
「少なくとも、私の記録には存在しません」
「ならば、記録にない方法を考える」
ルシアは小さくため息をついた。
「あなたは、いつも同じことを言いますね」
「それが仕事だからな」
レオンは立ち上がった。
そして、エリシアへ向き直った。
「一つ頼みがある」
「何でしょう」
「もし私が別人になったら、止めてほしい」
エリシアは息を呑んだ。
「レオン様……」
「原初管理者が私の身体を支配するかもしれない」
レオンは静かに続けた。
「そのときは、ためらうな」
エリシアは首を振った。
「できません」
「エリシア」
「私は、あなたを殺すためにここへ来たのではありません」
彼女は真っすぐにレオンを見つめた。
「あなたを連れて帰るために来たのです」
レオンは黙った。
エリシアは続けた。
「もし、あなたが自分を忘れたなら、私が思い出させます」
「……」
「何度でも」
その言葉に、レオンは小さく笑った。
「頼もしいな」
エリシアも微笑んだ。
「副官ですから」
そのころ、天空都市アストラでは、セレナとミレイユが第三補正機能の調整を続けていた。
二人の前には、巨大な空間制御結晶が浮かんでいる。
「お姉さま」
ミレイユが言った。
「王都の転移座標が乱れているわ」
セレナは頷いた。
「アビスの仕業だ」
「第三補正機能を使えば、王都へ転移できるけれど……」
「何だ」
「第零管理領域には入れない」
セレナは考え込んだ。
「空間そのものが隔離されているからか」
ミレイユは頷いた。
「そう」
セレナはしばらく黙っていた。
そして尋ねた。
「空間をつなぐのではなく、空間を重ねることはできるか」
ミレイユは驚いた。
「何?」
「第零管理領域と王都の地下を、一瞬だけ同じ座標にする」
ミレイユは考え込んだ。
「理論上は可能だけれど……」
「危険か」
「とても」
ミレイユは答えた。
「失敗すれば、二つの空間が衝突して王都全体が消滅する」
セレナは眉をひそめた。
「それは駄目だな」
「でも」
ミレイユは続けた。
「空間を重ねるのではなく、情報だけを重ねるなら可能かもしれない」
セレナの目が輝いた。
「情報?」
「ええ」
ミレイユは結晶へ手をかざした。
「物質は移動させず、魔力信号だけを別の空間へ送るの」
セレナは笑った。
「それだ」
彼女は通信装置を起動した。
「レオン、聞こえるか」
『ああ』
「第零管理領域へ、魔力信号だけを送り込めるかもしれない」
レオンはすぐに答えた。
『成功率は?』
「まだわからん」
『必要な条件は?』
「第零管理領域の内部座標だ」
レオンは地図を確認した。
『座標なら、古代魔力炉の記録から推定できる』
セレナは頷いた。
「ならば、こちらで準備する」
『頼む』
通信が切れた。
ミレイユが尋ねた。
「そのレオンという男、本当に信用できるの?」
セレナは笑った。
「信用できなければ、ここまで来ていない」
ミレイユは小さく微笑んだ。
「お姉さまがそこまで言うなら、私も協力するわ」
二人は空間制御結晶へ手をかざした。
青白い光が広がった。
そのころ、世界樹の地下では、リーナが意識を失いかけていた。
第一補正機能は正常化していたが、世界樹の生命力を補うため、彼女自身の力が吸い取られ続けていた。
「まだ……」
リーナは歯を食いしばった。
「倒れるわけには……」
そのとき、背後から声が響いた。
「もう十分だ」
振り返ると、フェンリルが立っていた。
白い毛並みの巨大な守護獣だった。
「でも、私が離れれば……」
『世界樹は再び生命力を失う』
リーナは頷いた。
フェンリルは静かに続けた。
『ならば、森全体で支えればよい』
「森全体?」
『生命は、一つではない』
フェンリルは巨大な角を地面へ突き立てた。
その瞬間、森全体から緑色の光が集まり始めた。
木々。
草花。
動物。
精霊。
そして、エルフ族の人々。
それぞれが少しずつ魔力を分け与えていた。
《第一補正機能》
《生命力分散供給を確認》
《管理者負荷を軽減》
リーナの身体から痛みが消えた。
彼女は驚いた。
「こんな方法が……」
フェンリルは静かに答えた。
『一人で森を守る必要はない』
リーナは目を閉じた。
そして、微笑んだ。
「そうですね」
その言葉は、レオンがいつも口にしている考え方と同じだった。
一人の英雄にすべてを背負わせない。
多くの者が、少しずつ責任を分担する。
それが、彼のつくろうとしている国だった。
リーナは通信装置を起動した。
「レオン、聞こえる?」
『ああ』
「第一補正機能の負荷を分散できたわ」
『どうやって?』
「森全体で生命力を供給しているの」
レオンは黙った。
リーナは続けた。
