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無名の風鈴剣 ~消えかけの少年に、天才魔導技師と皇女が激重感情を向けてくる~  作者: 風紋
第二章 遺された風理の剣と、戻れない皇女

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第50話 半旗の報せ

 アステラ・ピークを陥落させたものの、王国軍はすぐには動けずにいた。砲台は沈黙し、山腹の陣地こそ押さえたが、帝国軍は陣形を保ったまま整然と退いていた。

 対するこちらは後衛を削られ、補給の遅れに加え、多数の負傷兵の収容すら終わっていない状態だった。確かに戦いには勝った。だが、血を流しすぎた軍は、まず自分たちの千切(ちぎ)れかけた足を繋ぎ直す必要があった。


 そして私は、その最前線から外されていた。後詰めの補給や負傷兵を収容する部隊の護衛、あるいは補給線を狙う奇襲への備え。名目はあるが、置かれた場所は本隊の後方だ。


 補給馬車の列の脇で、私は馬上から山道を見ていた。荷車の車輪が泥を這(は)い、鈍い音を立てる。包帯を巻いた兵が、肩を貸されながら運ばれていく。白い布に血が滲(にじ)んでいた。


 その光景を眺めながら、脳裏には別の地名が張りついている。


 アズライト。


 灰の幽霊。赤の魔女。


 名前も、姿も、年齢も分からない。

 風に舞うような剣。魔導具使い。


 思考を振り払おうとしても、聞いた言葉が頭の中に何度も響く。


 ギルフォード兄様が差し出した手。

 あの手を、私は取らなかった。


 手綱を握る指に力が入る。馬が小さく首を振った。私は息を長く吐き出し、指を緩める。


 前線にも、アズライトにも、自分の意思では動けない。王国軍は足を止め、私は補給線のそばに置かれている。戦争のただ中にいながら、今はただ次の報せを待つしかなかった。


♢♢♢♢♢♢♢♢


 その日の夕刻、最初の噂が入った。


 帝国軍の撤退列後方に、人型魔族が出現した。ギルフォード兄様が単独で交戦し、激戦の末、崖下へ転落したという。


 死亡は未確認。

 その最後の一語にだけ、私は必死にすがりついた。


「殿下」


 そばにいた王国兵が、私の顔を見て姿勢を正した。


「……続けてください」


 自分の口から出たはずの声は、遠くの他人が喋っているようだった。


「確認中です。帝国側も情報を伏せているようで、まだ確かなことは」

「そうですか」


 それ以上、追求することはできなかった。


 人型魔族。


 個体差があるものの、どんなに弱くとも、討伐にはS級冒険者が最低2名は必要と言われる相手。


 だとしても、ギルフォード兄様なら。

 あの人なら、崖から落ちたとしても、岩を蹴り砕き、絶壁に剣を突き立て、木々を掴んででも強引に体勢を立て直す。そういう規格外の戦士だ。私に剣を教え、私よりずっと先に戦場で生きてきた人だ。


 これは帝国の罠かもしれない。王国を引き込むための偽情報かもしれない。

 そうであってほしい。

 泣く必要はない。まだ何も決まっていない。


 まだ。


♢♢♢♢♢♢♢♢


 王国軍が再び動き出したのは、それから数日後だった。


 斥候(せっこう)が先行し、一定の距離を置いて歩兵が続く。騎馬は左右の稜線と街道の曲がりを警戒し、魔術師はいつでも防御陣を展開できる位置に置かれた。


 帝国軍の待ち伏せはなかった。山道には、踏み荒らされた土と、後退した車輪の跡だけが残っている。

 静かすぎた。何も出てこないまま進む。


「セレスティア殿下」


 前方から馬が来た。


「ユリウス殿下がお呼びです」


 呼び出しだった。


 まさか……レオ?

