第56話 誓えない言葉
引き続きユリウス王子視点です
彼女は、本気だ。
そう分かった瞬間、私は言葉を失いかけた。
命じて止まる相手ではない。軍規を持ち出して押さえつければ、その隙を見て出ていく。護衛を増やせば、護衛ごと振り切る方法を探すだろう。
それほどまでに、セレスティア殿下の視線はアズライトへ向いていた。
先日の会議で組み上げた策は、完全には外れていない。灰の幽霊と赤の魔女の危機を告げたことで、彼女は動いた。
だが、こちらの望む方向ではなかった。
帝都を落として二人を救う。そう考えさせるはずだった報告は、死んだと思っていた者たちの生存を突きつけ、彼女の中に別の道を開いてしまった。
私は、天幕の中で息を整えた。
ここから先は、彼女を傷つける。
それでも、王国第二王子として、そして彼女をこの戦場で失いたくない一人の人間として、言わなければならない。
「仮にアズライトへ辿り着けたとしても、殿下の立場は極めて危うくなります」
「立場、ですか」
「帝国から見れば、殿下は王国軍の旗印です。王国から見れば、殿下は戦線を離れ、帝国側へ向かったことになる。公国軍に至っては、その場で殿下が敵か味方かを判断できない」
セレスティア殿下は黙っている。
「灰の幽霊と赤の魔女が何者であっても、アズライトは戦場です。そこへ殿下が単独で入れば、誰も殿下の立場を保証できません」
「ならば」
彼女の声が、わずかに低くなる。
「保証があれば、よいのですか」
息を止めた。
来ると思っていた。それでも、実際にその言葉が出ると、喉の奥が冷えた。
「殿下が王国軍の一員としてアズライトへ向かい、灰の幽霊と赤の魔女が帝国側の戦力であった場合にも、王国側として行動すると確約していただけるなら。――第二王子として、身分を保証する文書を出します」
天幕の中が静まり返った。
「アズライトで二人と接触した場合でも、王国を離れない。二人が帝国側に立つなら、王国側として戦う。その確約をいただけますか」
セレスティア殿下は答えなかった。
視線だけが、地図の上に落ちる。
ほんの数秒待つ。
それで十分だった。
予想していなかったわけではない。それでも、即答できないという事実は重い。
これ以上は聞けない。
ここで「誓えない」と言わせれば、それはもう沈黙では済まない。
王国軍の陣中で、彼女自身が王国側に立ち続けることを確約できないと認めたことになる。
私は、すぐにサルバートへ視線を送った。
サルバートが受け取る。
「皇女殿下」
公国対外調整局主席調整官は、間を置かずに口を開いた。
「アズライトへ向かうことだけが、お二人を救う道ではございません」
セレスティア殿下の目が、サルバートへ向く。
「帝都を落とすのです」
「……帝都を」
「はい。帝都ガレリアを速攻で落とし、皇帝と第一皇子の指揮権を奪う。そうすれば、アズライト前線も動きを変えざるを得ません。殿下が単独で山を越えるより、その方が、お二人を救える可能性は高い」
「可能性、ですか」
セレスティア殿下の声が冷えた。
顔を上げ、サルバートを冷ややかに睨む。
「12月21日に総攻撃が始まるのでしょう。帝都まで2日。そこから攻略に3日。アズライトへ間に合わなかったら?」
「だからこそ、帝都攻略を最大限早めます」
私は、その視線を受け止めながら地図上の帝都へ手を置いた。
「帝都への総攻撃は12月16日。遅くとも19日までに決着をつける」
「それでも、アズライトで何が起きるかは止められません」
セレスティア殿下は、地図から目を離さなかった。
「私が行けば、帝都攻略に賭けることなく、アズライトに立てます」
「その状態で殿下を行かせることはできません」
クロイツ少佐が言った。
「山も谷も把握せず、補給も護衛もなく、単独で敵地へ向かう。それは救援ではありません。殿下自身を失う危険があります」
「それでも」
セレスティア殿下は言いかけた。
止められている理由は分かっている。それでも、納得はしていないという感じだ。
私も続けようとした。
だが、その前に、別の声が入った。
「私が、最速でアズライトへ向かいます」
公国のレナート・ファルコーネ男爵だった。天幕の中の視線が、一斉に彼へ集まる。
ファルコーネ男爵は、まっすぐセレスティア殿下を見ていた。
「公国側の武官であれば、アズライト前線に入る理由があります。私が現地へ入り、21日の総攻撃について延期を申し入れます」
セレスティア殿下の目が動いた。
「止められるのですか」
「確約はできません」
ファルコーネ男爵は答えた。