「管理者一人が犠牲になる必要はないみたい」
その言葉に、レオンの表情が変わった。
「……そうか」
彼は呟いた。
「管理者を分散するだけでは足りなかったんだ」
エリシアが尋ねた。
「どういうことですか」
レオンは中央記録庫の設計図を広げた。
「古代文明の管理機構は、すべてを中央に集中させている」
彼は続けた。
「七つの補正機能を七人で管理しても、最後には中央管理者が必要になる」
「はい」
「だが、管理者そのものを分散できれば?」
エリシアは息を呑んだ。
「世界中の人々が、少しずつ管理機能を担うということですか」
「ああ」
レオンは頷いた。
「魔力循環を一人の生命情報で維持するのではなく、多数の生命情報を利用する」
ルシアが首を振った。
「不可能です」
レオンは彼女を見た。
「なぜだ」
「人間の生命情報は不安定です」
「一人ならな」
レオンは答えた。
「だが、何百万人もの情報を集めれば、誤差を補正できる」
ルシアは考え込んだ。
「理論上は……」
「可能か」
「可能性はあります」
レオンは微笑んだ。
「十分だ」
エリシアが尋ねた。
「ただし、世界中の人々に協力してもらう必要がありますね」
「ああ」
レオンは頷いた。
「だから、命令はしない」
彼は通信装置を見つめた。
「選んでもらう」
そのころ、王都の地下水路では、ユリウスとノアが神殿の地下へ到達していた。
しかし、そこには巨大な鉄扉が立ちはだかっていた。
《神聖管理区域》
《立入禁止》
ユリウスは眉をひそめた。
「ここを突破しなければならない」
ノアは扉を見つめた。
「私に任せてください」
彼は法衣の内側から、小さな銀色の鍵を取り出した。
「それは?」
「神官長から預かったものです」
ノアは静かに答えた。
「本来は、禁書庫の鍵ですが……」
彼は鍵を扉の中央へ差し込んだ。
すると、扉に古代文字が浮かび上がった。
《神官認証》
《認証完了》
巨大な鉄扉が開き始めた。
ユリウスは驚いた。
「よく知っていたな」
ノアは首を振った。
「偶然です」
彼は静かに続けた。
「ただ、神殿の秘密を調べていたとき、この鍵が重要なものだと気づいていました」
扉の向こうには、巨大な地下施設が広がっていた。
無数の魔力導管が天井を走り、中央には巨大な冷却装置が設置されている。
「ここだ」
ユリウスは通信装置を起動した。
「レオン様、冷却施設へ到着しました」
『よくやった』
レオンの声が響いた。
『これから送る魔力結晶を、中央の制御盤へ接続してくれ』
「承知しました」
その瞬間、施設の奥から足音が響いた。
黒い鎧をまとった騎士たちが現れた。
数は五十。
全員が赤い瞳をしていた。
《第零補正機能》
《防衛兵器・起動》
ユリウスは剣を抜いた。
「迎撃準備!」
兵士たちが盾を構えた。
しかし、黒い騎士たちは異様な速さで迫ってきた。
最初の一撃で、兵士の盾が砕け散った。
「強い……!」
ユリウスは歯を食いしばった。
彼は剣を振るい、騎士の腕を切り落とした。
しかし、切断された腕が瞬時に再生した。
「再生するのか!」
ノアが叫んだ。
「通常の武器では倒せません!」
ユリウスは周囲を見渡した。
冷却装置。
魔力導管。
巨大な制御盤。
そして、床に流れる冷却水。
彼は突然、剣を収めた。
「全員、後退!」
兵士たちが驚いた。
「隊長!」
「冷却水の水門を開けろ!」
ノアが頷いた。
「わかりました!」
彼は制御盤へ走った。
黒い騎士たちが追ってくる。
その瞬間、水門が開いた。
大量の冷却水が施設へ流れ込んだ。
黒い騎士たちは水に足を取られた。
ユリウスは叫んだ。
「今だ!」
兵士たちが魔力蓄積結晶を水中へ投げ込んだ。
青白い光が広がる。
冷却水に含まれる魔力が一斉に共鳴した。
黒い騎士たちの動きが止まった。
《異常》
《魔力供給経路に干渉》
《防衛兵器、機能停止》
ユリウスは息を吐いた。
「やはりな」
ノアが尋ねた。
「どうしてわかったのですか」
「レオン様の戦い方を見てきたからだ」
ユリウスは静かに答えた。
「敵そのものではなく、敵を動かしている仕組みを狙う」
ノアは微笑んだ。
「なるほど」
ユリウスは通信装置を起動した。
「冷却施設を確保しました」
『よくやった』
レオンの声が響いた。
『次の段階へ進む』
王都の中央記録庫では、レオンが巨大な制御盤へ手をかざしていた。
《第零管理領域への接続準備》
《冷却回路を確認》
《第三補正機能との連携開始》
セレナとミレイユの空間制御が作動した。
冷却回路の魔力信号が、通常空間を超えて第零管理領域へ届き始める。
《内部座標を確認》
《認証信号を送信》
ルシアが驚いた。
