Episode.48
(疲れた……)
まだ午前中だというのに、濃い時間を過ごしたせいか、ものすごく疲れてしまった。
ミネルバは足取り重く馬車寄せへ向かっている。前を歩いていたアウグスタ子爵が立ち止まった。
「お父様?」
顔を覗き込むと怪訝な表情をしている。視線の先を追うと、アウグスタの馬車の前にシリルが立っていた。
シリルはローゼルティーの付いた上着を脱ぎ、クラバットを外している。正装を崩した姿でありながら、どこか気品は失われず、むしろ端正な顔立ちと鍛えられた体躯が際立って見えた。
「アウグスタ子爵」
紫暗の瞳がこちらを向く。ミネルバの心臓はそれだけで跳ねた。
「ラウザー令息。まだお帰りではなかったのですか」
アウグスタ子爵が眉間の皺を隠さずに言う。ミネルバは少しハラハラしたが、シリルは気に留めてなさそうだ。
「ええ。馬車が出払っているようで。良ければ一緒に乗せていただけませんか?」
皇城の馬車が出払っていることなどないはずだ。子爵をチラリと見ると、不審そうにシリルを見ている。…が、すぐに短く息を吐いて承諾した。
「ええ。私は用事があり途中で降りねばなりません。令息が娘に同行してくださるなら安心です」
馬車は市街地を通って子爵邸へ向かっている。
「先ほどは感謝いたします」
馬車の中で子爵が言った。窓の外を眺めていたシリルが子爵と向き合う。
「何のことでしょう?」
「帰る口実をくださったことですよ」
「ああ、しかしご令嬢のドレスを台無しにしてしまいました」
(やっぱりあれはわざとだったのね)
ミネルバはドレスについた赤い手形を見つめた。シリルにドレスの裾を掴まれたと認識すると、なんとも気恥ずかしい。
シリルはまたすぐに窓を向いた。
(なんだか機嫌が悪そうな?)
顰めた顔をしている訳ではないが、そう見えた。静まり返った馬車で、何か会話をした方がいいかと悩んでいると、ぽつりとシリルが口を開いた。
「…水臭いではありませんか。第二皇子の件、相談してくださってもよかったのに」
シリルの少しすねたような声音に、子爵が驚いている。少し思案しながら子爵が言った。
「――まさか拗ねていらっしゃるので?第二皇子の件は昨夜遅くに書信が届いたのです。白銀宮への招待も今朝来たものでした。……ご連絡したら助けていただけたと?」
「当たり前です」
「……ふ、はは」
子爵が声を出して笑った。蔑むような笑いではなく、純粋に面白がっているかのような。
突然笑い出したアウグスタ子爵に、シリルは気恥ずかしそうな顔をした。
「何がおかしいのでしょう?」
子爵は口元に笑みを残したまま、からかうように答える。
「いえ、タナトス令嬢すら振り払えていないというのに、それはまた心強い……」
完全にからかっている。子爵は手で口を覆い、クックッと肩を揺らした。さすがにシリルが怒らないかと心配したが、シリルは子爵をじとりとねめつけただけだった。
ミネルバは目を丸くした。父がシリルに対してここまで柔らかい態度を取るのは初めてではないか?
肩を揺らす子爵にシリルが言った。
「もう良いでしょう。それで、第二皇子の件はどうされるのですか」
「いや失礼。笑い過ぎましたね。令息が子供のように拗ねられたのが意外でした」
シリルが顔を引きつらせながら言葉を返す。
「十六なので、子爵に比べたら子供同然なのですが?」
軽口まで言い合うようになっている。
(なんだかお父様とシリル様、仲良くなってないかしら)
二人を交互に見ながら、ミネルバは不思議と心が軽くなる。
「第二皇子の件ですが、うちとしては陛下のお帰りを待つほかありません」
アウグスタは皇妃に対抗する手段など持ち合わせていない。
子爵の表情は暗い。ミネルバは自分のせいで余計な心労を負わせていることが悔しかった。以前のミネルバならば、父を説得し、第二皇子との婚約を受け入れていたかもしれない。
(でも、今はそんなこと考えられない)
目の前に座る、思案している端正な横顔を眺める。ブルーグレーの髪は日に透けると白銀のように輝いて見えた。いずれシリルの隣に違う女性が立つことになっても、ミネルバはシリルだけを見ていたい。それは他の男性に嫁いでは出来ない事だった。
ふいにシリルがこちらを向いた。
「私は違う方向からアプローチしてみます。陛下の考えはいつも読めませんから」
シリルはそう言い、ミネルバを見た。
目が合った途端、紫の瞳が溶けるようにふわりと綻ぶ。
初恋を自覚した翌日だ。想い人の笑顔の破壊力に、ミネルバは唇を固く結び、胸元で跳ねる心臓を押さえつけ、なんとか耐えぬいた。
読んでいただきありがとうございます。
跳ねるミネルバの心臓。
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