「ですが、可能な限り攻勢を抑えます。灰の幽霊と赤の魔女についても、生け捕りを優先するよう現地へ働きかける。正式に捕虜となった場合は、現場の兵が勝手に手を出さないよう、私自身が確認します」
本当は、総攻撃など初めから存在しない。
だが、アズライトで戦闘が続いていることまで嘘ではない。
東軍には、街の正面攻略に固執せず、封じ込めたまま先へ進む方策を検討させている。それが形になるまでの間にも、灰色と赤が戦場へ出れば、命を落とす可能性はある。
ファルコーネ男爵が現地へ行く意味はあった。無理な攻勢を抑え、封じ込めへの移行を確実にする。そして、もし二人が捕らえられれば保護する。こちらが帝都を落とすまで、少しでも危険を減らす。
「だからこそ、本軍での帝都攻略を最大限早めていただきたい」
ファルコーネ男爵が私を見る。
「帝都が落ちれば、アズライト前線の状況も変わります。公国だけで止めきれないものも、帝都を落とし、戦争を終結に持ち込めれば止められる」
私は、サルバートを見た。サルバートも短く頷いた。
これなら、つながる。セレスティア殿下を単独で走らせず、彼女の望みを完全に切り捨てることもない。
「皇女殿下」
サルバートが、静かに言葉を重ねた。
「ファルコーネ男爵を先行させ、殿下は本軍とともに帝都へ向かう。帝都を落とし、アズライトの戦いを止める力を手に入れる。レオ殿下とアズライトのお二人、その両方に手を伸ばすなら、この道しかございません」
セレスティア殿下は答えなかった。視線は、地図の上に落ちたままだ。
北の帝都へ続く街道。南東へ伸びるアズライトへの道。
どちらも選びたいはずだった。どちらも捨てられないはずだった。
だが、身体は一つしかない。戦争は、彼女の答えを待たない。
やがて、セレスティア殿下は顔を上げた。
その視線が、まっすぐファルコーネ男爵を捉える。先ほどまで地図を追っていた焦りは、表には出ていなかった。
「……必ず、止めなさい」
声は小さかったが、迷いはなかった。
ファルコーネ男爵は一瞬だけ息を止め、表情を引き締めた。そして、深く頭を下げる。
「承知しました。全力を尽くします」
「すぐに出られるか」
私は尋ねた。
「はい。最小限の人数で、馬を替えながら向かいます」
「王国内の通行証と命令書をすぐ用意させる」
「感謝します」
ファルコーネ男爵は短く礼をし、すぐに天幕を出ていった。
垂れ幕が戻る。その揺れが収まっても、セレスティア殿下の視線はしばらく動かなかった。
まだ、アズライトを見ている。地図の上ではなく、もっと遠い場所を。
やがて、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「最速で帝都へ行きましょう」
押し殺した声だった。
だが、先ほどまで地図の上でアズライトへの道を探していた時とは違う。もう迷っていなかった。
私は、その目を見て分かった。
帝都を落とす。
できる限り早く。
その先で、二人に間に合わせる。
彼女はもう、そのために自分の力を使うと決めている。
「はい」
私は頷いた。
帝都総攻撃は12月16日。
目指す決着は、12月19日まで。
交渉に費やす時間はない。戦場で迷う時間もない。
皇帝と第一皇子を打倒し、帝国の指揮系統を断つ。
レオ殿下をはじめ、残る皇族はできる限り捕らえる。だが、それさえ戦場の流れが許せば、という条件つきだった。
セレスティア殿下も理解している。
それでも、帝都へ向かうと決めた。
父である皇帝も、第一皇子も。
今の彼女にとっては、アズライトへ辿り着くまでに越えなければならない相手になったのかもしれない。
先ほどまで頬を伝っていた涙は、もう残っていなかった。
その代わり、目には張り詰めたものがあった。
怖いほどに、まっすぐだった。
王国のために帝都を落とすのではない。
クロードとジルフィーナを生かすために、帝都を落とす。
結果として、その目的が今は王国と重なった。
灰の幽霊と赤の魔女が、本当にクロードとジルフィーナなのか。確証こそない。
だが、あの二人だと考えるには十分すぎるものが揃っている。
5年前、帝国軍の砲撃が、彼女と二人の居場所を奪った。
そして今、帝国との戦争が、もう一度二人の命を奪おうとしている。
彼女は、それを許すつもりがないのだろう。
私は地図を見下ろした。
帝都ガレリアまで、あと2日。
選べない道は、まだ地図の上に残っている。
だが、セレスティア殿下はもうアズライトへの道を探してはいなかった。
まず帝都を落とす。
そのために、持てる力をすべて使う。
そんな覚悟が、隣に立つだけでも伝わってきた。
次回更新は 9/18(金)予定です