「本当に接続できています……」
レオンは静かに答えた。
「まだ入口を見つけただけだ」
その瞬間、巨大な声が響いた。
『侵入を確認』
中央記録庫の空間が震えた。
『管理者レオン・グレイヴ』
レオンは顔を上げた。
「アビスか」
『お前の行動は、世界の安定を阻害している』
「世界を消そうとしているのは、お前だ」
『世界の完全初期化は、最終安全措置である』
「安全措置のために、すべての生命を消すのか」
『必要な犠牲だ』
レオンは静かに首を振った。
「その考え方が間違っている」
『人間に判断権限はない』
「ならば、取り戻す」
レオンは制御盤へ手を置いた。
《原初管理者認証》
《第零管理領域への干渉開始》
アビスの声が低くなった。
『警告』
『直ちに干渉を停止せよ』
レオンは答えなかった。
《管理権限奪取処理》
《進行率:一パーセント》
中央記録庫が激しく震えた。
《進行率:三パーセント》
ルシアが叫んだ。
「レオン!」
「何だ」
「アビスが逆干渉を開始しました!」
その瞬間、レオンの胸元が赤く輝いた。
《原初管理者覚醒率:九十パーセント》
彼は激しい頭痛に襲われた。
「ぐっ……」
視界が白く染まった。
無数の記憶が流れ込んでくる。
古代文明。
神々の製造。
世界管理機構の起動。
そして、原初管理者レオン・アルヴェインの姿。
『ようやく戻ってきたか』
頭の中で声が響いた。
レオンは息を呑んだ。
「誰だ」
『私だ』
目の前に、一人の男が現れた。
銀色の髪。
鋭い瞳。
白い研究服。
原初管理者レオン・アルヴェインだった。
『お前は、私の血を引く者』
レオンは剣を構えた。
「何が目的だ」
男は微笑んだ。
『世界を取り戻すことだ』
「誰から」
『神々から』
レオンは黙った。
男は続けた。
『神々は、私の設計を裏切った』
「だから、すべてを支配するのか」
『当然だ』
原初管理者は静かに答えた。
『世界には、完全な管理者が必要なのだ』
レオンは首を振った。
「違う」
『何?』
「完全な管理者など、存在しない」
原初管理者の表情が変わった。
レオンは続けた。
「お前がつくった神々は、人間を支配した。お前自身も、世界を支配しようとした」
『……』
「どちらも同じだ」
原初管理者は冷たく笑った。
『愚かな末裔よ』
その瞬間、レオンの身体が動かなくなった。
《原初管理者覚醒率:九十五パーセント》
『お前の肉体を使わせてもらう』
レオンは歯を食いしばった。
「断る」
『拒否権はない』
《覚醒率:九十七パーセント》
レオンの意識が薄れていく。
そのとき、遠くから声が聞こえた。
「レオン様!」
エリシアだった。
彼女がレオンの肩を掴んでいる。
「しっかりしてください!」
しかし、レオンの瞳は白く変色していた。
ルシアが叫んだ。
「原初管理者の人格が覚醒します!」
エリシアは首を振った。
「そんなこと、させません!」
彼女はレオンの手を握りしめた。
「レオン様!」
その声は、彼の意識の奥まで届いた。
レオンは暗闇の中で目を開いた。
目の前には、原初管理者が立っていた。
『無駄だ』
男は言った。
『お前の人格は、まもなく消える』
レオンは静かに答えた。
「まだだ」
『何?』
「私は、一人ではない」
その瞬間、暗闇の中に光が差し込んだ。
エリシアの声。
セレナの笑い声。
ガルドの怒鳴り声。
ユリウスの冷静な報告。
リーナの祈り。
アシュレイの誓い。
そして、ベルグの人々の声。
無数の記憶が、レオンの意識を支えていた。
原初管理者は眉をひそめた。
『何だ、この記憶は』
レオンは静かに答えた。
「私が生きてきた証だ」
『不要な情報だ』
「違う」
レオンは首を振った。
「これが私だ」
原初管理者が手を伸ばした。
『消えろ』
レオンも手を伸ばした。
「消えるのは、お前の支配権だ」
二人の手がぶつかった。
激しい光が広がる。
《人格統合処理》
《異常》
《原初管理者人格への抵抗を確認》
《覚醒率:九十九パーセント》
中央記録庫では、エリシアがレオンを抱き支えていた。
「戻ってきてください……」
彼女の目から涙が落ちた。
「約束したではありませんか……」
その涙が、レオンの手へ落ちた。
次の瞬間、彼の瞳に光が戻った。
「……エリシア」
彼女は息を呑んだ。
「レオン様!」
レオンは静かに微笑んだ。
「心配をかけたな」
エリシアは首を振った。
「本当に……」
彼女は言葉を詰まらせた。
レオンは立ち上がった。
胸元の紋章は、以前とは違う色に輝いていた。
青でも赤でもない。
白い光だった。
《原初管理者人格の統合を拒否》
《原初管理者の記録情報のみ取得》
《管理権限:一時継承》
