3.圧力
エミリーは、帳簿を閉じた。指先に、わずかに力が入る。
控え帳には、すでにいくつもの記録が並んでいた。
同じ配給物資。
繰り返されるズレ。
それらはすべて、孤児院や救貧院へ送られるはずのものだった。
――そして、数量は変わらないのに、出庫時の重量が増えている特定の商人が何人かいる。
(……偶然では、ありません)
配給物資の中身が、特定の商人に流れている。
そう結論づけて、エミリーは立ち上がった。
上司の机の前で、静かに一礼する。
「お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「ああ、何だ」
男は書類から目も上げずに答えた。
「帳簿の件で、少し気になる点がありまして」
「気になる?」
ようやく顔を上げる。
だが、その表情はすでに面倒そうだった。
「最近、孤児院および救貧院への配給が増えておりますが」
エミリーは、あくまで淡々と述べる。
「その一部について、中身の重量が出庫時に減っているようです」
男の眉が、わずかに動く。
「また、特定の商人の取引において、出庫時の商品の重量が増えています」
事実だけを並べる。
推測は挟まない。
「……それで?」
返ってきたのは、冷ややかな声だった。
「確認が必要かと存じます。配給物資の管理について、厳格に――」
「余計なことを考えるな」
ぴしゃり、と言葉が遮られる。
エミリーは口を閉じた。
「帳簿上の数は合っている。印もある。問題はない」
「ですが、現物が――」
「辻褄が合っていればいい」
男は、はっきりと言い切った。
「配給は増えている。それで十分だ」
その言葉に、エミリーはわずかに目を上げる。
「福祉貴族様のご厚意だ」
男は続ける。
「数字上は、ちゃんと増えている」
そして、声を落とした。
「それ以上、何を見る必要がある?」
その一言で、理解した。
――知っている。
この人は、分かっている。
そのうえで、見ないことにしている。
「それに」
男は椅子にもたれかかる。
「若い娘が口出しすることではない」
視線が、値踏みするように上下する。
「お前は、自分の仕事だけ、していればいい」
「……承知しました」
エミリーは静かに頭を下げた。
それ以上は、何も言わなかった。
言っても意味がないと分かってしまったからだ。
席へ戻ると、ソフィアが興味深そうにこちらを見ていた。
「また細かいことでも指摘したんでしょう? 帳簿なんて、整っていればいいのよ。――ちゃんと“出したこと”になっていれば」
その言葉が、静かに引っかかる。
(……“出したこと”)
その日の午後。
エミリーは外へ出た。
孤児院へ向かう。
(……確認するだけです)
門をくぐる。
建物は古く、小さい。
中に入ると、痩せた子どもたちの姿が見えた。
食事の準備がされている。硬そうなパンと、薄いスープ――それだけ。
(……少ない)
帳簿の数字が、頭の中に浮かぶ。
(本来なら、もっとあるはずです)
「何かございましたか」
女性の院長が穏やかな声で問う。
エミリーは一礼する。
「私、商工会議所で働いております、エミリー・ローデンと申します。配給物資について、少々確認をさせていただきたく――」
「もちろんです」
院長はにこやかに頷いた。
その表情に、不自然なところはない。
だが――
「今月の配給ですが」
エミリーは静かに言う。
「小麦は、どの程度届いておりますか」
院長は迷いなく答えた。
「百袋。例月より多くいただいております」
「――中身に、違和感はございませんか?」
「違和感とおっしゃいますと?」
「――内容量が、少ないというようなことは……」
院長はぴくりと眉を動かした。
「そんなことは、ございませんよ?」
エミリーは、わずかに目を伏せた。
(重量は、今までの量より、減っているはずです。ジムさんは、重さの感覚で気づいていました。毎月、同じ形態の納品の袋を開けて、中身が少ないことに気づかないことがあるでしょうか?)
エミリーは自分を見つめる院長の目が笑っていないことに気がついた。
(……この方は)
それ以上は考えない。
今、確定できることではない。
「……配給が増えたはずですが、食事が少ないようですね……」
低い声が、すぐ横から落ちた。
エミリーは振り向く。
見知らぬ男が立っていた。
背が高く、無駄のない立ち姿。
灰色の瞳が、食卓を見ている。
――同じものを見ている。
「配給が増えたわりに――食事が少ないです」
思わず、言葉が出た。男は、わずかに目を細める。
「あなたも、そう見えますか」
「……はい」
短い応答。
それだけで十分だった。
――通じている。
「アルヴェルト様。――お越しになっていたのですか」
院長は姿勢を正した。男が身につけている腕章は、王宮で働いていることを示すものだった。
(王宮の――役人の方ですね)
エミリーも姿勢を正す。
院長は男に向かって、口早に説明した。
「……子どもたちは、よく食べますから。増えた分は月の初めに食べきってしまうのですよ。ですから、月の終わりには、残りは少なくなってしまうのです」
(”増えた分は月の初めに食べきってしまう”)
その言葉に、院内の子どもたちの痩せた様子が、どうしても結びつかなかった。
男は院長へ向き直る。
「院長」
静かな声。
だが、空気が変わる。
「納品は、どなたが受け取っておられますか」
「……私が」
院長はわずかに言葉を選んだ。
その間を、エミリーは見逃さなかった。
男は頷く。
「しばらくの間、私の部下を送りますので」
淡々と続ける。
「納品の受領のお手伝いをさせてください」
院長の顔が、ほんのわずかに強張る。
「……そんなに、お手を煩わせる必要はございませんよ」
「いえ。まだ配給が不足しているということであれば、王宮にも伝えなければなりませんので」
穏やかな声。だが、その言葉は拒否を許さない。
「……承知いたしました」
院長は、静かに頭を下げた。
リオンは、そこで初めてエミリーへ視線を向ける。
「あなた」
「はい」
「名前を」
「エミリー・ローデンと申します。――商工会議所で帳簿係を務めております」
「ローデン嬢」
その名を、確かめるように呼ぶ。
それだけで、どこか記憶に刻まれたような感覚があった。
「よく見ていますね」
短い言葉。
だが、軽くはない。
エミリーは、わずかに息を整える。
「……仕事ですので」
「私は王宮政務監査官のリオン・アルヴェルトと申します。――何か、気づいたことがあれば、ご連絡を」
エミリーは目を大きく開いた。「王宮政務監査官」といえば、国王の片腕――王宮の財務を管理する高級官僚だ。そんな人物が、こんな市街の孤児院に一人でやってきているとは思わなかった。
リオンはそれ以上何も言わず、外へ出ていった。
来たときと同じように、静かに。
だが、その場に残った空気だけが変わっていた。
帰り道。
エミリーは、静かに思考を整理する。
(……止まるかもしれません)
この孤児院では。
少なくとも、しばらくは。
だが。
(……それだけです)
構造は、残っている。
中身が減っているのはあの孤児院への配給だけではない。
街の広場近くにある救貧院、身元不明人を預かる救護施設。
その夜。
エミリーは控え帳を開き、ペンを取った。
――孤児院にて確認
――院長より、現物不足の実感はなし。
――アルヴェルト氏より、受領担当変更指示あり。
そして、少しだけ迷い。
最後に一行、書き加えた。
――構造的な不一致
(ですから)
迷いはない。
(記録します)
帳簿の部屋では、今日も笑い声が響いている。
誰も、問題には気づかない。
あるいは、気づいても見ない。
その中で。
エミリーだけが、静かに記録を続けていた。
――善意が削られていく、その仕組みを。
――そして、それを見過ごしている人間がいるという事実を。
すべて残すために。




