7.提案
「だから、書簡の差出人を見たとき、驚きませんでした」
その言葉に、エミリーの指先がわずかに動く。
――読んでくれた。
ちゃんと、読んでくれていたのだ。
「新たな配置について、提案があります」
リオンは机の上に書類を置いた。
「王宮会計局はいかがでしょうか」
エミリーは、その文字を見つめた。
王宮会計局。
王宮の支出と記録を扱う部署。
今の自分には、あまりにも遠い場所のように思える。
「現在、福祉関連の物資管理も含めて、再編が進められています」
リオンが説明する。
「正確な記録ができる人材が必要です」
そして、少しだけ口調をやわらげた。
「叔母上――アデライン様も、あなたのことを高く評価しておられます」
エミリーは瞬いた。
アデライン。福祉施設への配給を増やす案を出した貴族の名だ。
「アデライン様が……?」
「ええ」
リオンは頷く。
「叔母上は、私の亡き母の妹です。幼い頃から、私を育ててくれました」
その言葉は静かだったが、そこには確かな敬意と親しみが滲んでいた。
「今回の福祉配給を増やしたのも叔母上です。……善意を利用されたことを、深く悔いておられました」
エミリーは、孤児院で見た薄いスープと、小さなパンを思い出す。
あの善意は、確かにあったのだ。
ただ、途中で歪められていた。
「その叔母上が、あなたに会いたいと」
リオンの言葉に、エミリーの指先がわずかに動く。
「……私に、でしょうか」
「はい」
「どうして」
「記録で人を救った方だからです」
あまりにも迷いのない答えだった。
その一言に、胸の奥が静かに熱を持つ。
自分が。
誰かを救った。
そんなふうに言われたことは、一度もなかった。
「王宮会計局への配置については、急ぎません」
リオンは言う。
「あなたが納得して選んでください」
少しだけ間を置き、続けた。
「ですが、もし王宮会計局を選ばれるなら」
エミリーは顔を上げる。
灰色の瞳が、静かにこちらを見ていた。
「あなたが来てくれると――私も頼もしいです」
一瞬、言葉の意味がうまく飲み込めなかった。
王宮会計局に優秀な人材が加わることを、職務上喜んでいる。
そう考えれば、それだけのことだ。
けれど。
その言い方は、ただの人事の話にしては、少しだけやわらかすぎた。
エミリーの心臓が、ひとつ強く鳴る。
どう返せばいいのか分からず、ほんの少しだけ視線が揺れた。
けれど今は、ただ戸惑うだけでは終わらない。
この人の言葉は、軽いものではないと知っているからだ。
「……ありがとうございます」
小さく、だがはっきりと答える。
「そのように言っていただけるとは、思っておりませんでした」
リオンは何も言わなかった。
ただ、その灰色の瞳がわずかにやわらいだ。
エミリーは書類にもう一度目を落とす。
王宮会計局。
そこは、数字を扱う場所だ。
だが今は、それだけではないように思える。
そこに、自分の席があるかもしれない。
そして――自分を必要としてくれる人が、そこにいるのかもしれない。
「本当に、よろしいのでしょうか」
エミリーは、もう一度問うた。
「私のような者が、そのような場所に」
一瞬の沈黙。
そして。
「あなたは、自分の価値を過小評価しすぎています」
静かに、しかしはっきりと言われた。
「記録は、誰でもできる仕事ではありません」
「……はい」
「正しく、継続し、疑われても崩れずに残すこと」
リオンは続ける。
「それができる人間は、極めて少ない」
エミリーは、言葉を失った。
そんなふうに考えたことは、一度もなかった。
「あなたは、仕事をしていただけです」
その言い方は、あまりにも自然だった。
「ですが、その仕事が、今回多くの人間を救いました」
孤児院の子どもたち。
救貧院の人々。
そして。
――自分自身も。
エミリーの胸の奥に、何かが静かに広がる。
熱ではない。
涙でもない。
ただ、ゆっくりと満たされていく感覚。
「……ありがとうございます」
小さく、頭を下げる。
それ以上の言葉は、出てこなかった。
部屋を出ると、外の光が少しだけ明るく見えた。
同じ廊下。
同じ窓。
同じ空。
なのに、どこか違う。
エミリーは歩きながら、そっと控え帳に触れた。
自分が積み上げてきたもの。
誰にも見られず、誰にも評価されなかったもの。
それが、今。
確かに認められた。
そして――
それを認めた人の言葉が、胸の内に静かに残っている。
(……必要とされている)
その実感が、胸の奥に静かに灯る。
大きなものではない。
けれど、確かに消えない光だった。
ふと、先ほどの言葉を思い返す。
『あなたが来てくれると――私も頼もしいです』
ただの仕事の話のはずなのに。
どうしてあんなふうに、胸の奥に残るのだろう。
それに――
『帳簿係の人間が、自分の足で現場に来ることはほとんどありません』
『あなたは数字だけではなく、食卓を見ていた』
あの人は、ちゃんと見ていたのだ。
最初から。
ただ帳簿を整える人間としてではなく。
自分の足で確かめ、考え、選ぶ人間として。
エミリーは少しだけ頬に熱を感じて、視線を落とした。
それでも、もう俯いてはいない。
自分で選ぶ未来へ。
その先へ。
そこに、静かに差し出された信頼の手があることを、今はもう知っている。