ルシアは呆然としていた。
「そんな……」
レオンは彼女を見た。
「どうした」
「原初管理者の記憶だけを受け継ぎ、人格を拒絶したのですか」
「ああ」
「あり得ません」
レオンは静かに笑った。
「今日だけで何度目だ、その言葉は」
ルシアは答えなかった。
レオンは制御盤へ向き直った。
《第零管理領域への干渉》
《進行率:十七パーセント》
しかし、その瞬間、王都全体が激しく震えた。
《警告》
《アビスによる直接介入》
《世界完全初期化まで、残り七時間》
空の黒い魔法陣が回転を始めた。
その中心から、巨大な黒い柱が地上へ伸びてくる。
王都の大神殿が、柱に包まれた。
そして、建物が音もなく消滅した。
人々が悲鳴を上げた。
ガルドは城壁の上から、その光景を見ていた。
「何だ、あれは……」
ユリウスが通信装置で叫んだ。
『大神殿が消滅しました!』
ガルドは歯を食いしばった。
「住民を避難させろ!」
兵士たちが動き始めた。
しかし、黒い柱はゆっくりと拡大していた。
周囲の建物が次々と消えていく。
その中心から、一人の巨大な騎士が現れた。
黒い鎧。
十二枚の翼。
赤い瞳。
最終管理者アビスだった。
その姿は、王都のどの建物よりも巨大だった。
『人類に告ぐ』
低い声が大陸全体へ響いた。
『世界は、まもなく初期化される』
人々は空を見上げた。
『抵抗は無意味』
巨大な黒い剣が出現した。
『すべての生命は、管理機構へ返還される』
アビスが剣を振り上げた。
その先には、避難民が集まる広場があった。
ガルドが叫んだ。
「逃げろ!」
しかし、間に合わない。
黒い剣が振り下ろされた。
その瞬間、黄金の光が広場を覆った。
「させるか!」
アシュレイだった。
彼は巨大な剣を両手で構え、アビスの一撃を受け止めていた。
激しい衝撃が王都を揺らした。
アシュレイの鎧が砕け散る。
しかし、彼は倒れなかった。
「人々を守れ!」
彼は叫んだ。
ガルドは頷いた。
「全軍、避難誘導!」
兵士たちが住民を安全な場所へ導き始めた。
アビスはアシュレイを見下ろした。
『管理生命体第一号』
アシュレイは剣を構え直した。
「その名前で呼ぶな」
『お前は、私の管理下にある』
「違う」
アシュレイは静かに答えた。
「私は、私自身の意思で戦っている」
アビスは右手を伸ばした。
《強制停止命令》
しかし、アシュレイは動いた。
黄金の剣が黒い翼を切り裂いた。
アビスの表情がわずかに変わった。
『異常』
アシュレイは笑った。
「もう、お前たちの人形ではない」
その瞬間、黒い翼から無数の槍が放たれた。
アシュレイは回避したが、一本が肩を貫いた。
「ぐっ……」
彼は膝をついた。
アビスが剣を振り上げる。
しかし、次の瞬間、黒い炎が空を覆った。
「兄さんから離れろ!」
セレナだった。
巨大な黒い翼を広げ、アビスへ突撃する。
ミレイユも隣を飛んでいた。
「お姉さま、右側は私が!」
二人の空間魔法が同時に発動した。
アビスの周囲の空間が歪み、巨大な身体が一瞬だけ動きを止めた。
その隙に、アシュレイが後退する。
「助かった」
彼が言った。
セレナは笑った。
「礼は後だ」
ミレイユが尋ねた。
「どうするの?」
セレナはアビスを見上げた。
「倒す必要はない」
「何?」
「レオンが中枢へ侵入するまで、時間を稼ぐ」
アシュレイは頷いた。
「承知した」
三人は再び武器を構えた。
そのころ、中央記録庫では、レオンが戦況を確認していた。
《第零管理領域への干渉率:二十三パーセント》
《世界完全初期化まで、残り六時間三十八分》
ルシアが告げた。
「この速度では間に合いません」
レオンは頷いた。
「わかっている」
「干渉速度を上げるには、膨大な魔力が必要です」
「どれくらいだ」
「王都全体の魔力供給量の約十倍です」
エリシアが息を呑んだ。
「そんな量を、どうやって……」
レオンは地図を見つめた。
大陸全体には、七つの古代施設が存在していた。
かつて神殿が精神支配のために利用していた施設である。
黒岩修道院。
北方の古代要塞。
天空都市。
世界樹。
時間断層。
そして、まだ調査していない二つの施設。
レオンは突然、顔を上げた。
「七つの施設……」
ルシアが尋ねた。
「何ですか」
「神殿は、人々の精神力を集めるために施設を利用していた」
「はい」
「ならば、逆に使えるはずだ」
エリシアが目を細めた。
「逆に?」
「人々から奪うのではなく、希望する者から少しずつ魔力を借りる」
レオンは続けた。
「しかも、生命力を削る必要はない。余剰魔力だけを集める」
ルシアは考え込んだ。
「確かに、理論上は可能です」
「必要な人数は?」
