第43話 勝利の熱
アルヴェールは落ちた。
王国軍の損耗は予想よりも軽く、街も思ったほど荒れてはいなかった。
焼けた家はまばらで、その平穏さがかえって妙だった。
「帝国兵は、あんなにいたはずだ」
街角で、男が言った。
「主力は王国軍を迎え撃つために出たって聞いた。だが戻ってこねえ。あんたらがやったんだろ?」
「いや、途中でそんな大軍とは……」
王国兵が言いかけるが、別の住民が声をかぶせた。
「風理の剣だ!」
「そうだ。風理の剣が来たから、帝国兵は逃げたんだ!」
「ならアステラ・ピークもいけるぞ!」
「5年前とは違う!」
声は、街のあちこちで上がった。
最初の声に、周囲が乗った。
けれど、その前から待っていたように、同じ言葉を叫ぶ者もいた。
周囲の反応を待たず、声だけが先へ先へと走っていく。
「帝国は逃げ腰だ!」
「今なら帝都まで行ける!」
「立て直される前に叩け!」
それらの声が、さらに人々の声を引き出していく。
勝利の熱が街に満ちていった。
ユリウス第二王子殿下は、その声を黙って聞いていた。
表情は険しい。
「死体が少ない。捕虜もだ。帝国兵はどこへ消えた」
側近が答える。
「街外へ撤退したものと思われます。追撃すれば、再編前に叩けます」
「そのために、こちらを急かしているようにも見える」
「罠の可能性はあります」
別の将が低く言う。
「ですが、ここで足を止めれば、帝国はアステラ・ピークで防備を固めます。5年前と同じになる」
アステラ・ピーク。5年前に王国軍が越えられなかった山間の要衝だ。
その時、ヴァルネシア公国の武官、レナート・ファルコーネ男爵が一歩前へ出た。
王国派遣観測武官として同行している男だ。
年嵩で、軍人らしい厚い胸板を持ち、声はよく通る。
同じ公国人のエリオ・サルバート主席調整官とはタイプが違う。
サルバートが静かに測る文官なら、ファルコーネ男爵は場に言葉を投げ込む武官だった。
「殿下。公国側からも報告が入っております」
ユリウス殿下が視線を向ける。
「帝国領のアズライトへ、王国公国連合軍が圧力をかけ始めました。帝国はここ中央に加え東にも対応せざるを得ません」
周囲の将たちがざわめく。
「ようやく東が動いたのか」
「ならば帝国は二正面だ」
「アステラ・ピークに兵を集めきれん」
ファルコーネ男爵は強く頷いた。
「帝国は青エーテルと禁忌兵器に頼り、人類圏の均衡を乱しました。魔王復活の兆しを抱く国に、立て直す時間を与えるべきではありません」
そして、声が一段強くなった。
「今、王国軍は勝っています。セレスティア殿下もおられる。ここで退く理由はありますまい。帝国が整う前に、叩くべきです」
それは正しいように聞こえた。
帝国は二正面。
アルヴェールは落ちた。
まだ王国軍の損耗は軽く、私は攻城戦にも強い。
進む理由ばかりが、増えていく。
少し離れた場所で、サルバート主席調整官が黙っていた。
彼はファルコーネ男爵の言葉にも、兵たちの熱にも、表情を変えなかった。
ただ、私を見ていた。
私が立ち直った時。
「風理の剣」と呼ばれた時。
老女から目を逸らせなかった時。
そのすべてを、記録するように。
ユリウス殿下は私を見た。
「セレスティア殿。あなたはどう見る」
帝国の動きは、確かに妙だった。
でも。
ここで止まれば、帝国は準備を整える。
準備万端の帝国軍と、山間の城塞で戦うことになる。
だが今なら。
そして、私が前に出れば被害は減らせる。
「進むべきです。私が先頭に立ち、道を開きます。血の弾丸が来ても、私が焼きます」
ユリウス殿下の目に、かすかな戸惑いが走った。
「危険だ」
「危険なのは、私が前にいない時です」
言ってから、背筋に冷たいものが走った。
私が前にいなければ、誰かが死ぬ。
私が止まってしまったら……。
「分かった」
ユリウス殿下は短く言った。
「だが、突出は許可できません。軍列を保って進みます。道中で隊列を崩されるようなら、下がっていただく」
「はい」
命令はすぐに全軍へ伝えられた。
王国軍はアルヴェールを発ち、山間の要衝アステラ・ピークへ向けて進軍を開始する。
