Episode.49
アウグスタ子爵を織物工房で降ろし、ミネルバとシリルは帰路について、――いなかった。二人が降りたのは皇都でも有数のドレスショップだ。
――10分程前。
ミネルバは二人きりになった馬車で固まっていた。
(ど、どうしよう。会話がなくなってしまったわ)
子爵が乗っていた時も、会話が弾んでいたわけではないのだが、二人きりになるとより一層気になってしまう。身じろぎをしようものならドレスの衣擦れの音が気になるし、呼吸の音すら聞こえてしまうのではと気が気でなくなり、固まってしまった次第である。
ちらりと視線だけをシリルに向けると、涼しい顔で景色を眺めている。
(わ、私だけ……!私だけ挙動が不審になってるわ)
「ミネルバ?」
名前を呼ばれ、慌てて顔をあげる。
「大丈夫ですか?顔色が悪いようですが…」
心配そうに尋ねるシリルをミネルバは眺めた。
(そういえば、シリル様は公の場以外では私の事を呼び捨てで呼ぶのよね。その割に敬語になったりならなかったり……)
以前、仲良くなりたいからと言われていた事を思い出す。
「名前……」
「え?」
「あっ…」
思わず声に出してしまった。ごまかすのも不自然なので、思ったことをそのまま言ってみる。
「いえ、先ほどは私の事を敬称付きで呼んでらしたのに…また名前だけで呼んでもらって嬉しかったと言うか…」
自分でも何を言っているのか分からなくなり、口籠る。恥ずかしいことを言った気がして、下を向いた。
前方から長めに息を吐く音が聞こえる。不快な事を言ってしまったのかと、ますます顔が上げられない。するとシリルから気のせいなような小さな小さな呟きが聞こえてきた。
「…………呼び捨てで呼ばれなくてさみしかったと言うことか?……だめだ……可愛すぎる………抱きし……」
最後は聞こえなかったが、それでも幻聴ではないかとパッと顔を上げた。シリルは手で顔を覆い項垂れている。
(か、可愛い?ああいうことを言う女性は可愛いの?)
どの時点が可愛かったのかミネルバには分からない。
『主、声に出ていますよ』
突如聞こえたノイズを含む声に、シリルとミネルバはびくりと跳ねる。
シリルは耳の魔道具を外して怒声を浴びせた。
「お前……!聞こえない振りをするか音声を切っておけよ」
『このままですと、ご令嬢が困ると思いました』
シリルの怒りを全く気にしていないかのように、淡々とした声が返ってくる。
シリルが魔道具を握りしめてミネルバに言う。
「さっきの俺の言葉、聞こえてたんですよね?すみません、気持ち悪くなかったですか?」
シリルは泣きそうだ。ミネルバは慌てて否定した。
「い、いえ。気持ち悪くないです。ただ、可愛いなんて言われ慣れてなくて」
シリルはミネルバの言葉を聞くと、急に目つきが鋭くなった。
「ああ、前の婚約者に問題があったからですね」
「はは…」
ミネルバは気まずい微笑を返すしかできない。問題有の前婚約者は、シリルの兄だったのだから。
ふと、シリルが姿勢を正した。
「ずっと言おうと思っていたのですが……」
「はい?」
ミネルバも慌てて姿勢を正す。
「もちろんいつものミネルバも可愛いですが、今日の貴方はより一層綺麗です。淡いグリーンのドレスが金髪に映えて、とてもお似合いです」
真剣な声だった。こういう世辞を言われた場合は、淑女然とした返事の仕方がある。夜会やパーティなど、公式の場で幾度と交わした社交辞令。
しかし何も浮かんでこず、ミネルバは真っ赤な顔でただ「ありがとうございます……」としか言えなかった。
「――あ、ライナス、すぐに馬車をとめろ!」
窓の外を見て、シリルが唐突に言った。命令通りに馬車が急停車したものだから、馬車が大きく揺れ、ミネルバの身体が一瞬宙に浮く。前方に投げ出された身体をシリルが受け止めた。
『何事ですか主!危ないですよ。怪我はしていませんか?』
「だ、大丈夫だ。すまない。こんなに揺れるとは」
止めた本人が一番驚いている。ミネルバはシリルに抱き留められたまま、恐怖で早鐘のようになる心臓を押さえていた。
(びっくりした…シリル様は引きこもっていたから馬車の扱いに慣れていないのかしら?)
「ミネルバ、怪我はないですか?」
肩を掴まれ、上体を起こされる。そこで初めて気づいたのだが、なんとミネルバはシリルの膝の上に乗っていた。
「あ、ありません」
同じ年頃の男の子の上になど乗ったことがない。慌てて離れようと立ち上がろうとしたら、ドレスの裾ですべってシリルの胸に突っ伏した。
(き、きゃああ)
内心で叫び、暴れたからかシリルに腕を掴まれた。
「ミネルバ。急に動くとあぶない」
片腕を掴まれたものだから、残された一本の腕でしかミネルバは自分を支えることが出来ない。なおかつシリルのもう一本の腕で抱きしめられた状態だ。頬はシリルの胸板に触れており、お手上げ状態だ。
「――聞いてますか?ミネルバ」
シリルは外を見ながら何か言っている。しかし恥ずかしさと、自分の動悸と、近すぎる胸板で、ミネルバはいっぱいいっぱいだった。
(外したのはクラバットだけではなかったのね。ボタンも外していたなんて)
どうしてこう、この人は、胸元のボタンをとめないのか。
「――いいですか?」
何がいいのか分からないが、ミネルバはシリルの言葉にとにかく頷いた。
読んでいただきありがとうございます。
ひさしぶりにシリルの胸板が書けました!
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