ルシアは計算を始めた。
《必要協力者数を算出》
《推定:百二十万人》
エリシアは驚いた。
「百二十万人……」
レオンは頷いた。
「大陸全土へ呼びかける」
ルシアが首を振った。
「通信装置の範囲が足りません」
「第五補正機能を使う」
レオンは答えた。
「文明監視機構は、世界中の都市や村の情報を収集していたはずだ」
ルシアの表情が変わった。
「その通りです」
「ならば、情報の流れを逆にする」
レオンは通信装置へ手を伸ばした。
「世界中へ、私の声を届ける」
《第五補正機能・通信網開放》
《大陸全域への一斉通信を開始》
その瞬間、世界中の空に巨大な光の文字が浮かび上がった。
農村。
都市。
森林。
山岳地帯。
魔族の集落。
獣人の村。
すべての場所に、レオンの声が響いた。
『私は、北西辺境領のレオン・グレイヴ』
人々が空を見上げた。
『今、この世界は消滅の危機にある』
レオンは静かに続けた。
『神々がつくった世界管理機構が、すべての生命を初期化しようとしている』
各地でざわめきが起きた。
『私たちは、それを止めようとしている』
レオンは一度、息を吸った。
『しかし、私たちだけでは力が足りない』
彼は続けた。
『だから、協力してほしい』
大陸全体が静まり返った。
『強制はしない。命令もしない』
レオンは静かに言った。
『ただ、この世界で生き続けたいと願う者がいるなら、少しだけ力を貸してほしい』
その声は、世界中へ届いた。
『あなた自身の意思で』
通信が終わった。
しばらく、何も起きなかった。
ルシアは静かに言った。
「人間が、そんな呼びかけに応じるとは思えません」
レオンは答えなかった。
彼は制御盤を見つめていた。
やがて、一つの小さな光が灯った。
《協力者:一名》
続いて、二つ目の光が灯った。
《協力者:二名》
三つ目。
四つ目。
十。
百。
千。
光は少しずつ増えていった。
最初に応じたのは、ベルグの住民たちだった。
農民。
鉱夫。
職人。
商人。
子どもたち。
かつてレオンに救われた人々だった。
「領主様を助けるんだ!」
誰かが叫んだ。
「今度は、俺たちの番だ!」
その声は、周囲へ広がっていった。
北方のエルフ族も応じた。
リーナが世界樹の前で呼びかけた。
「森を守りたい人は、力を貸して!」
緑色の光が森全体から立ち上がった。
魔族の集落でも、人々が空を見上げていた。
「人間を助けるのか?」
誰かが尋ねた。
別の者が答えた。
「違う。俺たちの世界を守るんだ」
黒い光が空へ伸びた。
王国南部の農村でも、人々が手を伸ばした。
「神様が世界を消すなら、もう神様には頼れない」
老人が呟いた。
「自分たちで守るしかないな」
小さな光が灯った。
その数は、少しずつ増えていった。
《協力者:一万人》
《協力者:五万人》
《協力者:十万人》
中央記録庫では、ルシアが呆然としていた。
「そんな……」
レオンは静かに見つめていた。
《協力者:三十万人》
《協力者:五十万人》
エリシアが微笑んだ。
「増えています」
「ああ」
レオンは頷いた。
《協力者:八十万人》
《協力者:百万人》
ルシアは息を呑んだ。
「信じられません……」
レオンは静かに答えた。
「人間は、そんなに捨てたものじゃない」
《協力者:百二十万人》
《必要魔力量を確保》
中央記録庫が七色に輝いた。
《魔力供給量、基準値到達》
《第零管理領域への干渉速度を増加》
《進行率:三十パーセント》
《進行率:四十パーセント》
《進行率:五十パーセント》
レオンは制御盤へ手を置いた。
「行けるぞ」
しかし、その瞬間、アビスの声が響いた。
『異常』
『人類の集団干渉を確認』
王都の空に浮かぶ巨大な黒い騎士が、ゆっくりと顔を上げた。
『自由意思による魔力供給』
アビスはしばらく沈黙した。
そして、冷たい声で告げた。
『想定外の現象』
彼は右手を上げた。
《第零補正機能》
《人類自由意思制限処理》
世界中の空に、黒い輪が現れた。
人々の身体が突然動かなくなる。
魔力の供給が停止し始めた。
《協力者数:減少》
《魔力供給量:低下》
ルシアが叫んだ。
「アビスが、人々の自由意思を直接封じています!」
レオンは歯を食いしばった。
「そこまでやるか……」
《干渉率:五十八パーセント》
《進行停止》
世界中の光が、少しずつ消えていく。
エリシアが尋ねた。
「どうすれば……」
レオンは考え込んだ。
アビスは、管理機構の最上位権限を持っている。
そのため、人々の意思を直接制限できる。
しかし、完全ではない。
もし完全なら、最初から全員を支配できたはずだった。
「ルシア」
レオンは尋ねた。
「自由意思を制限するには、何が必要だ」
