第62話 紫禍を越えて
第62話 紫禍を越えて
ゼルガンの右拳が振り下ろされる。
避けきるには近すぎた。
内燃錬成を使い、両腕を顔の前へ上げて衝撃に備える。拳が届く寸前、ゼルガンの右側からルークが飛び込んだ。
「させるか!」
振り抜いた剣が、厚い瘴気をまとった右腕へ叩きつけられる。刃は瘴気を裂いて肉へ食い込んだ。
それでも太い腕を断つには届かず、斬撃の勢いを横から受けた拳だけが左へ逸れた。私のすぐ脇を通り抜け、そのまま石畳へ突き刺さる。
地面が大きく陥没し、砕けた石が弾け飛んだ。私は横へ転がって衝撃を逃がし、その勢いのまま立ち上がる。
「邪魔すんな!」
ゼルガンが右腕を振るった。ルークは追ってきた拳を外しながら脇腹へ剣を走らせる。ゼルガンが左腕を下げて防いだ隙に、私も踏み込んで首を狙った。
ゼルガンがこちらへ向き直り、左拳を振るう。その内側へ体を滑らせると、反対の前腕から紫黒色の瘴気が噴き出した。細く尖りながら伸びかけた形は、さっき私の脇腹を抉った杭と同じだった。
形が整うより先に腕の外へ抜ける。
このまま剣を返せると判断したところで、ゼルガンが動きを止めた。
「……もういい」
さっきまで浮かんでいた笑みが消え、ゼルガンの足元から濁った紫の瘴気が噴き上がる。瘴気は渦を巻きながら膨れ上がり、頭上を越えてなお伸びていった。数メートルの高さまで立ち上った紫黒の流れが、ゼルガンを中心に大きく回り始める。
空気に混じっていた瘴気とは、密度がまるで違う。重なり合った紫の流れが巨体の周囲を巡り、その一部が腕や肩、胸へ次々と張りついていく。
「さっきまでは、いい顔してたんだがな」
ゼルガンが首を鳴らす。
「つまらなくなった」
石畳が砕けた。
一瞬、ゼルガンの踏み込みを捉えるのが遅れた。右拳が迫る。
肩の動きから軌道を読み、体を外した。拳そのものは通り過ぎたが、その外側を覆う瘴気が頬から肩を薙いだ。
「くっ……!」
軍服の肩が裂け、皮膚を削られるような痛みが走った。ゼルガンはすでに次の拳へ移っている。踏み込みも、腕の戻りも、明らかに速い。
左拳を外し、今度は少し大きく距離を取る。それでも拳の先から膨らんだ瘴気が腕を掠め、焼けるような痛みが皮膚を走った。
「リン!」
ルークが横から斬り込んだ。内燃錬成を乗せた剣が、ゼルガンの肩を覆う瘴気へ食い込む。紫黒の膜が大きく裂け、その下の肉まで刃が届いた。
「効くじゃねえか!」
ルークがさらに押し込もうとする。ゼルガンが笑い、左腕を横薙ぎに振るった。
「ルーク!」
ルークは剣を引いて身を沈めた。腕そのものは頭上を抜けたが、まとわりつく瘴気が大きく膨らみ、周囲ごと横へ薙ぎ払う。
「がっ……!」
ルークの体が宙へ浮き、数メートル先の石畳へ背中から落ちた。そのまま2度、3度と転がっていく。
「ルーク!」
「来るぞ!」
起き上がりながら叫ばれ、私は前へ向き直った。
ゼルガンが右腕を大きく引いている。数メートル上まで渦巻いていた紫の瘴気が、一気にその腕へ吸い寄せられていく。濁った流れが何重にも腕を覆い、肩から先だけがひと回り大きく見えた。
ゼルガンが腕を振り抜くのに合わせ、私は横へ跳んだ。
拳は届かなかったが、直後、腕に集められていた瘴気が横へ爆ぜた。
瘴気の奔流が通りいっぱいに広がり、最初の石壁を粉砕する。1棟目の正面が崩れ、そのまま隣の建物まで巻き込んだ。さらに奥の壁が吹き飛び、屋根が傾く。
大量の石材と木材が通りへ降り注ぎ、少し遅れて3棟目の上階まで崩れ落ちた。舞い上がった粉塵が、通りの向こう側を覆い隠す。
その中から、いくつもの悲鳴が重なった。避難を続けていた住民が走り、帝国兵が崩れた建物へ向かう。瓦礫の下から助けを求める声も聞こえてくる。
