第55話 道なき山の向こう
引き続きユリウス視点です。
光龍歴995年12月14日。
北へ進むほど、風は冷たくなっていた。朝方には水桶の縁に薄い氷が張る。雪は少ない土地だと聞いていたが、乾いた北風は布の隙間から容赦なく体温を奪っていった。
帝都ガレリアまで、あと2日。
追加部隊が合流した翌日、王国軍はさらに北上していた。
南部方面から回された部隊は、数だけなら目立つ。中央から来た精鋭は少ないが、装備も動きも違う。高位依頼を受ける冒険者たちも混じっている。
その列を、セレスティア殿下にも見せた。
彼女は何も言わなかった。だが、王国軍がまだ戦えるだけの力を取り戻しつつあることは、理解したはずだった。
夕刻前、私は本営の大天幕に主要な者を集めた。セレスティア殿下も同席している。
卓上には、帝都までの街道図と、南東のアズライトまでが入る地図が広げられていた。
最初に口を開いたのは、エリオ・サルバートだった。
「まず、灰の幽霊グレイと、赤の魔女ルチアについてご報告いたします」
セレスティア殿下の視線が、すぐにサルバートへ向いた。その情報を待っていたのだと、誰の目にも分かった。
サルバートは一度だけ私を見た。私は、わずかに頷く。それを確認してから、サルバートはセレスティア殿下へ向き直った。
「灰の幽霊グレイ。年齢は20歳前後。灰色の髪を持つ剣士です。内燃錬成の反応は確認されていません」
セレスティア殿下の表情が止まった。声は出ない。だが、その一点だけで十分だった。
「受け太刀はほとんどありません。相手の攻撃との接触を避け、かわし、そのまま急所へ入る。現地の兵は、流れるような剣技だと証言しています。捉えたと思った時には、すでに攻撃の届く位置から外れている。そこから、灰の幽霊と呼ばれるようになったとのことです」
「……風のような剣、ですか」
セレスティア殿下が尋ねた。その声は静かだった。
サルバートは、手元の報告書へ視線を落とす。
「現地の兵に、同じ問いをした者がいます。風のようか、と」
「答えは」
「風のようだ、と」
セレスティア殿下は、何も言わなかった。ただ、膝の上に置かれた指が、わずかに強く握られた。
私は、その反応を見ていた。レオ殿下の名を聞いた時とは違う。彼女の心は、もうアズライトへ向き始めている。
サルバートは続けた。
「赤の魔女ルチア。こちらも20歳前後。赤銅色の髪を持つ魔術師兼魔導技師と見られます。火と土の魔法を使用。魔導砲、防御装置にも関わり、アズライト防衛の中核を担っているとのことです」
報告書が1枚めくられる。
「また、特殊な魔導銃を1丁使用しています。同じ銃から、盾を1点で貫く攻撃、着弾時に弾けて装甲を破壊する攻撃、兵を押し戻す攻撃が確認されています」
セレスティア殿下が顔を上げた。
「1丁で?」
「はい。現地では、同一の魔導銃から性質の異なる攻撃を放っていると見られています」
レナート・ファルコーネ男爵が、卓上のアズライト方面図を指した。
「グレイは単独で前線指揮官を狙い、部隊の動きを止めています。ルチアは防御線と魔導砲を使い分け、連合軍の攻勢を何度も崩している。現地からの報告では、2人は追い詰められているというより、王国・公国連合軍を翻弄していると見るべきでしょう」
セレスティア殿下の口元が緩んだ。
すぐに引き締めようとしたのだろう。だが、戻らない。
「……そう、ですか」
小さな声だった。
目元が潤み、溜まった涙が一筋だけ頬を伝った。
それでも、彼女は笑っていた。
俯いて、口元へ手を添える。肩がほんの少し震えている。
灰の幽霊と赤の魔女。
灰色の髪。内燃錬成を使わず、風のように流れる剣。
赤銅色の髪。火と土の魔法。複数の性質を使い分ける魔導銃。
生きているかもしれない。それだけでも、彼女にとっては十分すぎるはずだった。
