第11話 ふたりきりの箱庭と、憧憬の刃
――二日目の昼過ぎ。分厚い鉄の壁に守られ、外の昼夜すらわからない静寂の中。
壁際のヒカリゴケが放つ淡い緑色の光に包まれながら、徹夜の逃亡劇の疲れから泥のように眠っていた私たちは、ようやく重い体を起こした。
目覚めてすぐ、ジルは安堵のあまりへなへなとその場に座り込んだ。
昨日の深夜、憲兵の前に現れた時は身体の半分が透けていたクロードだったが、早朝に目を覚ました時点で8割がた戻り。さらに昼過ぎまでじっくり眠ったことで、今や指先にわずかな「揺らぎ」を残すだけまで実体を取り戻していた。
「……よかったぁ。でも、寝てる間はなんだか元に戻るのが遅くなかった? 朝までのペースなら、もう完全に治ってるかなって思ったんだけど」
ジルが不思議そうに首を傾げる。
「ごめん、寝相が悪かったのかも」
「何よそれ」
クロードが冗談めかして笑うと、ボイラー室に柔らかな空気が流れた。
私も、ホッと胸を撫で下ろす。私が彼から奪った「何か」が、少しずつこの世界に戻り透明感がなくなってきた。理屈はわからないが、ただ、嬉しかった。
「よし! クロードもだいぶ戻ったし、私、ちょっと上の街まで『マナ探知機』を調達してくる!」
外の様子を鉄扉の隙間から確認したジルが、勢いよく立ち上がる。
昨夜谷底を埋め尽くしていた極寒の黒煙は、午前中のうちに雲散霧消していた。追手の不安はあるものの、ジルの表情は驚くほど明るい。
「戸締まりはしっかりね! リン、彼に無理させないでよ!」
「あ、はい……!」
嵐のように身支度を整えたジルは、重い鉄扉を開け、足取りも軽く出かけていった。
ギイィ、ガチャン。
チリーン……。
扉が完全に閉まり、密閉を知らせる風鈴が鳴る。
残されたボイラー室には、ランプの火が爆ぜる微かな音と、私と彼、二人だけの静寂が落ちた。
「無理するなって言われたけど……よく寝たから、少し身体を動かそうかな」
いきなりジルの言いつけを破ろうとする彼。
いや、彼を安静にさせるのが私の役目だったから、いざというとき怒られるのは、私……?
ぐっすりと寝る前の、ジルの鋭い眼差しを思い出し、思わず頭をぶんぶんと振る私。
そうこうしている間にクロードはいそいそと立ち上がり、壁に立てかけてあった自分の剣を手に取った。
もうちょっと休んでから――と、止めようと口を開きかけた瞬間、彼の立ち姿を見た私は、思考が完全に停止した。
――ふっ、と。
彼の存在感が、ランプの灯る空間から「消えた」のだ。
一歩、彼が踏み込む。
足音はない。床の鉄板を叩く音も、衣擦れもない。
流れるような滑らかな足運びから、鞘のままの剣が空を裂く。
私が王宮で教え込まれた魔法剣士の動きは、己のエーテルを燃やし、その爆発的な力で重く鋭い一撃を叩き込む「剛」の剣だった。
しかし、彼の動きには一切のエーテルが乗っていない。
力みがない。重さもない。
まるで上から下へと流れる水のように――いや『風』のように。
右へ、左へ。上下左右――部屋の空間を自由自在に舞う剣。
極限まで空気の抵抗を削ぎ落とした、無理のない美しすぎる軌跡。
私が教え込まれた力任せのゴリ押しの剣とは全く違う、無音の剣。
ふと、クロードが動きをピタリと止め、こちらを振り返った。
私が瞬きもせずに見つめていることに気づいたのか、彼は少し照れ臭そうに笑って、音もなく剣を鞘に納める。
「チリン――」
剣は止まった。
だが、音だけが残る。
(――え? 風鈴が、ついてた!?)
驚くことに、鞘には小さな風鈴が吊るされていた。
あんなに激しく、流麗に舞っていた間、音は一切鳴っていなかったのだ……。
「ごめん。ホコリ、舞っちゃったかな」
「い、いえ……! あの、すごく、綺麗で……羨ましいです」
思わず心の底からの本音が出てしまう。
「でも、その……エーテルを、全く使っていないように見えて……」
「あぁ、うん」
私の言葉に、クロードは隠す様子もなく、あっけらかんと頷いた。
「俺はエーテルを練れない。マナも扱えない。だから普通の剣士の戦い方はできないんだ」
「え……?」
「下級兵士の試験は受けに行ったけど、内燃錬成ができないと分かった途端、笑いものにされて落第。冒険者ギルドにも登録してるけど、街の外に出る依頼は受けられない。『ダンスだけ上手でも、外に出たら死んじゃうよ』って」
ぎゅっと鞘を握る彼。
「何も成せないまま死ぬのって、嫌なんだ。
だから、せめて。…せめて、剣だけは諦めたくなくて」
自嘲するような、けれどどこか切実な声だった。
彼の手が、吊るされた風鈴にそっと触れる。
「力がない俺にできることは、こうやって受け流すことだけなんだ。昔、師匠が教えてくれたんだよね。エーテルが使えない俺のためにって。
「お師匠様が……」
「まぁ、師匠の技術自体にもエーテルが必要だったから、完全には体得もできなかったけどね。俺のは、それを真似しながら変えただけの我流だよ」
息を呑む。
魔力を持たない者は、この世界において絶対的な「弱者」だ。
しかし、目の前の彼が振るった無音の剣は、帝国の騎士よりも研ぎ澄まされて見えた。
「リン……。羨ましいって、言ってくれた?」
自信なさげな、でも真摯な視線。
「はい!とても美しくて、無駄がなくて、鋭かったです! 私なんか、力だけですから……」
彼に比べると、私の剣はただ力んで、強引に壊しているだけだ。
美しくない、自分の嫌いな剣。
俯きかけた私に、クロードが一歩近づく。
「なら……少しだけやってみる?」
「えっ……でも、私……」
「棒切れでいいよ。今は見つかるといけないから、エーテルは練れないし」
私は勇気を出して、棒を受け取る。
「じゃ、動き、マネしてみて」
言われるがまま棒を構えてみる。だが、どうしても染み付いた「力任せ」の癖が出て、脇を締め、腕から棒までをガチガチに固めてしまう。
「んー、違うな。もっと力を抜いて」
クロードが背後に回り込み、棒を握る私の両手に、そっと手を重ねてきた。
「ひゃっ……!」
「肩の力、抜ける?足はここ。水が上から下に流れるみたいに、体重をスッと落とすんだ」
耳元で囁かれる彼の声。彼の少しひんやりとした手。背中越しに感じる彼の体温。
顔が一気にカッと熱くなる――
「こ、こう、ですか……?」
「そう。上手だよ! リンは体幹がしっかりしてるから、全然ブレない」
彼に褒められたくて、私は必死にその導きに身を委ねた。
――この人の剣になりたい。
胸の奥で、静かに灯った願い。
軍の足音が迫ってきているという恐ろしさすら、遠い世界の出来事のように感じられた。




