第44話 花の袋(フラワーポケット)
アステラ・ピークへの道は、山に挟まれていた。
平原から続く街道は、最初こそ広い。
けれど進むほど左右の山肌が迫り、道幅はじわじわと狭くなる。
やがて、軍列は細く絞られた。
ひょうたんのくびれのような地形だった。
前が詰まれば後ろが詰まる。
後ろが押せば前が潰れる。
谷底の左右は崖と岩棚。逃げ場はない。
そして、その狭い道を抜けた先に、アステラ・ピークの街がある。
5年前、王国軍が越えられなかった山間の要衝。
ユリウス殿下は、馬上からその地形を見ていた。
「5年前と同じ轍は踏まん。――斥候」
「はっ」
「崖上を確認しろ。魔力反応、伏兵、落石準備。見えるものは全て拾え」
騎兵と軽装兵が左右へ散る。
魔術師が短い詠唱を重ね、風と土の感知魔法を斜面へ流した。
しばらくして、斥候が戻る。
「露骨な伏兵は確認できません。崖上に古い陣地跡、岩棚、崩落跡あり。魔力反応は微弱。ただし遮蔽物が多く、奥までは見通せません」
「見えぬ、という報告だな」
ユリウス殿下はそう言った。
そもそもが安全ではない。それは分かっている。
けれど、ここを越えなければ帝都へは届かない。
「魔術師隊は狭隘部に残れ。上方防御を薄く張り続けろ。落石、矢、魔法を受けた瞬間だけ厚くする。無駄に厚く張るな。魔力が持たなくなる」
「はっ」
「先頭は止まるな」
ユリウス殿下の視線が、私へ向く。
「セレスティア殿、君は先頭集団につけ。精鋭騎士と突破部隊を連れて、まず先頭が無事に狭隘部から抜けることが重要だ」
「はい」
「戻るな」
ユリウス殿下の目を見つめて、問う。
「後方が襲われても、ですか」
「戻れば全軍が止まる」
ユリウス殿下は、苦い声で言った。
「もし伏兵がいれば被害を受ける。だが、受ける前提で進む。先頭が止まれば、詰む」
分かっている。
それでも、胸の奥が冷えた。
後ろで誰かが死んでも、私は前へ行かなければならない。
私が進めば、助かる者がいる。
戻れば救える命もあるかもしれないが、結果として軍全体ではより多くの血が流れる。
どちらを選んでも、誰も死なせないという選択肢はない。
それが、先頭に立つ者の責任だった。
ふとユリウス殿下の後方へ視線をやると、公国のエリオ・サルバート主席調整官がこちらを見つめていた。
将官たちが険しい顔で崖上や街を睨み、戦局を協議している。そのすぐ傍らで、彼だけは戦場ではなく、私を見ていた。
戦場の地形も、罠の気配も見ていない。
ただ静かに、私だけを観察していた。
私はその不気味な視線を振り払うように前を向き、愛刀・残響を抜く。
「行きます」
王国軍が、狭隘部へ入った。
最初は静かだった。
山肌に囲まれた道は、思ったより暗い。
空は見えているのに、左右の崖が光を削っている。
足音が反響する。
馬の息が響く。
鎧の擦れる音が、岩肌に跳ね返る。
上には、薄い防御膜が張られていた。
魔術師たちが狭隘部の各所に残り、頭上へ淡い光を広げている。
落石や矢を完全に止めるほど厚くはない。
けれど、何かが落ちてくればすぐに厚くできる。
無策ではなかった。
5年前の悪夢を、知っている。
だから、全てを守ろうとはしていない。
少しでも多くを、少しでも早く、通す。
そのための防御だった。
前方に帝国兵が見えた。
少数。
盾を構えているが、数は多くない。
街道を塞ぐように立っている。
「突破!」
精鋭騎士が叫んだ。
私は馬を走らせる。
帝国兵の魔法が飛ぶ。
土壁が立ち、炎が走る。
けれど、私の前では薄い。
白環防核を展開するまでもなかった。
残響を振るい、真正面から打ち合うのではなく、敵の剣を流して槍の軌道をずらす。
盾を押し返そうとする力を空回りさせる。
敵の力は、私の前で行き場を失った。
体勢を崩した帝国兵の隙間へ王国騎士の槍が突き込まる。
帝国兵は抗戦もそこそこに、私たちを街の方へ引き込むように奥へ奥へと退いていく。
妙だった。
