9.予感
孤児院でエミリーたちを出迎えてくれた院長は、前回来たときに応対してくれた院長とは違うシスターだった。
物資の横流しには、受領していた孤児院の前院長も関わっていたということで、彼女は解任され、前回食事の配膳をしていたシスターが新しい院長になっていた。
「本日はありがとうございます。最近は本当に、必要なものがきちんと届くようになりまして」
その言葉に、エミリーは帳簿を開きながら目を伏せる。
以前は、そうではなかったのだ。
記録の上では届いていたものが、現実には届いていなかった。
けれど今は、違う。
数字と現物が一致している。
それが、どれほど尊いことか。
子どもたちが廊下の向こうから顔を出す。
ひとりの小さな女の子が、給仕の盆を抱えながらこちらを見ていた。
頬は前より少しふっくらしていて、目の下の影も薄い。
目が合うと、その子はためらいがちに微笑んだ。
「今日は、パンが二つなの」
誇らしげな声だった。
エミリーは喉の奥が熱くなるのを感じた。
「……そうなのですね」
それ以上、うまく言葉が続かなかった。
アデラインは目を伏せ、短く祈るように指先を組んだ。
その横顔には、安堵と悔いが同時に滲んでいた。
「本当なら、もっと早くこうあるべきでしたのに」
小さく落ちたその言葉に、エミリーはそっと顔を上げた。
「……ですが、今は届いております」
思わず口にしていた。
アデラインが、ゆっくりとこちらを見る。
「あなたが記録してくださったからですわ」
その言葉に、エミリーは息を止めた。
「わたくしは、あの子たちのためにしているつもりでした。けれど実際には、あなたのような方がいなければ、何も守れなかった」
穏やかだが、真摯な声だった。
「ありがとうございます、ローデン嬢」
高位の貴族に、まっすぐそう言われる。
エミリーは、どう返していいか一瞬分からなくなった。
「……私は、記録しただけです」
ようやくそう答えると、リオンが横で小さく目を細めた。
その表情は、誇らしさに少し似ていた。
確認を終え、孤児院を出る頃には、空が少しだけ茜色に染まり始めていた。
帰りの馬車の中は静かだった。
アデラインは別の馬車で先に戻り、今はエミリーとリオンの二人きりだった。
窓の外を眺めながら、エミリーはそっと息を吐く。
「……よかったです」
ぽつりと、言葉がこぼれる。
「何がですか」
リオンが問い返す。
「ちゃんと、届いていて」
それだけ言って、エミリーは少しだけ困ったように笑った。
「当たり前のことなのですけれど」
「ええ」
リオンは静かに答える。
「ですが、その当たり前を守るのは、簡単なことではありません」
エミリーは顔を上げる。
灰色の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
「あなたがいなければ、今もあの子たちには届いていなかった」
その言葉は、あまりに静かで、あまりに真っ直ぐだった。
胸の奥に、すとんと落ちる。
それは感謝の言葉のはずだった。
けれど、ただそれだけではないようにも聞こえてしまう。
エミリーは視線を落とした。
頬が少しだけ熱い。
すると、リオンがふと窓の外へ視線を向けたまま言った。
「……あの日、あなたが孤児院に来ていなければ」
エミリーは顔を上げる。
「私は、あの食卓だけを見て終わっていたかもしれません」
一瞬、意味が分からなかった。
だが、次の言葉で理解する。
「あなたは、数字と現実を繋げていた」
静かな声だった。
「だから、覚えていたのです」
エミリーは息を止める。
ただ“見かけた”からではない。
ただ“帳簿係だった”からでもない。
自分のしていたこと、そのものを見られていたのだ。
「……そうでしたか」
ようやくそれだけ答える。
胸の奥が、じんわりと熱い。
「私には、それが当然でしたので」
「ええ」
リオンは言う。
「あなたにとって当然のことが、他の者にはできなかった」
その言葉は、褒め言葉だった。
けれどただ持ち上げるだけではなく、事実として差し出されている。
だから、余計に胸に残る。
王宮へ戻ったあとも、仕事は残っていた。
帳簿を整理し、報告用の文書をまとめる。