「そうだ」
ゼルガンが笑った。その顔には、再び露骨な喜びが浮かんでいる。
「もっと泣け。もっと叫べ」
立ち上る粉塵と広がっていく悲鳴を眺めながら、両腕を広げる。
「それでこそ、ここまで来た意味がある」
街を壊し、人を傷つけ、その悲鳴を喜んでいる。
「……最低ですね」
「ああ?」
「あなたは、ここで倒します」
剣を構える。ゼルガンが歯を見せた。
「やってみろ」
再び踏み込んでくる。右肩が動いた。
拳の軌道は読めるが、その外側を覆う瘴気は炎のように揺らぎ、厚みも広がりも一定ではない。
私は内燃錬成を強め、全身へ回した。拳を外しながら、押し寄せてきた瘴気を強化した体で受ける。重い衝撃が全身を揺らしたが、十分に耐えられる。
すぐに剣へ力を移して踏み込もうとしたところへ、ゼルガンの左腕が戻ってきた。私は攻撃を切り上げ、拳を外して間合いを取り直す。
「どうした!」
右拳を外した直後に左が来る。その次には前腕へ紫の瘴気が集まり、鋭い杭となって突き出された。
ぎりぎりで拳を外しても、瘴気の広がり方は毎回違う。そこまで見切ろうとすれば距離を取らされ、全身を守ったあとで攻撃へ力を寄せれば、その分だけ剣が遅れる。
今の私では、風理の剣の間合いを、このまま維持するのは難しい。
「リン!」
ルークが戻ってきた。足取りは重く、口元には血がついている。息も荒い。それでも剣を両手で握り、迷わずゼルガンへ踏み込んだ。
「お前は下がってろ!」
「誰に言っているんですか!」
「今のお前、全然いつもの剣じゃねえだろ!」
言い返すより先に、ルークの剣がゼルガンの右腕へ叩き込まれた。瘴気の膜を裂き、深く肉へ入る。攻撃力は十分に通っている。
ゼルガンが腕を振り上げた。
「避けて!」
「分かってる!」
ルークが横へ飛ぶ。拳は外したが、その外側から膨らんだ瘴気が脇腹を叩く。
「ぐっ!」
ルークの体勢が崩れた。ゼルガンの前腕へ瘴気が集まり、紫黒の杭となって伸びる。
それがルークへ届く前に、その軌道へ踏み込んだ。剣を杭の側面へ叩きつけ、力任せに外へ逸らす。
刃へ重い衝撃が返り、両腕ごと押し込まれた。踏ん張った足が石畳を滑る。
それでも杭の先端はルークを外れ、横を抜けていった。
「助かった!」
「次は瘴気まで避けてください!」
「無茶言うな!」
ルークが怒鳴り返しながら距離を取った。
私も同じだった。拳の軌道は読めても、その周囲を炎のように揺らぐ瘴気まで毎回ぎりぎりで外せるほど、まだ風理の剣を使いこなせてはいない。
ならば。
ここで無理にこだわる必要はない。今はゼルガンを確実に倒す。
全身を覆う内燃錬成を維持したまま、両腕にも魔力を厚く回す。黄色の光が強まり、腕から剣へ流れ込んだ。剣の運びも変え、帝式剣術で正面から押す。
ゼルガンが踏み込んできた。右拳を外し、その周囲から広がった瘴気は内燃錬成で受ける。今度は距離を取らず、そのまま懐へ入って脇腹へ剣を走らせた。
ゼルガンが腕を下げて防ぐ。刃と瘴気がぶつかり、黄色と紫黒の光が弾けた。
「っ……!」
押し返された腕へさらに魔力を回す。瘴気の膜を裂き、その下の肉まで刃が入った。
ゼルガンが力任せに腕を振り、私を引き剥がそうとする。
拳を外すと、広がった瘴気が肩へ当たった。黄色の光が揺れたが、そのまま踏みとどまり、こちらから剣を返す。
ゼルガンが下がる。もう一歩踏み込む。
左から拳が来る。腕で受け流しながら内燃錬成を厚くし、右手の剣を肩へ振り下ろした。ゼルガンが瘴気を集めて受け止める。
刃と瘴気が押し合う。
「ぐ……!」
ゼルガンの足が石畳を擦り、一歩下がった。私はそのまま押し込む。
全身を覆う黄色の光は、まだ厚い。対してゼルガンは、攻撃と防御を繰り返すたびに削られた瘴気を周囲から集め直している。