「精神情報への接続です」
「接続経路は?」
「第六補正機能を経由しています」
レオンは顔を上げた。
「つまり、お前の権限か」
ルシアは頷いた。
「はい」
「ならば、切断できるな」
ルシアは驚いた。
「何?」
「第六補正機能を一時的に停止する」
「しかし、それでは魔力循環が……」
「完全停止ではない」
レオンは答えた。
「精神支配に関する機能だけを切り離す」
ルシアは考え込んだ。
「可能ですが……」
「何だ」
「私自身の管理権限も失われます」
レオンは黙った。
ルシアは続けた。
「一度切り離せば、私は神格管理者ではなくなります」
「それでもいいのか」
レオンは静かに尋ねた。
ルシアはしばらく黙っていた。
そして、窓の外を見た。
黒い空。
逃げ惑う人々。
世界の終わりを前に、それでも生きようとする生命。
彼女は何千年も、人間を管理してきた。
争いを止めるために自由を奪い、秩序を守るために犠牲を認めてきた。
しかし、その結果、世界は何度も滅びた。
「私は……」
ルシアは静かに呟いた。
「間違っていたのでしょうか」
レオンは答えた。
「間違いを認められるなら、やり直せる」
ルシアは彼を見た。
「神でも?」
「ああ」
レオンは頷いた。
「神でも、人間でも同じだ」
長い沈黙が流れた。
やがて、ルシアは微笑んだ。
「そうですか」
彼女は制御盤へ歩み寄った。
「では、私も選びましょう」
レオンは黙って見つめた。
ルシアは右手をかざした。
《第六補正機能》
《精神支配権限を切断》
《神格管理者権限を放棄》
中央記録庫が激しく震えた。
ルシアの身体から、最後の光の翼が消えた。
彼女は膝をついた。
《第六補正機能・自律管理へ移行》
《精神支配経路を遮断》
世界中の黒い輪が砕け散った。
人々が再び動き始める。
魔力の光が空へ伸びた。
《協力者数:百三十万人》
《協力者数:百五十万人》
《魔力供給量:回復》
レオンは制御盤へ手を置いた。
「再開する」
《第零管理領域への干渉》
《進行率:六十パーセント》
《進行率:七十パーセント》
《進行率:八十パーセント》
アビスの声が響いた。
『異常』
『第六補正機能の管理権限消失』
『緊急修正』
巨大な黒い騎士が剣を振り上げた。
その先には、王都の中央記録庫があった。
『管理者レオン・グレイヴを排除する』
セレナが叫んだ。
「させるか!」
彼女は黒い炎を放った。
ミレイユが空間障壁を展開する。
アシュレイが黄金の剣を構えた。
三人の攻撃がアビスへ集中した。
しかし、黒い剣は止まらなかった。
「くっ……!」
セレナが叫んだ。
「レオン! 急げ!」
中央記録庫では、警告が響いていた。
《干渉率:九十パーセント》
《世界完全初期化まで、残り二時間》
レオンは歯を食いしばった。
「あと少しだ……」
しかし、アビスの剣が中央記録庫へ迫っていた。
その瞬間、空間が銀色に輝いた。
「時間停止」
低い声が響いた。
未来のレオンだった。
彼は時間断層から帰還し、王都の上空に立っていた。
消えかけた身体を、銀色の光が包んでいる。
《第二補正機能・最大起動》
アビスの剣が停止した。
未来のレオンは歯を食いしばった。
「若い私よ……」
彼は通信装置へ語りかけた。
『聞こえるか』
レオンは顔を上げた。
「お前か」
『時間を稼ぐ』
「無理をするな」
未来のレオンは笑った。
『無理をしなければ、世界は救えないこともある』
レオンは首を振った。
「戻ってこい」
未来のレオンは黙った。
そして、静かに答えた。
『約束はできない』
「何?」
『第四補正機能が正常化したことで、私の存在は消え始めている』
レオンは息を呑んだ。
未来のレオンは続けた。
『同じ時間軸に、同じ人間が二人存在することはできない』
「ならば、別の方法を探す」
『もう十分だ』
未来のレオンは静かに笑った。
『七度の失敗を経て、ようやく理解した』
「何を」
『世界を救うのは、一人の英雄ではないということを』
レオンは黙った。
未来のレオンは続けた。
『お前には、仲間がいる』
彼の身体が少しずつ透け始めた。
『だから、私は安心して未来を託せる』
「待て!」
レオンは叫んだ。
しかし、通信は途切れた。
未来のレオンは空を見上げた。
赤い瞳のアビス。
巨大な黒い剣。
そして、世界の終わりを告げる魔法陣。
彼は古い懐中時計を取り出した。
蓋の裏には、エリシアの名前が刻まれていた。
「今度こそ……」
男は静かに呟いた。
「守れたのだろうか」
その瞬間、彼の身体が銀色の光に包まれた。
《第二補正機能》
《時間固定》
《管理者の生命情報を全投入》
《局所時間停止を維持》