けれど手は軽かった。
書くべきことが明確で、その数字がきちんと誰かの役に立っていると分かっているから。
書類を揃え終えたところで、扉が軽く叩かれた。
「ローデン嬢」
また、リオンだった。
今度は一枚だけ紙を持っている。
「こちら、最終確認を」
「はい」
エミリーは受け取り、目を通す。
短い確認だったが、問題はない。
「大丈夫です」
「ありがとうございます」
リオンはそう言って、すぐには立ち去らなかった。
ほんの一瞬、視線が止まる。
エミリーが、書類を返しながら自然に微笑んだからだ。
それは、自分でも気づかないほど小さな微笑みだった。
けれど、確かに、そこにあった。
リオンの目が、ほんのわずかに見開かれる。
そしてすぐに、普段通りの静かな表情に戻った。
だが、その間をエミリーは見逃さなかった。
「……何か」
少しだけ首を傾げて問うと、リオンは小さく息を吐いた。
「いえ」
短く答える。
だがそのあと、少し迷うような間があった。
普段の彼には珍しい沈黙だった。
やがて、リオンは低く言った。
「あなたがいて助かっています」
短い一言だった。
飾りもない。
甘さもない。
けれど、それだけで十分だった。
エミリーは一瞬、言葉を失う。
以前なら、きっと戸惑っていただけだろう。
褒められても、どう返せばいいのか分からず、俯いて終わっていた。
けれど今は違う。
その言葉が、どんな意味を持っているのか、少しだけ分かる。
信頼されている。
必要とされている。
それを、ちゃんと受け取っていいのだと。
「……ありがとうございます」
エミリーは静かに答えた。
少し驚いたように、自分の声は震えていなかった。
「私も」
そこまで言って、少しだけ迷う。
それでも、言葉を選んで続けた。
「こちらで働けて、よかったと思っています」
リオンは何も言わなかった。
ただ、その灰色の瞳がわずかにやわらいだ。
ふと、エミリーが書類を机に置こうとして手を伸ばす。
同時に、リオンも同じ紙へ手を伸ばした。
指先が、かすかに触れる。
それだけのことなのに、二人とも一瞬だけ動きを止めた。
エミリーの心臓が、不意に跳ねる。
リオンが、ほんのわずかに目を見開く。
そして、静かな顔のまま、しかし耳先だけがうっすらと赤くなった。
その変化に気づいてしまって、エミリーは思わず視線を逸らす。
胸の奥が、さっきよりずっと騒がしい。
「……失礼しました」
先に口を開いたのは、リオンだった。
「い、いえ」
エミリーは慌てて首を振る。
声が少しだけ上ずって、自分でも驚く。
しばし、妙に静かな間が落ちた。
けれどそれは、気まずいだけの沈黙ではなかった。
どこか、甘く落ち着かない沈黙だった。
窓の外では、夕暮れの光が庭を染めていた。
静かな執務室。
整えられた書類。
正しく届く配給。
そして、自然に交わされる信頼の言葉。
かつてのエミリーは、こんな未来を想像していなかった。
真面目に働くことは、ただ損をしないためのものだと思っていた。
けれど、違ったのだ。
真面目に積み重ねたものは、決して無駄ではなかった。
数字も。
記録も。
迷いながら続けた日々も。
すべては、ちゃんと残る。
そして、いつか誰かを救う。
――誰かの心にも、届くのだ。
エミリーは机の上の帳簿にそっと手を置いた。
もう、以前のように俯く必要はない。
自分のしてきたことを、恥じる必要もない。
正しく積み上げたものは、ここにある。
それを知っている人が、今はいる。
ふと顔を上げると、まだ扉のところに立っていたリオンと目が合った。
彼は何も言わない。
けれど、そのまなざしには、以前よりも少しだけあたたかいものが宿っていた。
それは信頼だけではないのかもしれない――
(――と思ってしまうのは、自意識過剰でしょうか)
エミリーは少し赤くなった頬を押さえて、窓を開けた。
窓の外を風が渡っていく。
遠くで、孤児院の子どもたちの笑い声が聞こえた気がした。
エミリーは静かに目を伏せ、もう一度だけ心の中で確かめる。
――大丈夫。
真面目に積み重ねたものは、決して無駄ではなかった。
そしてこれからは。
その先にあるものも、きっと――無駄ではない。