「お前……!」
ゼルガンが腕を振り上げる。私は正面から一歩入り、拳を外した。広がった瘴気を内燃錬成で受けながら胴へ斬り込む。
黒い血が飛んだ。
「リン!」
反対側からルークが入る。ゼルガンがそちらへ向いたところへ、内燃錬成を乗せた剣が右腕へ叩き込まれた。
「おらぁっ!」
ゼルガンが瘴気を集中させて受ける。刃と瘴気がぶつかり、足元の石畳が割れた。
「力比べか!」
「そう見えるかよ!」
ルークが押し込む。私は逆側から踏み込み、ゼルガンの肩へ剣を走らせた。
ゼルガンが大きく身を引く。
「クソが!」
周囲の瘴気が荒く渦巻いた。さっきまでの笑みは消えている。
私は止まらずに前へ出た。ゼルガンが拳を振るうたび、その外側の瘴気が黄色の光を削る。それでも内燃錬成を維持したまま、受けた分以上の魔力を流し続ける。
打ち合うたびに、ゼルガンが下がる。右腕へ瘴気を集めれば、そこへ剣をぶつける。反対側へ逃げればルークが斬り込む。
ゼルガンが大きく後ろへ跳んだ。
「舐めやがって……!」
着地した足元で石畳が砕ける。周囲を巡っていた瘴気が一気に膨れ上がり、右腕へ流れ込んだ。肩から先が紫黒に覆われ、先ほどより大きく、さらに外側へ瘴気が膨らんでいく。
ゼルガンが地面を蹴った。
ここまでの短い拳とは違う。
肩まで大きく引き、全身を乗せて振り抜こうとしている。
私は全身を覆っていた黄色の光を一気に弱める。
「リン!?」
ルークの声を背に、ゼルガンの踏み込みを見る。
これだけ大きければ、迷わない。
振り下ろされた拳の外へ体を滑らせる。
厚くまとわりついた瘴気がすぐ脇を抜ける。
その一歩で、風理の剣の間合いへ戻った。右腕へ大量の瘴気を集めた分、首の左側を覆う膜が薄くなっている。
私はそのまま踏み込む。
――チリン。
腰に下げた風鈴が、小さく澄んだ音を鳴らした。
全身へ広げていた魔力を右腕と剣へ集め、内燃錬成を一気に引き上げる。黄色の光が腕から剣身へ溢れ、刀身の輪郭を覆って大きく膨れ上がった。
「なっ……」
ゼルガンが振り向く。首から肩へ瘴気が戻り始める。
何重にも重なった紫黒の膜が首を覆うより先に、その中央へ剣を振り抜いた。黄色の光が瘴気へ食い込み、厚くなりかけた紫黒の膜を一気に裂く。
そのまま皮膚と肉を斬り抜け、骨まで断った。
ゼルガンの頭が宙へ跳ね上がる。振り抜いた剣から溢れた黄色の光は石畳まで走り、轟音とともに地面へ長い亀裂を刻んだ。
「……は?」
ルークが、裂けた地面と私の剣を交互に見る。
首を失ったゼルガンの巨体が数歩進み、膝から崩れ落ちた。数メートルの高さまで渦巻いていた紫の瘴気も形を失い、薄い靄となって散っていく。
私は内燃錬成を落とし、剣を覆っていた黄色の光も消していった。
「……お前、最後のを最初からやれよ」
「できません。あれだけ大きく振ってくれたから、瘴気ごと避けられたんです」
「そのために、あそこまで正面から押してたのか?」
「はい。確実に倒したかったので」
ルークが倒れたゼルガンを見る。
「……中級魔族を力で押して、大振りさせたってことかよ」
「ルークさんも一緒に押してくれました」
「お前と一緒にすんな」
口元の血を拭いながら、ルークが笑った。
「……まあいい。あのバケモノをきっちり仕留めたんだ。大したもんだよ」
「ルークさんが前へ出て、隙を作ってくれたおかげです。私一人では、最後まであの形には持ち込めませんでした」
「伊達にA級やってねえからな」
「はい。頼りになりました」
真っ直ぐに伝えると、ルークが眉を上げ、それから視線を逸らした。
「……5年前のガキが、いっぱしになりやがって」
私も剣についた黒い血を振り落とす。その時、遠くで乾いた銃声が響いた。