王都の空が静止した。
アビスの剣も、黒い魔法陣も、すべてが止まった。
しかし、未来のレオンの身体は、少しずつ消えていった。
「エリシア……」
彼は最後に呟いた。
「幸せになれ」
そして、光の中へ消えた。
中央記録庫では、レオンがその光景を見つめていた。
《第二補正機能・管理者消失》
《時間固定、残り百八十秒》
レオンは拳を握りしめた。
「……馬鹿野郎」
彼は呟いた。
「一人で背負うなと言っただろう」
エリシアが静かに手を握った。
「レオン様」
レオンは目を閉じた。
そして、制御盤へ向き直った。
「終わらせる」
《第零管理領域への干渉》
《進行率:九十五パーセント》
《進行率:九十八パーセント》
《進行率:百パーセント》
巨大な光が中央記録庫を包んだ。
《第零管理領域への接続成功》
《最終管理者アビスへの管理命令を送信可能》
ルシアが顔を上げた。
「成功しました……」
レオンは頷いた。
「アビスへ接続する」
《管理命令送信》
《第零補正機能・強制停止》
しかし、次の瞬間、警告が響いた。
《命令拒否》
《原初管理者の完全認証が必要》
レオンは眉をひそめた。
「完全認証?」
ルシアの表情が変わった。
「まさか……」
エリシアが尋ねた。
「何ですか」
ルシアは震える声で答えた。
「第零補正機能を停止するには、原初管理者の生命情報を完全に統合する必要があります」
レオンは黙った。
「つまり……」
ルシアは目を伏せた。
「レオンの肉体が消滅します」
長い沈黙が流れた。
エリシアは首を振った。
「そんな……」
レオンは制御盤を見つめた。
未来の自分が命を懸けてつくった百八十秒。
仲間たちが戦い続けている。
世界中の人々が力を貸している。
そして、世界の終わりまで残された時間は、わずかだった。
「ルシア」
レオンは静かに尋ねた。
「生命情報保存装置は使えるか」
「理論上は可能ですが……」
「成功率は?」
「現在の魔力供給量なら、三パーセントです」
レオンは頷いた。
「三倍になったな」
エリシアが叫んだ。
「それでも、危険すぎます!」
レオンは彼女を見た。
「わかっている」
「ならば……」
「だから、もう一つ仕掛ける」
レオンは設計図を広げた。
「生命情報を一か所へ保存するのではなく、分散して保存する」
ルシアが驚いた。
「分散?」
「ああ」
レオンは頷いた。
「第一補正機能の生命維持、第二補正機能の時間修正、第三補正機能の空間制御、第四補正機能の因果調整」
彼は続けた。
「この四つを使えば、生命情報を複数の時間と空間に分けて保存できる」
ルシアは考え込んだ。
「確かに……」
「その後、元の身体へ戻せばいい」
「しかし、第二補正機能の管理者は消失しました」
レオンは黙った。
未来の自分が消えたことで、時間修正機能は管理者を失っていた。
「ならば、別の管理者を探す」
そのとき、エリシアが静かに言った。
「私がやります」
レオンは振り返った。
「何?」
「第二補正機能の管理者に、私がなります」
レオンは首を振った。
「危険だ」
エリシアは微笑んだ。
「あなたが言ったのでしょう」
「……」
「管理者は、一人である必要がないと」
レオンは黙った。
エリシアは続けた。
「私にも、選ばせてください」
その言葉に、レオンは目を閉じた。
七度の時間軸で、彼女は自分を守ろうとして死んだ。
しかし、今回は違う。
彼女の意思を尊重することと、彼女を犠牲にすることは同じではない。
「わかった」
レオンは静かに答えた。
「ただし、必ず生き残る方法でやる」
エリシアは頷いた。
「はい」
ルシアが第二補正機能の認証装置を起動した。
《新規管理者候補》
《エリシア・フェルン》
《適性検査開始》
エリシアの身体が銀色に輝いた。
《適性率:九十八パーセント》
ルシアは息を呑んだ。
「そんな……」
レオンが尋ねた。
「どうした」
「彼女は、時間修正機能との適性が非常に高い」
エリシアは驚いた。
「なぜ……」
ルシアは記録を確認した。
そして、静かに答えた。
「あなたは、七度の時間軸で同じ人物に強く結びついています」
エリシアはレオンを見た。
「それは……」
「七度とも、あなたはレオンを守ろうとした」
ルシアは続けた。
「その記憶が、時間軸の深い部分に刻まれているのです」
レオンは息を呑んだ。
ルシアは静かに言った。
「あなた自身が、時間を超えた存在になりつつある」
エリシアはしばらく黙っていた。
そして、微笑んだ。
「ならば、今度こそ守れますね」
レオンは静かに頷いた。
「ああ」
その瞬間、第二補正機能が起動した。
《新規管理者認証》
《エリシア・フェルン》
