Episode.35
しばらくすると、ライナスが医務室の教諭とアリアを連れて戻って来た。
ミネルバをアリアに任せ、シリルは医務室を出た。潜んでいたラウザー公爵家の影も護衛に付けている。
(護衛だなんだと潜ませていたが、指示が甘かった)
アリアはシリルに少し文句を言った。
「シリル様に言っても仕方ないのだけど、シリル様のお兄様がしでかしたことだから、でもミネルバを助けてくれてありがとう」
ミネルバは隣で困ったように聞いていた。
「――ヴェラ。どういうことだ。説明してもらうぞ」
脅したい訳ではないが、自然と声が低くなる。護衛初日だ。ままならないこともあっただろう。ヴェラに向ける怒りではないが、止められなかった自分に対して憤りが募る。
「‥‥申し訳ありません。まさかあのように躊躇なくレディに手を出すとは思いませんでした」
ヴェラの抑揚のない声にとまどいと後悔が混じっている。
シリルは低い声のまま言った。
「クズだと言っただろう。次はないぞ」
「肝に銘じます」
ヴェラはもう油断はしないだろう。
「頼んでいたものは?」
「すぐにお持ちします」
ヴェラは表情を引き締めて返事をすると、シリルの視界から消えた。
「アレックス様は経営学科の教諭から、事情を聴かれているところです」
シリルが問う間もなくライナスが言う。シリルは拳を握りしめた。
「――行こう」
シリルは経営学科の校舎の外で待っていた。ヴェラはミネルバの護衛に戻し、ライナスは近くにいるが姿は見えない。やがてアレックスが暗い表情で出て来た。
一日の講義が終わり、だいぶ時間が経っている。日も落ちはじめ、辺りに人影はない。
シリルは気怠そうに歩くアレックスの足を引っ掛けた。
「うわ?何だ?」
転けはしなかったものの、前のめりに体勢を崩した。シリルと目が合った途端、アレックスの顔色が変わった。恐怖と苛立ちが混ざったような表情だ。
(こいつが俺に対してこんな表情を向けるようになるとはな)
以前はいつも恐怖を感じていたのはこちらだと言うのに。
「‥‥シリルッ!さっきはよくも割り込んできてくれたな。おかげで話が拗れたじゃないか」
足を掛けたことに言及しない。普段なら怒り狂っているだろうに。
(何か焦ってるようだな)
「お前があそこで割り込んで来なければ、ミネルバと復縁出来ていたと言うのに」
「‥‥は?」
舌打ち交じりに言うアレックスに、シリルは信じられないものを見る目を向けた。呆れるどころではない。何を言っているんだこの愚兄は。
「お前、ミネルバに許しを請うどころか、再婚約を迫ったのか?」
「ハッ!兄上とも呼ばなくなったのか?当然だろう。リリーアとの話はなくなったのだ。ミネルバと復縁するのが道理だ」
どんな道理だ。
「最初は優しく声をかけてやっていたのに、何度も何度もごねるから‥‥」
イライラと口を開く愚兄を前にして、シリルの我慢は限界に達した。
「‥‥だから殴ったのか?」
「殴った?人聞きの悪いことを言うな。少し叩いただけだろう」
プツリと頭の中の何かが切れた。
「俺も少し叩いてやろうか?お前の頭を」
右手をゴキリゴキリと鳴らしながらアレックスに踏み寄った。
「な、何だと?近寄るな!騎士科の生徒同士の喧嘩は御法度だ!だいたい‥‥」
アレックスは後退りしながら叫ぶ。顔は蒼白になりながらも、虚勢だけは崩さない。
「生徒同士の喧嘩ではなく、兄弟喧嘩なら多めに見て貰えるんじゃないか?試してみよう」
後退るアレックスにシリルは詰め寄る。今のシリルはなんとしてでもアレックスを殴りたかった。
どんなにすっきりすることだろう。
シリルが正気の目をしていないからか、アレックスは青ざめて口を噤んだ。誰かいないか周りに視線を動かすが、人影はなかった。
ふと、アレックスがシリルの腰にぶら下がる剣を見た。にやりと口を歪ませる。
「はっ!そこまで言うなら、その剣を抜いてみろ!お前も騎士科に編入したのだろう?気に食わないならその剣で俺を斬ればいい!」
シリルはアレックスの言葉にピタリと止まった。
(易い挑発だな。そんな手に俺が乗るとでも?)
生徒達には『剣を抜くな』とだけ忠告されており、あまり知られていないが、アカデミー内で実技以外に真剣を抜くと、魔道具が反応して警告音が辺りに響く。
「今日は説得に失敗したからな。明日また来る。陛下が俺の謹慎を解いたのも、ミネルバを俺に嫁がせるためらしい」
アレックスの言葉にシリルのこめかみがぴくぴくと動く。
皇帝はどういう説明をアレックスにしたんだ。今の言葉が真実ならば、やはり早く爵位を継いで、今の皇帝を引きずり降ろさないといけない。
「だけどそれは現実的じゃないな。とりあえずコイツを大人しくさせないと」
シリルはぼそぼそと小さな声で呟く。
早く皇帝に「余計な事をするな」と言えるような権力が欲しい。
「お前の挑発にのってやるよ」
シリルはそう言うとスラリと剣を抜き、アレックスの顎に沿うように剣先を向けた。
アレックスは青ざめながらも、さらに口を歪めた。
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