第9話 地獄の果ての、安堵の鐘
深い夜の闇の中、前を行く台車の車輪が、石畳を軋ませる音だけが響いていた。
ジルは、意識を失った少年――身体が半透明に透けかけた彼――を台車に乗せ、黙々と歩いている。
私は、その数メートル後ろを、ただついていくだけだった。
王宮の絨毯と滑らかな石しか知らなかった私の靴は、荒れた石畳を踏むたびに、容赦なく足裏に痛みを伝えてくる。
それでも。
痛い、なんて言えるはずがなかった。
唇を噛みしめる。
(私が……何も、覚えていないって言ったから……?)
あの時の、ジルの顔が頭から離れない。
怒鳴られもしなかった。
責められもしなかった。
ただ――絶望したように、目を見開かれただけだった。
船で私を助けてくれた人。
憲兵から彼を守ろうとした人。
そんな優しいはずの彼女の背中からは、今、何も感じ取れない。
温度が、ない。
あの時、確かにあったはずのものが、全部、消えてしまっている。
助けられたときの、誰かに抱きしめられたような感触だけが、ぼんやりと残っているのに。
肝心の――彼の記憶だけが、抜け落ちている。
ぽっかりと。そこだけ、綺麗に。
(……どうして)
分からない。
けれど。
それがどれだけ取り返しのつかないことなのかだけは、分かってしまう。
ジルは、台車を引く。
慣れた道なのだろう。暗い夜道にランプもつけず、迷いなく進んでいく。
時折、台車の様子を見るために振り返る横顔。
怒ってはいない。けれど――
昏い、悲しみと絶望だけが滲んでいた。
言葉にはされない。
けれど、はっきりと分かる。
『――どうして。よりによって、彼の覚悟を忘れてしまったの――』
彼女の沈黙が、何よりも鋭く、私を刺した。
(……私、ここにいていいの?)
足が止まりそうになる。
でも。帰る場所なんて、どこにもない。
王宮に戻れば、終わりだ。私はまた、繋がれる。
部品として。マナの供給源として。
自由もなく、ただ消費されるだけの存在に。
だから私は。
この決定的な距離を保ったままでも、ただ縋るしかない。
見ず知らずの――彼女に。
そして。
台車の上の、あの少年に。
――やがて。街の空気が変わった。
坂を下り、「奈落谷」と呼ばれる廃棄区画へ差し掛かったとき。
ジルの足が、ぴたりと止まる。
「……嘘でしょ。よりによって、凍て街から……っ!」
呪詛のような声。
視線の先。すり鉢状の谷底は、月光すら飲み込む闇に沈んでいた。
冷気が、肌を刺す。鉄錆とヘドロが混ざったような臭いが、喉の奥に絡みつく。
煙は、空へ昇るものだと思っていた。
けれど、違う。
目の前にあるのは――冷たく、泥のように地を這い回る「黒煙の海」だった。
「……行かなきゃ。できるだけ息を止めて!」
ジルがランプを灯し、その中へ踏み込む。
(これが……奈落谷……)
地獄の、行き着く果て。
(私が、逃げたせいで)
胸が、締め付けられる。
(民を守るべき皇族が……彼らの人生を壊して、こんな場所にまで……)
私が。
私が、連れてきた。この地獄に。
それでも、足を止めることはできない。
置いていかれたら、終わる。
私は、小走りでその後を追おうとした。
――次の瞬間。
キィィィィィィン……。
「……っ、あ……!」
頭の芯に響く不快な共鳴。
思わず、膝が崩れた。
冷たい地面に、体が沈む。
「どうしたの!?」
ジルが振り返る。
「これくらい、彼の近くなら平気なはず――」
言いかけて、止まる。
私にも、分かった。彼の放っていた“静寂”。
あの不思議な守りが、届いていない。
「そんな……これくらいの距離なのに……!」
台車が、手から滑り落ちる音。
「……嘘、でしょ……?」
(……私の、せいだ)
確信だった。
私を助けた、その代償。
半透明になった。彼の何かが、削られた。
きっと、命そのものが、小さくなってしまったのだ。
私のせいで。
ジルは崩れ落ちそうになるのを堪え、叫ぶ。
「――近づいて……! もっと、彼のそばに……!」
震える声。
怒りじゃない。ただ、壊れそうなほどの絶望。
私は、這うようにして近づく。
台車へ。
彼へ。
(……あ)
楽に、なる。
頭痛が、苦しさが、薄れる。
それだけで。
離れたくないと、思ってしまった。
♢♢♢♢♢♢♢♢
黒煙を進む。
奈落谷の奥深くにあったのは、ひしゃげた巨大な鉄の残骸――廃棄ボイラーだった。
ジルが扉をこじ開け中へ滑り込む。
そして、重い音を立てながら、閉じる。
その瞬間。
チリン――
風鈴が鳴った。
澄んだ音が、閉ざされた空間に広がる。
(……あぁ)
張り詰めていた何かが、ほどけた。
ジルがランプに火を灯す。淡い光が、鉄の内部を満たしていく。
(ここは……安全なんだ)
涙が、零れる。
王宮よりも。どんな豪華な部屋よりも。
ここは、温かかった。
やがて、湯が沸く音。
差し出される温かいカップ。
「……ありがとう」
返事はない。ジルはただ、彼を見ている。
私は、彼のすぐそばに座る。
自然と。離れないように。
半径二メートル。見えない円の内側。
(……おかしい)
こんなに苦しいのに。こんな状況なのに。
ここにいると、少しだけ安心する。
彼の近くにいると、怖く、ない。
――やがて。
毛布が、かすかに動いた。
ジルが弾かれたように身を乗り出す。
私も、息を止める。
灯りの中で。
彼の瞼が――
ゆっくりと、開いた。
様々な想いを抱え。
3人が、ようやく揃います。
連続投稿は4/15まで、以降は週3本ペースを予定しています。