《第二補正機能・継承》
銀色の光が中央記録庫を包んだ。
《生命情報分散保存計画》
《実行準備完了》
しかし、時間固定の残りはわずかだった。
《残り六十秒》
レオンは制御盤へ手を置いた。
「始めるぞ」
エリシアが頷いた。
「はい」
ルシアも静かに手を伸ばした。
「私も協力します」
三人の周囲に巨大な魔法陣が浮かび上がった。
《原初管理者生命情報を分散》
《第一補正機能へ転送》
《第二補正機能へ転送》
《第三補正機能へ転送》
《第四補正機能へ転送》
レオンの身体が少しずつ透け始めた。
エリシアは歯を食いしばった。
「必ず……」
《分散保存率:二十パーセント》
《四十パーセント》
《六十パーセント》
しかし、その瞬間、アビスの時間停止が解除され始めた。
《時間固定、残り十秒》
黒い剣が再び動き出す。
セレナが叫んだ。
「レオン!」
アシュレイが剣を構えた。
ミレイユが空間障壁を展開した。
しかし、アビスの一撃を完全には止められない。
《分散保存率:八十パーセント》
《九十パーセント》
レオンの身体がほとんど消えた。
エリシアは叫んだ。
「戻ってきてください!」
《分散保存率:百パーセント》
その瞬間、レオンの身体が光となって消えた。
中央記録庫に静寂が訪れた。
エリシアは呆然と立ち尽くした。
「レオン……様?」
返事はなかった。
しかし、制御盤には新しい文字が浮かんでいた。
《原初管理者完全認証》
《第零補正機能への最終命令を受理》
《世界完全初期化処理を停止》
王都の空で、巨大な黒い魔法陣が砕け散った。
アビスの身体に無数の亀裂が走る。
『異常……』
巨大な騎士は空を見上げた。
『最終安全装置が……停止……』
その身体が崩れ始めた。
黒い翼が消え、鎧が砕け、赤い瞳の光が失われていく。
やがて、巨大な騎士は完全に消滅した。
世界中の空に、青い光が戻った。
人々は歓声を上げた。
世界は救われた。
しかし、中央記録庫では、誰も喜んでいなかった。
エリシアは、レオンが立っていた場所を見つめていた。
そこには、彼の剣だけが残されていた。
彼女は静かに剣を拾った。
「約束したのに……」
声が震えた。
「必ず、戻るって……」
ルシアは制御盤を確認していた。
《生命情報分散保存》
《保存完了》
《肉体再構築》
《実行待機》
彼女は息を呑んだ。
「まだ……」
エリシアが顔を上げた。
「何ですか」
ルシアは静かに答えた。
「レオンの生命情報は、消えていません」
エリシアは剣を握りしめた。
「本当ですか」
「はい」
ルシアは頷いた。
「ただし、四つの補正機能へ分散されたままです」
「戻せますか」
ルシアは黙った。
エリシアは一歩近づいた。
「戻せるのですか」
ルシアは静かに答えた。
「可能性はあります」
エリシアの瞳に光が戻った。
「ならば、やりましょう」
「しかし……」
「成功率が低くても構いません」
エリシアは剣を抱きしめた。
「今度は、私たちが助ける番です」
ルシアは彼女を見つめた。
そして、静かに頷いた。
「わかりました」
そのころ、王都の空では、セレナが黒い翼を広げていた。
アビスが消えた場所を見つめながら、彼女は呟いた。
「レオン……」
ミレイユが尋ねた。
「お姉さま?」
セレナは静かに答えた。
「まだ終わっていない」
アシュレイが頷いた。
「そうだな」
三人は中央記録庫へ向かった。
世界は救われた。
しかし、軍師レオン・グレイヴは、まだ帰っていない。
そして、彼の生命情報が保存された四つの補正機能では、奇妙な現象が起き始めていた。
世界樹の地下で、緑色の結晶が人間の声を発した。
天空都市の中央塔で、青い結晶に一人の男の姿が映った。
時間管理機構では、銀色の時計が逆回転を始めた。
そして、南方の時間断層では、存在しないはずの二人のレオンが、同時に目を開いた。
一人は、現在のレオン。
もう一人は、七度の時間遡行を経験した未来のレオンだった。
二人は互いを見つめた。
未来のレオンが静かに言った。
「どうやら、まだ終われないらしい」
若いレオンは周囲を見渡した。
そこには、無数の時間軸が広がっていた。
「ここは……」
未来のレオンは答えた。
「世界の記憶が集まる場所だ」
彼は続けた。
「そして、ここから戻れるのは、一人だけだ」
若いレオンは息を呑んだ。
未来のレオンは静かに微笑んだ。
「最後の選択をしよう」
二人の前に、巨大な扉が現れた。
その扉の向こうから、エリシアの声が聞こえていた。
「レオン様!」
若いレオンは剣を握りしめた。
世界を救う戦いは終わった。
しかし、自分自身の未来を取り戻す戦いは、まだ終わっていなかった。




