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【完結】帳簿係の地味令嬢、商会の不正を見抜いて王宮に見出されました。  作者: 夏灯みかん


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8/9

8.変わったこと

 王宮会計局に移ってから、エミリーの朝は少しだけ早くなった。


 けれど、不思議と苦ではなかった。


 王宮の一角に設けられた執務室は、以前の商工会議所よりもずっと静かで、紙とインクの匂いもどこか落ち着いている。


 机の上には、その日に確認すべき帳簿が整然と並べられていた。


 日付順に揃えられた配給記録。

 納品書。

 在庫表。


 誰かが、最初から見やすいようにまとめてくれている。


 それだけのことが、まだ少し不思議だった。


 以前は違った。


 乱雑に積まれた帳簿を自分で整え、抜けた記録を探し、書き直された数字の痕跡を拾わなければならなかった。


 けれど今は、最初から「正しく見る」ことを前提に、すべてが置かれている。


 それだけで、胸のどこかが静かにほどけた。


 ペンを取り、納品数を確認する。


 孤児院向けの小麦。

 救貧院向けの薬草。

 冬用の毛布。


 どれも、以前とは違って、数字が真っ直ぐだった。


 不自然な丸めもない。

 曖昧な書き方もない。

 ごまかしの余地すら残っていない。


 エミリーは帳簿の端をそっと押さえ、小さく息を吐く。


(……きちんと届いている)


 それだけのことが、こんなにも嬉しい。


「ローデン嬢」


 控えめな声に顔を上げる。


 扉のところに立っていたのは、リオンだった。


 手には書類の束を持っている。


「こちらの支出記録、あなたに確認してほしいのですが」


 自然な口調だった。


 命令でもなく、押しつけでもない。

 ただ、当然のように頼っている声音。


「はい」


 エミリーは立ち上がり、書類を受け取る。


 視線を落とし、数枚めくる。


「こちらの数字、昨日の記録と一行ずれています」


 すぐに指摘すると、リオンはわずかに目を細めた。


「やはり、そうですか」


 彼は机の向かいに立ったまま、続きを待っている。


「こちらを正とするなら、在庫表の方を修正した方が自然です」


「分かりました。あなたの判断に従います」


 あまりにも迷いなく言われて、エミリーは一瞬だけ目を瞬いた。


 今のは、簡単な確認だった。


 けれどそこには、はっきりとした信頼があった。


 リオンは、それ以上余計なことは言わない。


 必要な書類だけを渡し、必要な返答だけを受け取る。


 だが、だからこそ分かる。


 彼は、エミリーの仕事を軽く見ていない。


 “数字を見る人”ではなく、

 “正しく支える人”として扱っている。


 そしてその視線は、以前より少しだけ、やわらかい。


 孤児院で帳簿係の自分が現場へ来たことを、彼は覚えていた。

 数字だけでなく、食卓まで見ていたことを覚えていた。


 そのことを思い出すたび、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。


「本日の午後、孤児院への配給確認に同行していただけますか」


 リオンが続けた。


「叔母上も来られます」


「アデライン様が?」


「ええ」


 その一言だけで、エミリーの背筋が少しだけ伸びた。


 リオンの叔母であり、福祉政策を進めてきた高位貴族。


 正式に顔を合わせたあの日以来、もう一度会ってみたいと思っていた人でもある。


「現場を見たうえで、今後の配給について話したいと」


「承知しました」


 エミリーは頷いた。


 頼まれたことが、嬉しかった。


 午後。


 馬車で王都の外れへ向かう。


 窓の外を流れる景色を見ながら、エミリーは膝の上の帳簿をそっと撫でた。


 孤児院へ向かうのは、これが初めてではない。


 けれど、意味はまるで違っていた。


 以前は、違和感を確かめるためだった。

 今は、きちんと届いていることを確認するため。


 孤児院の門の前には、すでに一台の馬車が止まっていた。


 その傍らに立つ女性を見て、エミリーは自然と足を止める。


 淡い金髪をゆるくまとめた、穏やかな美貌の女性。

 上質だが華美ではないドレス姿は、見る者に威圧感ではなく安心を与える。


 アデライン・ヴェルディアだった。


「あなたが、ローデン嬢ですね」


 柔らかな声だった。


 だが、その奥には確かな意志がある。


「はい。エミリー・ローデンにございます」


 エミリーが一礼すると、アデラインは微笑んだ。


「お会いできて嬉しいですわ。前回はきちんとお礼も申し上げられませんでしたもの」


「もったいないお言葉です」


「いいえ」


 アデラインは静かに首を振る。


「わたくしの善意が、本当に善意として届いたのは、あなたが記録を諦めなかったからですわ」


 その言葉に、エミリーは少しだけ目を伏せた。


 隣に立つリオンは何も言わない。

 だが、アデラインの言葉に異を唱えないこと自体が、彼の評価なのだと分かる。


 中へ入ると、以前とは違う空気が流れていた。


 小さな庭には洗い立ての布が干され、建物の中からは子どもたちの声が聞こえる。


 遠慮がちな小さな声ではなく、ちゃんと生きている音だった。


 エミリーは、ほんのわずかに足を止める。


 胸の奥が、きゅっと締まった。


「どうしましたか」


 隣のリオンが問う。


「……いえ」


 エミリーは小さく首を振る。


「少し、安心しただけです」


 リオンは何も言わなかった。


 ただ、その言葉をそのまま受け止めるように、静かに頷いた。


 その様子を見ていたアデラインが、ふっと微笑む。


「それが分かる方でよかったですわ」


 エミリーが顔を上げると、アデラインは優しい目をしていた。


「数字は、時に冷たく見えます。けれど、その向こうにいる人まで見ようとしてくださる方でなければ、預けられませんもの」


 その言葉は、静かに胸に沁みた。


 

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