 その名が、真っ先に浮かんだ。


「……帝国のレオ皇子ですか?」


 伝令の兵は首を振った。


「いえ。噂の現場を確認したい、とのことです」


 噂の現場。

 その言葉に、手綱を握る指先が冷えていく。

 案内された場所は、街道から少し外れた崖道だった。


 道は、そこで不自然に尖っていた。転がり落ちるような斜面ではない。片側は岩壁。もう片側には何もなく、足元の道が鋭角に突き出した先で、そのまま絶壁へと切れ落ちている。下までは200メートルほどあるという。


 森が見える、と誰かが言った。


 崖の縁(ふち)に近づく前に、足の裏が冷えた。

 高い。あまりに高い。ここから落ちたのだとしたら、強化も、剣も、何もかもが間に合わない高さだった。


 岩壁には裂け目が走っていた。普通の剣ではつかない深さ。踏み込んだ跡の周囲は岩が砕け、焼けたように黒ずんでいる。少し離れた場所には、腐った魔素の残滓(ざんし)がこびりつき、胃の底を撫(な)でるような気配が残っていた。


 調査具を持った兵が、低く報告する。


「人型魔族の痕跡と見て、ほぼ間違いありません」

「こちらの岩肌への深い複数の跡は……にわかには信じられませんが、剣術による重撃と推定されます」

「崖の近くに、強烈な踏み込み跡もあります」


 私は崖の縁を見た。


 足が動かなかった。


 そこから先を覗(のぞ)けば、何かが終わる気がした。見てしまえば、もう否定できない。真下に広がる森を見て、あそこにギルフォード兄様が落ちたのだと思った瞬間、まだ残している言い訳が消える。


