第10話 風鈴の名と、守るべき嘘
ランプのオレンジ色の灯りに照らされて。
半透明の少年の瞼が、ゆっくりと、静かに開かれた。
ジルがハッとして息を呑む。私も、持っていた温かい白湯のカップを、両手で強く握りしめた。
毛布から出た彼の手は、まるで陽炎のように輪郭が揺らぎ、向こう側の布地の模様がうっすらと透けて見える。
ぼんやりと空を彷徨っていた少年の視線が、やがて焦点を取り戻す。
泣きそうな顔で覗き込んでいるジルを、そして少し離れたところに座る私を順番に映し――。
「……よかった。君、無事だったんだね」
それが、目覚めた彼の第一声だった。
状況は、何もわかっていないはずなのに。ただ、私が生きていることだけを確かめて、彼はホッとしたように、弱々しく微笑んだ。
「……あ……」
喉の奥がキュッと鳴った。その純粋な微笑みを見た瞬間、絶対に忘れてはいけない大切なものを失ったような。私を案じて、何かをしてくれたのに。私の危機を助けてくれたのに。船に乗せてもらったときは……何でジルしか記憶がないの…。
涙があふれそうになる。
そして、彼はゆっくりと身体を起こそうとして、ジルに慌てて止められた。
……いや、ジルは慈しむように毛布を肩から掛けてあげ、座ったまま後ろから抱きかかえるようにクロードを支えた。その腕は、消え入りそうな彼を必死にこの世界に繋ぎ止めようとしているかのように見えた。
「ありがとう、ジル。」
クロードは、へにゃりと笑う。人懐っこい笑顔だと思った。
――が。
「俺は、クロード。君は?」
その問いに、私の鼓動が大きく跳ねた。
私の名前。13年間、当たり前のように背負い続けてきたもの。
(セレスティア・カタリナ・フォン・ガレリア)
帝国の皇女としての名。だが、その重すぎる名前を口にしようとした瞬間、私の脳裏に先ほどまで絶望に沈んでいたジルの悲痛な横顔が浮かんだ。
もし私が名前を言えば、間違いなく誰も安心できなくなる。むしろ、この温かい場所や、彼らの関係を根底から壊してしまうかもしれない。もう二度と、彼らを私の地獄に巻き込みたくなかった。
ボイラーの中は、しんと静まり返っている。
分厚い鉄扉が外の冷気と黒煙を完全に遮断しているからこそ、私の耳の奥には、先ほどこの空間に入ってきたときになった『あの音』が鮮明に反響していた。
私を迎え入れるようにチリーンと鳴った、あの澄んだ音。そして心に沁み込んだ温かい余韻。
(あの音のように。誰も傷つけない、安心できる存在に)
私は、皇女としての名前と過去をすべて飲み込み、ぎこちない笑顔を作って答えた。
「……リン、です」
その偽名を聞いて、クロードはあごに手をやり、「リン」と優しく反芻した。
「良い名前だね。風鈴みたいだ。……あの音を聞くと、『お帰り』って迎えられてるみたいで、すごく安心するんだ」
クロードがふわりと笑って紡いだ言葉に、私の胸の奥がじんわりと温かくなった。咄嗟に願った『安心できる存在になりたい』という私の不器用な祈りが、彼に真っすぐ届いたような気がしたからだ。
嬉しくて、私が小さく微笑み返した、その時。クロードはあごに持ってきた自分の透ける手を見つめ、ハッと息を呑んだ。
半透明に透け、今にも消え入りそうになっている自分の輪郭。見るからに動揺し、両腕をさするようにするが、その手ははっきりと震えていた。
「っ……」
その小さな震えは、背後で彼を支えていたジルに、痛いほど伝わったのだろう。ジルは弾かれたように両腕を回し、クロードを強く抱きしめた。消えそうな彼の身体を、少しでもこの世界につなぎとめるように。
背中に密着したジルの温もりに触れ、クロードは少しだけ寂しそうに眼を伏せた。
「それに……風鈴は、音が……」
言いかけて、彼は誤魔化すように小さく首を振った。私は『音が、なんですか?』と尋ねる隙も与えぬまま、彼は不安げな私を真っすぐに見つめなおす。
「リン……。君は運河でのこと……俺のこと、覚えてる?」
息が止まった。
――覚えて、いない。
私の頭からは、あなたのことだけが、ぽっかりとない。
覚えてない……。
……何度も思い出そうとしたけど――ごめんなさい……。
私がその残酷な真実を口にしようと唇を震わせた、その時だった。
「リンは!……ちゃんと覚えてた!!」
ボイラー内に、ジルの鋭い声が響き渡った。
私を遮り、代わりにジルが答えた。
ジルは、クロードの後ろから、私を――射殺すような強い視線で睨みつけていた。
『しゃべるな』
命を削った彼に。消えてゆくかもしれない彼に。
これ以上の絶望を与えないで!忘れたなんて言わないで!!
その痛切な祈りと圧に押され。
私はただ、クロードに向けて曖昧に微笑むしかできなかった。
「……そっか。覚えててくれたんだ。よかった。」
クロードは、ほっと息を吐くように小さく笑った。
だが次の瞬間、何かを確かめるように、ゆっくりと私を見つめる。
その瞳の奥には、かすかな不安が揺れていた。
半透明の指が、毛布の端をぎゅっと握る。
「――お願い」
一度、言葉が途切れる。
クロードは少しだけ俯き、それからもう一度、私を見上げた。
「どうか、ずっと覚えててね」
クロードはジルの嘘に気づくことなく、望みを口にした。
私の胸が、罪悪感でギリギリと音を立てて軋む。
「……はい」
喉からひねり出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
本当は覚えていない。
彼が私のために命を削ってくれたその瞬間を――私だけが失っているのに。
ジルが私を睨みつけたのは、彼を守るためだ。私の罪悪感など、どうでもよい。彼のために、私もこの嘘を守らなければならない。
――わかりました。
決意を胸に、私はジルの目を強く見つめ返した。
その後、クロードは落ち着いたトーンで、ジルから家を出た経緯や、追っ手の状況を聞き出した。状況は控えめに言っても最悪だ。鉄扉の外には憲兵が溢れ、極寒の黒煙が谷を埋め尽くしている。
だが、どんなに絶望的な状況を聞かされても、クロードの瞳の光は消えなかった。
「――大丈夫。ここなら安全だよ。絶対に、うまくいく。心配しないで。」
自信たっぷりに、言う。半透明の身体で、誰よりも前向きに笑う少年。その眩しさが、余計に私の胸を締め付けた。
――翌朝。
帝都の空には、雲一つない美しい朝日が差し込んでいた。
しかし、重い黒煙に沈んだ奈落谷の底には、その太陽の光は一切届かない。
冷え切った地獄の底で、温もりがあるのはこの廃棄ボイラーの中だけ。
――『希望』と『嘘』と『秘密』を抱えた、私たちの三つの心だけだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
ようやく物語の土台ができ、ほっと一息です。
ここから週3日の更新となります。次は4/17(金)の予定です。
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