城壁を守る要所であれば、魔導砲やあの血の弾丸が惜しみなく使われると思っていたのに、先頭への攻撃が不自然なほどに薄い。
前へ進むにつれて抵抗はあるものの、まるで私たち先頭集団を本気で止める気がないかのようだ。
その不気味な手応えのなさに相反し、背後から響く音が重苦しさを増していく。
不意に頭上で何かが弾け、左右の岩肌の上から、凄まじい勢いで矢と火球が降り注いだ。
「上方防御!」
後ろで魔術師の詠唱が重なる。
薄かった防御膜が一瞬だけ厚みを増す。
火球が弾け、矢が光に絡め取られ、砕けた石が膜の表面を滑り落ちていく。
凌いだ。だが、休む間もない。
雨あられと降る頭上からの殺意を、光の膜がその都度弾き返す。
背後から聞こえる魔術師たちの声が、じわじわと荒れ、掠ていった。
それでも、私たちは前へ進むしかなかった。
やがて左右の崖が開け、狭隘部の出口の向こうに広い空間が見え始める。その先には、山肌へ張り付くように築かれた城塞都市、アステラ・ピークがそびえていた。
街壁の上に翻る帝国旗へ食らいつくこと。それが、私たち先頭集団の役目だった。
その時、後方で轟音が響いた。
思わず振り返りかけた私を、「振り返るな!」というユリウス殿下の声が引き留める。
彼も先頭集団に位置し、抜刀したまま前を見据えていた。けれど、その横顔は岩のように強張っている。
「後衛が襲われた。だが先頭は止まるな!」
歯を食いしばる。後ろからは、すでに悲鳴が上がり始めていた。
見なくても分かる。あの音は、赤エーテルで膨れ上がった魔獣――血の弾丸が隊列に突っ込んだ音だ。
私が前にいるから、後ろには届かない。守れない。
けれど、戻ればここで全軍の足が止まってしまう。
前へ。前へ。
前を開ける。それしかない。
上空からは、さらに攻撃が降り注いでいた。
魔術師隊が防ぎ、防御膜が厚くなるたび、全体の光は確実に薄れ、彼らの声も少しずつ掠れていく。
命懸けで守っている。それでも、確実に削られていた。
この狭い道そのものが、兵をすり潰す巨大な罠だった。
前衛は進む。
中衛が詰まる。
後衛が乱れ途切れる。
軍列が伸びていく。
花の茎のように、細く、長く。
そして、そこを折るための攻撃が降ってくる。
狭隘部の中ほどで、崖上に何かが運び出された。
最初、それが何かわからなかった。
三つに分かれた部品を、内燃錬成で強化した帝国兵が組み上げている。
台座。
青い燃料槽。
短い砲身。
砲身は長くない。
一メートルほどだろう。
けれど、ただの魔導砲ではなかった。
後部の燃料槽が脈打ち始める。
砲身に刻まれた細い線が、白く光り始める。
そして。
砲口の先、何もない空中に白い線が走った。
口径の倍ほどの円が、一瞬で組み上がる。
輪の内側を、細い回路光が枝分かれしながら満たしていく。
白い輪。
砲身から浮かび上がる、冷たい光の輪。
誰かが叫んだ。
「堕天使の輪だ!」
戦場の音が、遠くなった。
上方防御の詠唱も。
馬の嘶きも。
兵の悲鳴も。
全部。
見ないようにしていた記憶が、勝手にこじ開けられていく。
ジルの笑顔。
クロードとの鍛錬。
風鈴の音。
大切な、残り火の家。
私のすべてを吞み込んだ、あの兵器が……。
崖上の砲口が、こちらではなく、中衛へ向けられる。
王国の魔術師隊が、上方防御を張ったまま、そちらへ多く魔力を回す。
だが、それでは足りない。
白い輪が、さらに何重にも折り重なる。
圧が高まり、輝きがどんどん増していく。
声にならない絶叫が、ひきつった喉の奥で凍りついていた。
♢♢♢♢♢♢♢♢
先頭は街へ食らいつき。
中衛は狭隘部に残され。
後衛は血に乱れ。
王国軍は、罠を警戒していた。
警戒していたはずだった。
それでも、軍列は伸びきっていた。
守るべき場所は増え、守れる力は削られていた。
花を誘引し、圧倒的火力で茎を折る。
すべては、帝国の想定通りに進んでいた。
ただ一つ。
その輪が、彼女にとって何を焼いたのかを。
帝国は、まだ知らない。
次回更新は 8/7(金)予定です。




