8.変わったこと
王宮会計局に移ってから、エミリーの朝は少しだけ早くなった。
けれど、不思議と苦ではなかった。
王宮の一角に設けられた執務室は、以前の商工会議所よりもずっと静かで、紙とインクの匂いもどこか落ち着いている。
机の上には、その日に確認すべき帳簿が整然と並べられていた。
日付順に揃えられた配給記録。
納品書。
在庫表。
誰かが、最初から見やすいようにまとめてくれている。
それだけのことが、まだ少し不思議だった。
以前は違った。
乱雑に積まれた帳簿を自分で整え、抜けた記録を探し、書き直された数字の痕跡を拾わなければならなかった。
けれど今は、最初から「正しく見る」ことを前提に、すべてが置かれている。
それだけで、胸のどこかが静かにほどけた。
ペンを取り、納品数を確認する。
孤児院向けの小麦。
救貧院向けの薬草。
冬用の毛布。
どれも、以前とは違って、数字が真っ直ぐだった。
不自然な丸めもない。
曖昧な書き方もない。
ごまかしの余地すら残っていない。
エミリーは帳簿の端をそっと押さえ、小さく息を吐く。
(……きちんと届いている)
それだけのことが、こんなにも嬉しい。
「ローデン嬢」
控えめな声に顔を上げる。
扉のところに立っていたのは、リオンだった。
手には書類の束を持っている。
「こちらの支出記録、あなたに確認してほしいのですが」
自然な口調だった。
命令でもなく、押しつけでもない。
ただ、当然のように頼っている声音。
「はい」
エミリーは立ち上がり、書類を受け取る。
視線を落とし、数枚めくる。
「こちらの数字、昨日の記録と一行ずれています」
すぐに指摘すると、リオンはわずかに目を細めた。
「やはり、そうですか」
彼は机の向かいに立ったまま、続きを待っている。
「こちらを正とするなら、在庫表の方を修正した方が自然です」
「分かりました。あなたの判断に従います」
あまりにも迷いなく言われて、エミリーは一瞬だけ目を瞬いた。
今のは、簡単な確認だった。
けれどそこには、はっきりとした信頼があった。
リオンは、それ以上余計なことは言わない。
必要な書類だけを渡し、必要な返答だけを受け取る。
だが、だからこそ分かる。
彼は、エミリーの仕事を軽く見ていない。
“数字を見る人”ではなく、
“正しく支える人”として扱っている。
そしてその視線は、以前より少しだけ、やわらかい。
孤児院で帳簿係の自分が現場へ来たことを、彼は覚えていた。
数字だけでなく、食卓まで見ていたことを覚えていた。
そのことを思い出すたび、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
「本日の午後、孤児院への配給確認に同行していただけますか」
リオンが続けた。
「叔母上も来られます」
「アデライン様が?」
「ええ」
その一言だけで、エミリーの背筋が少しだけ伸びた。
リオンの叔母であり、福祉政策を進めてきた高位貴族。
正式に顔を合わせたあの日以来、もう一度会ってみたいと思っていた人でもある。
「現場を見たうえで、今後の配給について話したいと」
「承知しました」
エミリーは頷いた。
頼まれたことが、嬉しかった。
午後。
馬車で王都の外れへ向かう。
窓の外を流れる景色を見ながら、エミリーは膝の上の帳簿をそっと撫でた。
孤児院へ向かうのは、これが初めてではない。
けれど、意味はまるで違っていた。
以前は、違和感を確かめるためだった。
今は、きちんと届いていることを確認するため。
孤児院の門の前には、すでに一台の馬車が止まっていた。
その傍らに立つ女性を見て、エミリーは自然と足を止める。
淡い金髪をゆるくまとめた、穏やかな美貌の女性。
上質だが華美ではないドレス姿は、見る者に威圧感ではなく安心を与える。
アデライン・ヴェルディアだった。
「あなたが、ローデン嬢ですね」
柔らかな声だった。
だが、その奥には確かな意志がある。
「はい。エミリー・ローデンにございます」
エミリーが一礼すると、アデラインは微笑んだ。
「お会いできて嬉しいですわ。前回はきちんとお礼も申し上げられませんでしたもの」
「もったいないお言葉です」
「いいえ」
アデラインは静かに首を振る。
「わたくしの善意が、本当に善意として届いたのは、あなたが記録を諦めなかったからですわ」
その言葉に、エミリーは少しだけ目を伏せた。
隣に立つリオンは何も言わない。
だが、アデラインの言葉に異を唱えないこと自体が、彼の評価なのだと分かる。
中へ入ると、以前とは違う空気が流れていた。
小さな庭には洗い立ての布が干され、建物の中からは子どもたちの声が聞こえる。
遠慮がちな小さな声ではなく、ちゃんと生きている音だった。
エミリーは、ほんのわずかに足を止める。
胸の奥が、きゅっと締まった。
「どうしましたか」
隣のリオンが問う。
「……いえ」
エミリーは小さく首を振る。
「少し、安心しただけです」
リオンは何も言わなかった。
ただ、その言葉をそのまま受け止めるように、静かに頷いた。
その様子を見ていたアデラインが、ふっと微笑む。
「それが分かる方でよかったですわ」
エミリーが顔を上げると、アデラインは優しい目をしていた。
「数字は、時に冷たく見えます。けれど、その向こうにいる人まで見ようとしてくださる方でなければ、預けられませんもの」
その言葉は、静かに胸に沁みた。