なのに、2人は逃げ隠れているだけではなかった。今もアズライトを守り、王国と公国を相手に戦っている。
「アズライトの民からは、防衛の象徴として見られています。灰の幽霊と赤の魔女。その名は、すでに前線全体に広がっています」
彼女はしばらく顔を上げなかった。
もう一筋、涙が頬を伝った。
「……2人とも」
かすかな声が漏れた。
私は、その横顔を見ていた。
心の底から嬉しいのだと分かった。
5年間、死んだと思っていた2人が、どこかで生きていた。しかも、ただ生き延びているのではない。街の人間に頼られながら、2人で戦っている。
そう考えることを、もう抑えられないのだろう。
だが、その緩みが消えきる前に、サルバートが続けた。
「ですが、状況は極めて危険です」
セレスティア殿下の視線が、サルバートへ戻る。
「アズライト前線の連合軍は、総攻撃を決定しております」
「総攻撃……」
口元に残っていた緩みが、そこで消えた。
「公国側の増援は、12月19日にアズライト方面へ集結予定。現地連合軍は態勢を整え、12月21日に総攻撃を開始する、という報告です」
「……12月21日」
「今日が12月14日なので、残り、7日か」
私の声に、天幕の中が静まり返った。外では北風が厚い布を鳴らしている。
セレスティア殿下は、地図を見ていた。
帝都ガレリアまで2日。アズライト総攻撃まで7日。
彼女の視線が、帝都への道ではなく、アズライトへと伸びる線を追っていることに気づいた。
「その2人が捕らえられた場合、どうなりますか」
セレスティア殿下の声が室内に響いた。
レナートは正面から受けた。
「正式に捕虜となれば、殺すなという命令は出せます」
「なら――」
「ですが、そこまで生きて捕らえられる保証がありません」
セレスティア殿下の表情が固まった。
「現地兵の間では、2人への反感がかなり強くなっています。街が落ちれば血祭りに上げると口にする者までいる。もちろん、軍の方針ではありません」
「止められないのですか」
「捕虜となった後なら止められます」
レナートは逃げなかった。
「ですが、総攻撃となれば2人も抵抗するでしょう。こちらも戦闘の最中に手加減できるとは限りません。捕らえるより先に討たれる可能性があります」
「……高いのですか」
「低いとは言えません」
セレスティア殿下の視線が、すぐに地図へ落ちた。唇を強く結び、南東のアズライトへの道を目で追っている。
さっきまでの笑みを押し込めて、もう時間を計算しているように見える。
喉の奥が冷えた。
「帝都まで、2日ですね」
セレスティア殿下が言った。
「はい」
「攻略には、どれほど」
「抵抗次第です。だが、最短でも3日は見ている」
「その後、大河を船で進めば、アズライトまで2日」
セレスティア殿下は地図を見た。
帝都まで2日。攻略に3日。船でアズライトへ2日。
合計7日。報告にある総攻撃開始と同じ日数になる。
「アズライトへ直接向かう場合は」
「ここから馬で7日ほどです」
クロイツ少佐が答えた。
「部隊として動き、補給を受けながら進むなら、その見積もりになります」
「部隊としてではなく」
その言葉で、息を止めた。
セレスティア殿下は、アズライトまでの道を見ている。
「街道を使わなければ?」
クロイツ少佐がわずかに眉を寄せた。
「殿下?」
「街道は遠回りです。アズライトへ直線的に向かう場合、この山脈で最も低い場所はどこですか」
誰もすぐには答えなかった。
「峠は。獣道でも構いません。旧道や、猟師が使う道はありませんか」
「……詳しい地理情報はありません」
クロイツ少佐が答えた。
「この一帯は元々帝国領です。軍が把握しているのは、街道とその周辺が中心です」
「谷の位置は?」
「分かりません」
「崖になっている場所は」
「街道を外れれば、ほとんど情報がありません」
「水場は?」
「それも同様です」
