第51話 守るための約束
夜になってから、私は自分の幕に戻った。
昼の間は動けた。歩けたし、返事もできた。命令が出れば、それに従えた。
捕虜が移され、負傷兵に水が配られ、補給馬車の位置が変わる。兵たちは小声で話し、すぐに口を閉じる。誰も私に余計な言葉をかけなかった。
半旗。その言葉だけが、ずっと頭の中に残っていた。皇族旗を半旗にせよ。帝国は、そう命じた。ギルフォード兄様は、もう戻らない。
幕の中は暗かった。
小さな灯りだけが、卓の端に置かれている。
外では夜営の火が燃え、馬が鼻を鳴らしていた。誰かが水桶を運ぶ音がする。木の柄が桶の縁に当たり、乾いた音を立てた。
鎧を外そうとして、手順を間違えた。
留め具に指が引っかかる。外したつもりの革紐が、まだ残っている。
何度かやり直して、やっと肩当てが外れた。
防具を膝の上に置いたまま、しばらく見ていた。何をしているのか分からなかった。
火の音がする。外で負傷兵がうめき、誰かが名前を呼ぶ。
それに応じる声がある。私は肩当てを卓に置いた。
ギルフォード兄様は死んだ。
手を差し出してくれたのに、私は取らなかった。
兄様の手。
あの時、取っていれば……。
違う。
あの時は取れなかったし、最後には自分で取らないと決めた。
だが今となっては、どちらでも同じだった。もう、あの手に触れることはできない。
崖。
下を見ることができなかった。
見ればよかったのだろうか?
けれど、見たところで何も変わらない。
人型魔族。
兄様は討った。
討って、落ちた。
私がいたら。私が手を取って、兄様と一緒にいたなら。
兄様に教わった帝式剣術。
クロードの風理の剣。
私の中で混ざったもの。
この強さは何のため?
魔族を倒すため。あの崖で、兄様の隣に立つためだったのではないか。
違う。
私は王国側だ。ここにいることを、自分で選んだ。
でも。
アズライト。
クロード。ジル。
灰の幽霊。赤の魔女。
二人なの?
もしそうなら、まだ生きている?傷を負っていない?
そして……私を恨んでいない?
会ったら、何を言えばいい?
でも、違うかもしれない。合っていても会えないかもしれない。二度と。
兄様にも、もう会えない。
兄様は厳しかった。怖かった。それでも、私を見ていた。
皇女として。剣士として。逃げた妹として。
それでも、手を差し出してくれた。
師匠のようだった。兄であり、家族だった。
家族。
口の中で、その言葉が転がった。
私には、まだ。
――レオ。
顔を上げた。
幕の布が揺れている。
風が入ってきたのか、火の影が一瞬だけ伸びた。
次はレオかもしれない。
ギルフォード兄様は、もう戻らない。
クロードとジルは、まだ分からない。アズライトにも今は行けない。
でも、レオはまだ生きている。
私は立ち上がった。外に出ると、夜の空気が頬を刺した。見張りの兵が驚いて姿勢を正す。
「第二王子殿下の陣幕へ」
「この時間に、ですか」
「今です」
声は震えていなかった。
歩き出す。途中から足が速くなり、走りかけてすぐに抑えた。
皇女として、王国軍に同行する者として。最低限の形だけは崩さない。
ユリウス殿下の陣幕前で、護衛が道を塞いだ。
「セレスティア殿下。お取次ぎを」
「お願いします」
待つ時間が長かった。
幕の奥で声がして、護衛が戻ってくる。
「お入りください」
中には、ユリウス殿下がいた。
卓上に地図が広げられ、灯りが置かれている。
彼はまだ鎧を解いていなかった。地図の上には、帝都へ向かう街道と、山脈を南から迂回してアズライトへ向かう道に目印が置かれている。
ユリウス殿下は顔を上げた。
「どうしました」
私は一礼した。
浅いが、形は整えていた。
「レオが前線に出た時は、必ず私を呼んでください」
ユリウス殿下は、すぐには答えなかった。
私は続けた。
「呼ばなかった場合、それは私への裏切りと受け取ります」
灯りの火が小さく揺れた。
ユリウス殿下は、私を見ていた。
「ギルフォード殿下の件を受けて、ですね」
「はい」
「あなたは、レオ殿下を守りたい」
「はい」
「分かりました」
その言葉に、息を吐きかけた。だが、ユリウス殿下は続けた。
「レオ殿下が前線に出たと確認された場合、必ずあなたを呼びます。これは約束します」
「ありがとうございます」
「その代わり、あなたも約束してください」
止まった。
ユリウス殿下は地図に視線を落とし、帝都へ向かう街道を指で示した。
「レオ殿下以外の皇族が出ても、こちらが救援を求めない限り前線へ出ないこと」
指が別の線へ動く。
「単独で戦線を離れないこと」
さらに、アズライトへの迂回路で止まる。
「アズライトへ向かわないこと」
私はその指先を見た。灰の幽霊。赤の魔女。
「後詰めの護衛任務を守ること」
「……それは」
「あなたがアズライトへ向かえば、帝都攻勢は遅れます」
ユリウス殿下の声は静かだった。
「帝都攻勢が遅れれば、アズライト方面の戦闘は続く。今、戦争を終わらせる最短は、帝都を落とすことです」
嘘ではない。
嘘ではないから、逃げられない。
「私は、レオ殿下が確認された場合、あなたを呼びます」
ユリウス殿下は言った。
「その代わり、あなたはこの戦線から離れない。アズライトへ向かわない」
クロード。ジル。
アズライトの灰と赤の二人は、違う人かもしれない。
レオを守るには、確かめに行くことはできない。
「……分かりました」
ユリウス殿下は頷いた。
「約束します」
「私も、約束します」
私は残響の柄に触れた。
レオが前線に出た時だけは、必ず呼ばれる。
その代わり、私はアズライトへ行かない。単独で戦線を離れない。
そしてレオ以外では、勝手に前へ出ない。
レオを守るために、私はこの条件を受け入れた。
私はもう一度、礼をした。
幕の外へ出ると、夜営の火がまだ燃えていた。馬が眠り、兵が交代し、補給馬車の影が地面に長く伸びている。
東の方角は暗かった。高い山もそびえており、何も見えない。
それでも私は、しばらくそちらを見ていた。
灰の幽霊。赤の魔女。
もし本当に、あなたたちなら。どうか生きていて。
今は……行けません。
私は踵を返した。
帝都へ向かう道へ、戻るために。
次回更新は 9/1(火)予定です




