Episode.47
――カシャン!
取手の砕けたカップは、手からすべり落ちテーブルへ叩きつけられた。割れたカップから漏れ出たローゼルティーが白いテーブルクロスに染み込んでいく。血が広がっていくように感じたのは、自分が殺気立っているからだろうか。
近くにいた侍女が慌ててかけよってくる。
「お怪我はありませんか?」
デジャヴだ。シリルは答えた。
「大丈夫。問題ない」
――否、大ありだ。
(婚約?第二皇子と?)
アウグスタ子爵の表情を見ると、本当のようだ。シリルは奥歯を噛み締めた。誰であっても許せないが、よりによって第二皇子とは。
「シリル様?大丈夫ですか」
すり寄ってくるリリーアを視線だけで一蹴する。リリーアは伸ばした手を引っ込めた。暴れて拒否したいところだが、皇妃の独壇場である白銀宮でそんな事をして許される権力はシリルにはない。
シリルとリリーアが並んで座っていることに、怪訝な顔をしてアウグスタ子爵が口を開いた。
「ところで…ラウザー令息がなぜこの場に?令嬢たちの集まりとお聞きしましたが」
「ええ。私が後押ししている二組の縁談を、みんなに紹介したくて。本当はフレデリックも招待していたのだけれど、急な公務が入ってしまったの」
皇妃は嬉々として答えた。まるでこの縁談が決まりごとのように。
「まあ公子。顔色が悪いわ。……衣装も汚れているようだし…残念だけれど、今日はもう帰った方がいいわ」
今日はもう用済みと言うことだろうか?シリルの額に青筋が浮かぶ。
視線を感じて顔を上げると、皆が皇妃に注目している中、ミネルバがこちらを見ている。先ほどの不安な眼差しとは違い、疑念を宿した眼だ。じとりとした視線に、何故か不貞を疑われている気分になる。
『リリーア嬢と婚約するのですか?』と顔に書いてあるようなミネルバの表情に、シリルの表情も思わず緩む。
(あれで感情表現が乏しいとは…)
シリルは少し冷静になり、立ち上がった。
「そうですね。お言葉に甘えて、今日はこれで下がらせていただきます。ですが、これだけはお伝えさせてください」
シリルは扉ではなく皇妃に向かって歩く。部屋の隅に立っていた騎士が警戒した。
「私がこの場で皇妃様に危害を加えるはずがありません」
シリルが微笑って言うと、騎士は狼狽えながら下がった。
(暴れる権力はないが、意思を伝えることくらいは出来る)
「公子、何でしょう?」
面と向かって前に立たれるとは思っていなかったのか、皇妃の微笑が少し崩れている。シリルは一礼した。
「私の縁談は、私の意志と父の意向が一致した場合のみ成立します。よって皇妃様の望まれる縁談が進むことはないでしょう。それと、タナトス伯爵家が今後ラウザーに関わることはありません。クロイツもラウザーと全面的に争うつもりがないのなら、そのことをお見知りおきくださいますよう」
シリルの冷たく響く声はよく透った。令嬢たちは静まり返り、リリーアの顔は蒼白になる。リリーアはそれでも皇妃に救いを求める様に視線を向けたが、皇妃の表情には余裕がなかった。
皇妃は怒りを孕んだ瞳でシリルを見据えて、口を開く。
「そう…残念だわ」
シリルは怯んだ様子もなくさらに言った。
「アウグスタ嬢に関しても然り。陛下は甥の私よりも、アウグスタ嬢の縁談に力を入れておいででした。皇妃様の一存で決めてしまってはご不興を被るのではありませんか?」
「そうかしら。そこまで目をかけている令嬢と、息子である皇子との縁談ですもの。反対なさるとは思えないわ」
苦々し気な眼で皇妃は言った。この件は簡単に譲るつもりはなさそうだ。
(陛下のお気に入りと言うだけで、第二皇子と結婚させたいのか?そんなことをして何の意味がある?)
落ち着かない様子で、成り行きを見守っていたアウグスタ子爵が口を開いた。
「皇妃様。失礼ながら、ラウザー令息の言い分にも一理あります。第二皇子殿下との縁談は大変光栄なのですが、お返事は皇帝陛下が戻り、意見を確認してからでもよろしいでしょうか」
「……了承しましょう」
皇妃は渋々と認めた。
猶予が出来たことに少し安堵する。短く息を吐き、シリルは再度一礼して踵を返す。
「では皇妃殿下。失礼いたします」
シリルは子爵とミネルバの横を通り、扉へ向かった。ミネルバはシリルとすれ違う際、裾を掴まれた気がして下を見た。
「えっ」
ミネルバの声に子爵も振り返る。
「おや」
皇妃が眉を顰める。
「何事です?子爵、立っていないで座ったらどうですか」
皇妃は侍女に視線で指示をした。侍女が席に案内しようとすると、子爵は頭を振り案内を断った。
「申し訳ございません。娘の衣装も汚れてしまっていたようです。皇妃様の御前でお目汚しするわけにはまいりません。我々も、今日はこれにて下がらせていただきます」
ミネルバの淡いグリーンのドレスの裾には、ホラーばりの真っ赤な手型が付いていた。
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