そこで、セレスティア殿下は質問をやめた。
聞いても答えは出ない。そう判断したのだろう。
代わりに、地図から目を離さなくなった。
街道を外れた先に何があるのか、私たちには分からない。獣道が続いているかもしれない。突然、崖で途切れるかもしれない。地図にも載っていない谷が横切っているかもしれない。
元は帝国領だ。王国軍が持つ地図には、そこまでの情報はない。
それでも、セレスティア殿下の視線は山脈の上を動き続けていた。
目が、らんらんとしている。いや、血走っていると言っても過言ではなかった。
もう、誰かに答えを求めてはいない。
自分で、アズライトへ辿り着く経路を探している。
「……やはり、山を越えた方が早そうですね」
直線上に何があるのか、誰にも分からない。
それでも彼女の中では、もう山越えが一番早い道になっているらしい。
普通なら、あり得ないと切って捨てる話だった。
馬は使えない。補給も続かない。山脈を越える道の有無すら分からない。兵を連れていけず、連絡も途切れる。作戦ではない。
だが、セレスティア殿下だけなら。
アステラ・ピーク戦を思い出す。
崖上に配備された堕天使の輪を壊すため、彼女は内燃錬成を全開にした。
岩壁を蹴り砕き、五、六メートルの崖を一瞬で登り、そこから崖上へ続く山道を駆け上がった。
山脈とは違う。距離も、標高も、消耗も、比較にならない。
それでも、彼女は同じ種類の無茶を、いま選択肢に入れている。
地図にある山がどれほど険しいか、わからない。
だが、行くつもりなのだ。
その先にいるかもしれない2人へ向かうために。
私は、かつて地下室で見た彼女を思い出した。
床に崩れ、胃液と涙にまみれ、ジルの名を呼び続けていた少女。
あの時、私は帝国を憎んだ。兵器として彼女を求め、ささやかな居場所ごと焼き払い、立ち上がる力さえ奪った国を、心の底から憎いと思った。
だが今、その失われた世界がまだ残っているかもしれない。セレスティア殿下は、王国の敵になろうとしているのではない。ただ、クロードとジルフィーナの味方であろうとしている。
そしてこの局面では、それが王国の敵に回ることとほとんど同じ意味を持つ。
胸の奥に、先日の会議でも気づいた痛みが浮かんだ。
彼女が誰かに会いたいと願う顔をしている。その相手が、自分ではない男だということ。それを考えれば、そこに別の感情が混じる。
だが、今はそれを判断に混ぜるわけにはいかなかった。
「セレスティア殿下」
クロイツ少佐の声が低くなった。
「それは進軍ではありません。単独離脱です」
セレスティア殿下は答えなかった。
というより、離脱という言葉そのものに、ほとんど反応していないように見えた。
先日の会議で組み上げた筋書きが、崩れ始めていた。
灰の幽霊と赤の魔女の危機を告げれば、セレスティア殿下は帝都攻略を急ぐ。アズライトへ直接向かうより、帝都を落とす方が二人を救える可能性があるのだと、そう考えさせる。
そのための報告だった。
だが、2人の危機を知ったことで、彼女は帝都を急ぐのではなく、自分でアズライトへ向かう方法を探し始めた。
レオ殿下を忘れたわけではないはずだ。
それでも、死んだと思っていた2人が生きているかもしれない。今、王国と公国を相手に戦場を動かしている。
それを知った今、アズライトへ向かうことが、彼女の中で現実の選択肢になっている。
止めなければならない。
私は拳を握った。
けれど、命じて止まる相手ではない。力ずくで拘束すれば、王国との関係そのものが壊れる。説得するにしても、今の彼女が聞くかどうか。
天幕の中で、誰も次の言葉を出せなかった。
セレスティア殿下の視線は、まだ地図を捉えている。
帝都ガレリアではなく。アズライトへ続く、道なき山の向こうを。
私の喉が、ひりついた。
彼女は、本気だ。
次回更新は 9/15(火)予定です