「セレスティア殿」


 ユリウス殿下の声がした。


 振り向くと、彼は崖の縁から数歩の距離を空けて立っていた。こちらに近づきすぎず、かといって遠ざかりもしない。


「ここが、噂にあった場所のようです」

「……確定、ですか」

「断定はできません」


 短い答えだった。


「ですが、もし本当にここから落ちていたなら」


 ユリウス殿下は、そこで言葉を止めた。私は続きを求めなかった。

 崖の下から風が吹き上がってくる。冷たく、湿っていた。


 視線を落としかけたが、強張った首が動かなかった。

 無意識に両腕で身をすくめ、自分の軍服の袖をちぎれんばかりに強く握り込んでいた。


 ――ギルフォード兄様。

 心の中で呼んでも、返事はなかった。


 崖道を離れてさらにしばらく進んだ頃、隊列の前方へ伝令が走った。


 何かがあったようだが、私のいる場所までは声も届かない。補給馬車と負傷兵を守る後方では、前方の動きは遅れて伝わってくる。


 しばらくして、一騎がこちらへ回ってきた。


「前方で帝国兵の小部隊を確認。丘の向こう、南東へ移動中。数は多くなく、負傷兵を抱えている様子です」

「主力ではないのですね」

「はい。おそらく、殿(しんがり)だろうと」


 撤退の後尾なら、人型魔族のことを知っているかもしれない。あるいはギルフォード兄様が落ちた時のことも。


「グランヴィル子爵が捕虜を取る方針で動きました。後方は隊列を維持せよ、とのことです」


 私は、馬を出しかけた。


「殿下」


 しかし、隣の王国兵の声で止まる。

 今の私は、補給と負傷兵の護衛に置かれている。前方で帝国兵を捕捉したからといって、勝手に隊列を離れることはできない。


 伝令がまた前へ戻っていく。

 私は後方に残されたまま、次の報告を待った。

 それからの時間は、ひどく長く感じた。


 何度か伝令が行き来した。だが、こちらまで詳しい話は降りてこない。


 やがて、中衛から呼び出しが来た。捕虜を得た、という報せとともに。

 すぐに馬で駆けると、案内された先でグランヴィル子爵がユリウス殿下に報告していた。


 左腕に包帯が巻かれていた。布の端に血が滲んでいる。顔色は変わらない。だが、馬から降りる動作が少しだけ遅い。


「捕虜を得ました」


 子爵はユリウス殿下へ報告した。


「帝国の殿(しんがり)を捕えました。負傷兵を抱えていたため、足は遅い。ですが、指揮官が異常でした」

「グランヴィルほどの者が、負傷か」

「私ですか。かすり傷です」


 子爵は包帯の上から腕を押さえた。


「死ぬつもりの兵は厄介です。殺すだけなら難しくはありませんでしたが、我々が欲しかったのは首ではなく、口です」

「指揮官は」

「生きています。周囲の負傷兵を見て、剣を下ろしました」


 子爵はそこで、こちらを見た。


「名は、ブリッツ・ベイル。帝国軍の平民士官です。セレスティア殿下と剣を交えた、あの男です」


 連れてこられた男は、片膝をついていた。

 両手は縛られている。首元には傷跡があり、腕にはまだ新しい包帯が巻かれていた。鎧は泥と血で汚れ、肩当ては割れている。

 帝国との初戦。戦場で私の風理の剣を見て、粘り、圧をかけ、無力化しようとしてきた男。

 血を吐くような修練を積み上げ、身を削り、それでも自分の場所を作った人の剣だった。

 あの一瞬、私は彼の首を落とせず、止めた。その感触が、手に戻った。


 男は、私の前で頭を下げた。


「帝国軍所属、ブリッツ・ベイル。先(さき)の戦で、殿下と剣を交えた者です」


 ――平民に、名などありません。

 あの日の声が、短く重なった。

 今回は名乗った。捕虜として、軍人として。必要な場で、必要な名を。


 ユリウス殿下が尋ねた。


「ブリッツ。人型魔族の出現について、知っていることを話せ」


 ブリッツは顔を上げた。媚びる色はなく、言葉を飾る気配もなかった。


「帝国撤退列の後方に、人型魔族が出ました」


 その一言で、周囲の兵が言葉を呑み込み、場が凍りついた。


「第二皇子ギルフォード殿下が交戦。魔族を討たれました」

「討ったのか」

「はい。魔族は翼を持ち、崖といういささか不利な状況でしたが、殿下はかなり優勢でした。最後、魔族を討つ一撃を放った際、同時に魔族が自分ごと崖に放り出すように瘴気を放ちました。そのまま、崖下へ」


 外で、馬の荒い息が聞こえる。

 自分の呼吸音は消え去り、耳の奥で心臓の音だけが異様に大きく鳴っていた。


「落下後、帝国側が捜索を行いました。遺体は収容されています」


 遺体。

 その言葉だけが、はっきり聞こえた。


「皇族旗を半旗にせよとの指示が出ました。士気低下を隠すため、全軍に最大速度で次の街へ撤収する命が下っています」


 ブリッツは続けた。


「主力は速度を優先しました。殿(しんがり)は薄くなり、負傷兵を抱えた我々が遅れました。そこを、王国騎馬に捕捉された形です」


 ユリウス殿下は、もう一つ確認した。


「遺体を見たのか」

「私は見ていません。ただ、収容班にいた者からも聞きました。半旗の指示は、上位指揮系統から正式に出ています」

「撤収命令の理由は」

「第二皇子殿下の死を、兵に悟らせぬためです。いずれ知れます。ですが、その場で崩れれば撤退列は保ちません」


 ブリッツの声は、そこで岩を擦るように一段と沈んだ。


「ギルフォード殿下は、魔族を討たれました。すばらしい絶技でした」


 そして最後は、言葉をひねり出すように続けた。


「最期まで、帝国の皇子でした」


 誰も、すぐには返さなかった。


 『崖から落ちたらしい』という曖昧(あいまい)な伝聞でもなく、『行方不明』というかすかな希望でもない。

 遺体が収容され、半旗が翻(ひるがえ)っているという、動かしがたい結果。


 逃げ道は、完全に塞がれた。

 全身の筋肉が強張り、指先から足の裏まで石のように硬直していた。残響の柄を握る指が痛い。痛いのに、力を緩められない。手袋の下で、爪が皮膚を押している。


「セレスティア殿下」


 ユリウス殿下の声がした。


 返事をしようとしたが、喉が張り付いたように動かない。

 ふっ、と肺に溜まっていた息だけが口から漏れ出た。

 その瞬間、限界まで張り詰めていた全身が不意に弛緩(しかん)し、軽い目眩(めまい)がぐらりと視界を揺らした。

 もう一度、口を開く。


「……分かり、ました」


 それだけ言えた。

 ブリッツが、こちらを見ていた。

 あの日、私の剣を見た男。今日、兄の死を告げた男。


 何か言葉を返そうとしても、喉の奥が震えるだけで音にならない。

 私は彼から視線を外し、覚束(おぼつか)ない足取りでただ背を向けた。


 昼は、そのまま終わった。

 捕虜は移され、負傷兵に水が配られ、補給馬車が位置を変えた。

 兵たちは小声で話し、すぐに口を閉じる。

 夕暮れが山の端に沈み、夜営の火が一つずつ灯った。


 半旗。


 その言葉だけが、私の中に残っていた。


 ギルフォード兄様は、もう戻らない。



次回更新は 8/28(金)予定です。

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