第48話 届いた刃と、取れない手
「来い」
ギルフォード兄様が言った。
「風理の剣を、そこで止めるな」
私は残響を握る。
クロードの剣を変える。その言葉だけなら、拒んでいたと思う。
けれど、ギルフォード兄様はクロードを否定しなかった。ジルを否定しなかった。二人が私に遺したものを、潰そうとしなかった。
伸ばせと言った。終わらせるなと言った。
息を吸い、剣を構え、風を探す。
ギルフォード兄様は動かない。私がどう変えるのかを、ただ待って見ている。
霧滝斬。
防御させ、その手応えを消す。空を押した相手の力を前へ流し、防御の内側へ刃を落とす。クロードが教えてくれた、風理の剣の攻め。
踏み込む。攻める意志を見せ、隠さない。来ると分かっているからこそ、相手は防御する。
ギルフォード兄様の剣が上がる。防御の形。そこへ落とす。
しかし、防御の力は最低限で押し返す気配もなかった。私の剣が消える場所を、最初から待っている。霧の内側を見られている。
なら、重くする。内燃錬成を入れる。防御をすり抜けた先で、もっと深く叩き込む。
そう思って踏み込んだ瞬間、足元から圧が出た。
ギルフォード兄様の目が私を捉える。
「力を乗せるのが早い」
剣が弾かれ、腕が外へ流れる。
「防御の内側へ入る前に、剣の場所を教えている。それでは、霧が晴れる」
呼吸が止まりかける。
兄様は初見のはずの技の本質を、完全に見抜いていた。
「入るまでは軽く。届く瞬間だけ、芯を通せ」
風の中に、確かな芯を。
私はその感覚だけを頼りに、もう一度踏み込む。
今度は内燃錬成を抑え、風理のまま入る。防御を誘い、その内側へ落とす。
最後だけ。剣が落ちる瞬間、腕と腰に内燃錬成を入れた。
重さが乗る。
ギルフォード兄様の防御が間に合い、受けられた。
それでも、先ほどより深い。残響の切っ先が、銀灰の袖を裂いた。
「まだ大きい」
ギルフォード兄様は言った。
「だが、方向はそれでいい」
わずかに届いた。その事実に、指先が熱くなる。
だが、ギルフォード兄様は待ってくれない。踏み込みが来る。
狙いを外し、力を流して逃がす。
そこに内燃錬成を混ぜようとするたび、動きが濁る。強くなる代わりに風が消え、軽くすれば弾かれ、重くすれば読まれる。
難しい。想像していたより、ずっと難しい。
クロードの剣の形を保ちつつ、帝式剣術の芯を通す。ジルの教えてくれた制御で、感情と出力を切り離す。
それでも私のエーテルは多すぎる。細く絞ったつもりでも光が漏れ、圧が出る。ギルフォード兄様には読まれてしまう。
「遅い」
残響が払われる。
「大きい」
肩をかすめる。
「そこで入れれば、相手に教えている」
足が下がる。でも、その声は私を責めていなかった。
この人は、本気の剣を向けながら、同時に私の剣を直している。倒すべき敵であり、帝国の皇子である兄が、まるで師のように。
「ティア」
ギルフォード兄様の声が、低く短く変わった。
「次で試す」
足元に白い光が漏れ、内燃錬成が高まる。
空気が重くなり、ギルフォード兄様の剣先が下がった。
「帝式剣術奥義」
――来る。
分かった瞬間、体が冷えた。
「光龍三閃」
一撃目。銀灰の軍服が視界から消えた。
速い。相手の重心を読み、刃筋の外へ抜ける。
だが、ギルフォード兄様の剣は私を追ってきた。突進しながら刃筋を変え、逃げた先へ剣が届く。肩の布が裂け、血が散った。
二撃目は下から跳ね上がってきた。
残響で受けるが、押す力ではなく、私を宙へ浮かせるための軌道だった。足が地面から離れかける。
このまま足場を失えば、空中で次の刃の的になる。
内燃錬成で弾き返そうとするが、超速の連撃に対応がわずかに遅れた。中途半端に力で抵抗すれば、姿勢を崩されたまま無防備に浮かされてしまう。
ならば、逆らわない。
突き上げる力に身を預け、自ら跳ぶようにして力を逃がす。
あえて浮かされたように見せながら、体幹の芯だけは残して風を探す。
残響を押し上げる刃の軌道、腕を抜ける衝撃、足裏から消える地面。そのすべての流れの中へ入り込む。
ギルフォード兄様の体が時計回りに回った。
三撃目。
一撃目の速さ、二撃目の跳ね上げ、そして回転の重さ。すべてが横一線の刃に乗っている。
これが本命。浮かされた相手なら避けられず、受ければ防御ごと裂かれる。
ギルフォード兄様の剣が走り、私がいた場所を強烈な光が薙ぐ。
三撃目の回転に引きずられるように身を捻り、兄様が踏み込んだ右足の傍へ滑り込む。
空を薙いだ手応えに、ギルフォード兄様の視線が即座に右下へと動いた。
視界の端で、私の位置を正確に捉えている。
私は反撃のために、左足を兄様の懐へ深く踏み込む。狙うのは、右の脇腹。
至近距離から、残響の切っ先を一直線に突き出す。
それに合わせ、即座にギルフォード兄様の右側面に内燃錬成の光が集まった。
攻撃から、防御への切り替え。
こちらの位置を視認し、即座に対応を完了させる判断の速さに息が詰まる。
それでも、私の刃が迫る。
霧のまま突き入り、刃が触れる一瞬だけ、内燃錬成の芯を通した。
ギルフォード兄様の防御が間に合う。最大まで高めた内燃錬成が、銀灰の軍服の下で光った。
