episode.39
――本来ミネルバは合理的な人間だ。幼い頃から頻繁に父の仕事について回っていたからだろう。商談の場で騒ぐ子供など邪魔でしかない。自然と感情を抑えて行動する術が身に付いた。
あの夜会の日、反論したのも言い負かす事の出来る確固たる自信と証拠があったからだ。
リリーアが言っていることが嘘だと知っていても証拠はなく、今ここでミネルバがシリルについて言及すれば、好奇の目で見る者も増えるだろう。それはシリルにとってもミネルバにとっても望ましいことではない。
アカデミーの経営学科には、日に一度は移動教室がある。ミネルバは教室の入り口から顔を出し、廊下を窺った。リリーアの姿がないことを確認し、足早に移動する。途中、騎士団の演舞場の脇を通った。アレックスはあの日から再度謹慎中らしい。謹慎が解けても、しばらく厳しい監視がつくとの事だ。
(叩かれたけど、逆にすっきりした気分だわ。監視がつけば、アレックス様はもう私に近づけないもの……)
ここ数日、シリルを見かけていない。三日前にシリルの新しい護衛になった『ヴェラ』という女性騎士が、シリルからの手紙を持って来た。どうやら手掛けている魔道具の開発が納期より遅れているらしく、1週間ほどアカデミーを休むという事だった。その為、魔石加工の技術者の紹介を少し待って欲しいと書いてあった。
(うちは急いでないから気にしなくてもいいのに……)
父がアレックスの件で何故かシリルにも思うところがある様で、邸宅に入れる事を渋っている。その為に話が進まないのだ。むしろ申し訳なく思うのはこちらである。
それから毎日手紙を受け取った。手紙というよりも、報告書と言った方が近いのかもしれない。その日あった出来事が箇条書きで記してあるのだ。報告書と違うのは、その日に食べた朝食や昼食が書いてあり、最後に「ミネルバ嬢は何を食べましたか?」と書いてあることだ。聞かれているので答えなければ。そうして手紙のやり取りは三日間続いている。
この日の午前中はリリーアに出会わなかった。ミネルバは少し安堵して第三食堂へ向かった。
食堂に着くと、中にもリリーアがいないことを確認し、いつもの席に座る。
ミネルバが席に着くと同刻、入口が少しざわついた。視線の先に、かの令嬢を見つけてミネルバは思わず呻いた。自然と眉根にしわが寄り、口も歪んで淑女らしからぬ表情になってしまった。
食堂に入ってきたリリーアは、サッと見渡しミネルバを一瞥すると、なんと隣のテーブルに座った。そして友人たちと楽しそうに談笑を始めたのだ。
(昨日まで偶然かもと思っていたけれど、勘違いではなさそうね。私に聞かせようとしているんだわ)
そうだとして、意図が分からない。
(私はもうアレックス様の婚約者でもないのに)
ミネルバは短く息を吐く。席を立とうかとも思ったが、待ち合わせをしているアリアとすれ違いになっても困るし、何より先に座っていたのはミネルバだ。逃げるように席を立つなど、負けたようで納得出来ない。
(そうは言ってもここでは落ち着いて昼食が取れないわ。アリアが来たら場所を移動しましょう)
これ以上、リリーアとは関わりたくはない。ミネルバは心を落ち着けて背筋を正した。
「ここ数日、シリル様はアカデミーにいらしてないでしょう?淋しくないの?リリーア嬢」
隣のテーブルで1人の令嬢が聞いた。リリーアの話を信じているのか、誂っているのか分からないが、リリーアは嬉々として口を開いた。
「ええ。お仕事が忙しいみたい。でも私の療養中も今も、伯爵家に直接会いに来てくださるの。シリル様ったら、昨日も夕刻に邸宅にいらして、日が落ちても帰ろうとなさらないのよ。困ってしまったわ」
ミネルバは背筋に鳥肌が立った。なんとも怖ろしい虚言である。昨日もその前も、公爵邸から一歩も出ず、何なら執務室からも出ずに書類と戦っているとヴェラが教えてくれた。シリル本人の手紙にもそのような記述はなかった。
(シリル様は皇帝陛下の甥。皇族に準ずる立場にある方だというのに。不敬になってしまうことに気付かないのかしら)
「まぁ!日が落ちても一緒に過ごしたの?」
「アレックス様にも、シリル様にも目を掛けて貰えるなんて羨ましいわ」
「シリル様はどんな方なの?」
詰め寄る令嬢達に、リリーアは恍惚とした表情で続けた。
「シリル様はアレックス様より情熱的な方よ。抱き寄せて、手を絡めて、耳元で愛を囁いてくださるの……」
ガタン!
音を立ててミネルバは立ち上がった。
(――これ以上は聞いていられないわ)
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