勝利の熱は、そのまま兵たちの足を前へと押していた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
アルヴェール平原へ出た王国軍は、何度も帝国兵と接触した。
最初は、小さな騎兵隊だった。
こちらの先鋒に矢を射かけ、すぐに退く。
王国騎兵が追う。
追いつく前に、敵は散る。
次は、歩兵混じりの小隊。
壕の残骸のような場所に潜み、魔法を撃ってきた。
こちらが盾を進めると、すぐに逃げた。
そのような小さな戦果だけが、何度も積み上がっていった。
敵は現れては退き、また現れる。
そのたびに王国軍は押し返した。
撃退の戦果だけが、積み上がっていく。
けれど、勝っているという実感は薄かった。
「崩れているぞ!」
「逃がすな!」
「帝国軍はもう持たん!」
前衛の一部が、退く帝国兵を追って軍列から離れかける。
「隊列を崩すな! 深追いするな! 前衛、戻れ!」
指揮官の怒声にも、兵たちはすぐには応じなかった。
アルヴェールを落とした。
帝国兵は逃げている。
東でも連合軍が動いた。
勝利を疑う者は、少しずつ減っていった。
私は先頭より少し後ろ、必要ならすぐ前へ出られる位置にいた。
帝国兵が消えるように退いていく。
死体は少なく、敗走に見せかけているかのようだ。
(……逃げ方が、うまい)
分かっていた。
それでも、止まる理由がなかった。
足を止めれば帝国は防備を整え、結果的に味方の死者が増える。
私が前線にいれば、いざという時でも損耗を抑えられるはず。
――論理は正しい。けれどそれは、頭の中だけで組み上げた「正しいだけ」の理屈だった。
やがてアステラ・ピークが遠目に見えてきた時、前方の丘の陰から、魔獣が飛び出してきた。
赤黒く膨れ上がった異常な体。
肉の下で血管のような光が脈打っている。
脚が地面を抉るたび、土と石が跳ねた。
無数の矢が突き刺さっても、止まらない。
古参兵が叫んだ。
「血の弾丸だ!」
前衛が堅固な盾の壁を作り、その隙間から迎撃の槍を突き出す。
痛みも恐怖もない。
赤く膨れた魔獣はただ狂ったように、まっすぐその陣形へと突っ込んだ。
肉に触れた端から、槍が飴細工のように折れ飛んでいく。
次の瞬間、盾と槍と人の体が、まとめて弾け飛んだ。
前衛の一角が崩れる。
吹き飛んだ馬や兵が宙を舞い、絶叫が重なり合う。
即死した者は十数名。負傷し、地に伏した者はその何倍にも及んだ。
私は、声もなく立ち尽くした。
私が前にいなかった。ただその事実だけが、鋭い刃のように突き付けられる。
「セレスティア殿!」
ユリウス殿下の声。
私はすでに馬を走らせていた。
遠く、二体目の魔獣が現れた。
先ほどとは別の種だが、同じ赤黒い光を抱えている。
血の弾丸。
帝国の禁忌兵器。
私は馬を走らせながら、吸い込まれるように右手を突き出した。
大気が震え、光さえも歪むほどの膨大な魔力が、一点に収束していく。
「天の白閃!」
音さえも置き去りにし、視界を白一色に染め上げる光が、空間を切り裂いて放たれた。
二体目の魔獣は、王国軍へ届く前に消し飛んだ。
赤い光が、白に呑まれる。
膨れ上がった肉体が崩れ、灰のように散った。
一瞬の静寂、そして歓声。
「止めた!」
「皇女殿下が止めたぞ!」
「やはり勝てる!」
私は前を見据えた。
三体目が現れる。
だが、すでに最前列にいる今の私なら即座に迎撃できる。
放たれた白光が、三体目の魔獣を焼き尽くす。
兵たちの歓声がひと際大きく弾けた。
その声を背に受けながら、私はさらに前へ馬を進めていた。
さっき裂けた前衛の姿が、目に焼き付いている。
あの場所に、私がいればよかった。
そう思った時には、もう下がるという考えは消えていた。
王国軍は進んだ。
小競り合いのたびに敵を追い払い、警戒は少しずつ薄れていった。
山間の要衝、アステラ・ピーク。
5年前、王国軍が越えられなかった街。
今度こそ越えられる。
兵たちの声に、その確信が混じり始めていた。
次回更新は 8/4(火)予定です。




