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無名の風鈴剣 ~消えかけの少年に、天才魔導技師と皇女が激重感情を向けてくる~  作者: 風紋
第二章 遺された風理の剣と、戻れない皇女

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第51話 守るための約束

 夜になってから、私は自分の幕に戻った。

 昼の間は動けた。歩けたし、返事もできた。命令が出れば、それに従えた。


 捕虜が移され、負傷兵に水が配られ、補給馬車の位置が変わる。兵たちは小声で話し、すぐに口を閉じる。誰も私に余計な言葉をかけなかった。


 半旗。その言葉だけが、ずっと頭の中に残っていた。皇族旗を半旗にせよ。帝国は、そう命じた。ギルフォード兄様は、もう戻らない。


 幕の中は暗かった。

 小さな灯りだけが、卓の端に置かれている。

 外では夜営の火が燃え、馬が鼻を鳴らしていた。誰かが水桶を運ぶ音がする。木の柄が桶の縁に当たり、乾いた音を立てた。


 鎧を外そうとして、手順を間違えた。

 留め具に指が引っかかる。外したつもりの革紐が、まだ残っている。

 何度かやり直して、やっと肩当てが外れた。


 防具を膝の上に置いたまま、しばらく見ていた。何をしているのか分からなかった。

 火の音がする。外で負傷兵がうめき、誰かが名前を呼ぶ。

 それに応じる声がある。私は肩当てを卓に置いた。


 ギルフォード兄様は死んだ。

 手を差し出してくれたのに、私は取らなかった。


 兄様の手。

 あの時、取っていれば……。


 違う。

 あの時は取れなかったし、最後には自分で取らないと決めた。

 だが今となっては、どちらでも同じだった。もう、あの手に触れることはできない。


 崖。

 下を見ることができなかった。

 見ればよかったのだろうか?

 けれど、見たところで何も変わらない。


 人型魔族。

 兄様は討った。

 討って、落ちた。

 私がいたら。私が手を取って、兄様と一緒にいたなら。


 兄様に教わった帝式剣術。

 クロードの風理の剣。

 私の中で混ざったもの。


 この強さは何のため?

 魔族を倒すため。あの崖で、兄様の隣に立つためだったのではないか。


 違う。

 私は王国側だ。ここにいることを、自分で選んだ。


 でも。


 アズライト。

 クロード。ジル。

 灰の幽霊。赤の魔女。

 二人なの?


 もしそうなら、まだ生きている?傷を負っていない?

 そして……私を恨んでいない?


 会ったら、何を言えばいい?

 でも、違うかもしれない。合っていても会えないかもしれない。二度と。


 兄様にも、もう会えない。

 兄様は厳しかった。怖かった。それでも、私を見ていた。

 皇女として。剣士として。逃げた妹として。

 それでも、手を差し出してくれた。

 師匠のようだった。兄であり、家族だった。


 家族。


 口の中で、その言葉が転がった。

 私には、まだ。


 ――レオ。


 顔を上げた。


 幕の布が揺れている。

 風が入ってきたのか、火の影が一瞬だけ伸びた。


 次はレオかもしれない。

 ギルフォード兄様は、もう戻らない。

 クロードとジルは、まだ分からない。アズライトにも今は行けない。

 でも、レオはまだ生きている。


 私は立ち上がった。外に出ると、夜の空気が頬を刺した。見張りの兵が驚いて姿勢を正す。


「第二王子殿下の陣幕へ」

「この時間に、ですか」

「今です」


 声は震えていなかった。


 歩き出す。途中から足が速くなり、走りかけてすぐに抑えた。

 皇女として、王国軍に同行する者として。最低限の形だけは崩さない。


 ユリウス殿下の陣幕前で、護衛が道を塞いだ。


「セレスティア殿下。お取次ぎを」

「お願いします」


 待つ時間が長かった。

 幕の奥で声がして、護衛が戻ってくる。


「お入りください」


 中には、ユリウス殿下がいた。


 卓上に地図が広げられ、灯りが置かれている。

 彼はまだ鎧を解いていなかった。地図の上には、帝都へ向かう街道と、山脈を南から迂回(うかい)してアズライトへ向かう道に目印が置かれている。


 ユリウス殿下は顔を上げた。


「どうしました」


 私は一礼した。

 浅いが、形は整えていた。


「レオが前線に出た時は、必ず私を呼んでください」


 ユリウス殿下は、すぐには答えなかった。

 私は続けた。


「呼ばなかった場合、それは私への裏切りと受け取ります」


 灯りの火が小さく揺れた。

 ユリウス殿下は、私を見ていた。


「ギルフォード殿下の件を受けて、ですね」

「はい」

「あなたは、レオ殿下を守りたい」

「はい」

「分かりました」


 その言葉に、息を吐きかけた。だが、ユリウス殿下は続けた。


「レオ殿下が前線に出たと確認された場合、必ずあなたを呼びます。これは約束します」

「ありがとうございます」

「その代わり、あなたも約束してください」


 止まった。

 ユリウス殿下は地図に視線を落とし、帝都へ向かう街道を指で示した。


「レオ殿下以外の皇族が出ても、こちらが救援を求めない限り前線へ出ないこと」


 指が別の線へ動く。


「単独で戦線を離れないこと」


 さらに、アズライトへの迂回路(うかいろ)で止まる。


「アズライトへ向かわないこと」


 私はその指先を見た。灰の幽霊。赤の魔女。


「後詰めの護衛任務を守ること」

「……それは」

「あなたがアズライトへ向かえば、帝都攻勢は遅れます」


 ユリウス殿下の声は静かだった。


「帝都攻勢が遅れれば、アズライト方面の戦闘は続く。今、戦争を終わらせる最短は、帝都を落とすことです」


 嘘ではない。

 嘘ではないから、逃げられない。


「私は、レオ殿下が確認された場合、あなたを呼びます」


 ユリウス殿下は言った。


「その代わり、あなたはこの戦線から離れない。アズライトへ向かわない」


 クロード。ジル。

 アズライトの灰と赤の二人は、違う人かもしれない。

 レオを守るには、確かめに行くことはできない。


「……分かりました」


 ユリウス殿下は頷いた。


「約束します」

「私も、約束します」


 私は残響の柄に触れた。

 レオが前線に出た時だけは、必ず呼ばれる。

 その代わり、私はアズライトへ行かない。単独で戦線を離れない。

 そしてレオ以外では、勝手に前へ出ない。


 レオを守るために、私はこの条件を受け入れた。

 私はもう一度、礼をした。


 幕の外へ出ると、夜営の火がまだ燃えていた。馬が眠り、兵が交代し、補給馬車の影が地面に長く伸びている。

 東の方角は暗かった。高い山もそびえており、何も見えない。

 それでも私は、しばらくそちらを見ていた。


 灰の幽霊。赤の魔女。

 もし本当に、あなたたちなら。どうか生きていて。

 今は……行けません。


 私は踵(きびす)を返した。


 帝都へ向かう道へ、戻るために。


次回更新は  9/1(火)予定です

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