超速の連撃を凌いだ直後。私の体勢は十分に整い切っておらず、腕へ回すエーテルの流れも不完全だった。
それでも、押し込んだ。
刃が入る。浅くない。血が飛んだ。
ギルフォード兄様の体が大きく下がる。
近くで戦っていた帝国兵が、息を呑んだ。
斬った。
ギルフォード兄様を。
ギルフォード兄様は傷口を押さえた。血が指の間から落ちる。けれど、膝はつかず、剣も構えてはいる。その目は、私を見ていた。
「粗い」
最初に出た言葉は、それだった。
「切り替えが遅い。出力が大きすぎる。踏み込みも甘い。今のままなら、二度目はない」
血が落ちる。
「だが、届いた。私が防いで、なお」
ギルフォード兄様は傷口から手を離す。その手は血で濡れていた。
「ならば、魔族にも届く」
魔族。その名で、ようやく分かった。
兄様は、もっと先の戦場を見ている。
「よくやった、ティア」
褒められたのだと気づいた時、手が震えた。
嬉しいのか怖いのか、分からなかった。
ただ、胸が熱かった。
でも、目の前の血を見れば、その熱はすぐに冷えた。兄様を傷つけた事実だけが、重かった。
「その剣術を遺した者に、礼を言う」
血を流しながらも、落ち着いた表情だ。
「ティアを、ここまで生かした」
次に、私の腕へ視線を移す。エーテルの流れを見ている。
「制御を遺した者にも」
ジル。名前を出さなくても分かった。
「二人がいなければ、お前はここに立っていない」
ギルフォード兄様は、わずかに目を伏せた。
「そして、詫びる」
声は小さくなく、戦場の音に負けない声だった。
「帝国は、その二人を奪った」
言葉が刺さる。
怒り、悲しみ。
そして言葉にもできない、重たいものがのしかかってくる。
この人は分かっている。クロードとジルが私に何を遺し、帝国が何を奪ったのか。その上で、背負うと言っている。
ギルフォード兄様が一歩こちらへ進み、剣を収める。
血に濡れていない反対の手を、私へ差し出した。
「戻ってこい、ティア」
差し出された兄様の手を見る。五歳を過ぎてから、ずっと遠くなっていた手だった。
取れば、戻れるのだろうか。帝国へ、レオのところへ、皇族のいる場所へ。
けれど、私の手は剣を握ったままだった。
クロードが遺した剣術。ジルが守ってくれた私。焼けた家と、戻らない日々。
そのすべてを握ったまま、兄様の手へ伸ばすことができなかった。
ギルフォード兄様は、硬く握ったまま動かない私の手を見た。
「……そうか」
それ以上は言わなかった。怒らず、責めず、ただ理解した顔だった。
手を取ることを阻む理由を。
それを奪ったのが誰なのかを。
戦場の向こうで、王国軍の声が大きくなっていた。
中衛が広がり、ユリウス殿下が立て直した部隊が街前へ押し出してくる。
帝国兵はまだ強いが、後続を削り切れなかった。堕天使の輪はもうなく、王国軍の数が少しずつ街を包み始めている。
ギルフォード兄様は戦場を見た。
中央はまだ崩れていない。ギルフォード兄様がいる限り、王国中央は前へ出られない。
だが、逆側が伸びていた。王国左翼が帝国右翼へ食らいつき始め、狭隘部を抜けた中衛がそこへ流れ込み、街壁の手前まで押し寄せていた。それでも、帝国左翼は崩れていない。
ギルフォード兄様からそう遠くない、百五十メートルほど先の高所。そこに、金髪の少年がいた。
レオ。皇族の外套をまとい、近衛と帝室随員に囲まれながら前線に立っている。
軍人ではないはずだった。王国側の資料では、帝室府付の特命皇族補佐官と記されていた。それが、なぜ戦場で剣を抜いている。
王国右翼は、レオのいる高所を抜かなければならない。あそこで王国右翼が崩れれば、レオは弧を描くように王国中央の側面へ回り込める。そうなれば、先頭集団と中衛が裂かれる。
ユリウス殿下がそこへ向かった理由が、ようやく分かった。王国右翼を押し返されるわけにはいかない。
それでも、レオのいる場所は崩れていなかった。ユリウス殿下が加わってなお、押し切れていない。あの子は、守られているだけの皇子ではなかった。
でも。
知りたかったのは、強さではない。
罰を受けなかったのか。あの日の優しい目を、まだ持っているのか。今も私を、姉と呼んでくれるのか。確かめたかった。名前を呼びたかった。
ギルフォード兄様が、血のついた手を上げた。
レオがそれを見る。遠すぎて表情までは分からないが、レオはすぐに反応して近衛へ指示を出す。
その直後、街の奥から号砲が鳴った。
一発。間を置いて、もう一発。
撤退の合図。
帝国軍が動き出す。隊列を保ち、整然と下がっていく。
勝ったのか、勝たされたのか。分からなかった。
ギルフォード兄様はまだ立っている。レオのいる高所も崩れていない。それでも帝国は引いた。
レオもまた、遠くで兵に囲まれながら後退を始めた。
レオに、会えなかった。
ギルフォード兄様は最後に私を見た。
「次に会う時は、答えを持て」
そう言って、背を向けた。
ギルフォード兄様の背中が遠ざかっていく。
幼い頃、あの背中に憧れていたことを、今さら思い出した。
強大な兄。
そして、これが大きな分かれ道となります。
次回更新は 8/21(金)予定です。




