第42話 残響
剣の鞘に、指を添える。
ロラン侯爵から与えられた剣だった。
銘は、残響。
カレル・オルフェンという鍛冶師が打った、響の名を持つ剣の一本だという。
鳴響。
遠響。
双響。
そうした銘を持つ剣を打つ職人で、未だ名匠と呼ばれるには実績が少ないが、確かな腕を持つ男なのだと言っていた。
4年前。王国へ来て、半年ほどが過ぎた頃だった。
私は、ずっと木刀を振っていた。
朝も、昼も、夜も。
食事も、眠ることも忘れて、ただ同じ型を繰り返していた。
そうしていないと、全部が嘘になる気がしたから。
クロードが教えてくれた剣。確かにそこにいた証。
この手を止めたら、本当に何も残せなくなる気がした。
叔父様は、そんな私に剣を渡した。
『近頃、領地の外れに魔獣が出ている。倒してこい』
ぶっきらぼうな言い方だった。
少しは役に立てという命令だと思っていた。
けれど、今なら少し分かる。
私を外へ出そうとしてくれたのだ。
壊れたまま、止まった世界で剣を振り続ける私を。
世界の『今』に触れさせようとしてくれた。
魔獣退治など、口実だったのかもしれない。
私は鞘を握る手に、少しだけ力を込める。
残響。
消えた音のあとに残るもの。
叔父様は、この銘を気に入って、私へ渡したのだと言っていた。
当時の私は、その意味を考えなかった。
ただ、戦えという意味で剣を渡されたのだと思った。
けれど、きっと知っていたのだ。
私が、風鈴の音を大切にしていたことを。
その小さな音を、失くしたくないもののように抱えていたことを。
だから、銘を含めて、この剣を選んだのかもしれない。
いつも、お前を見守っていると。
――私は、顔を上げた。
叔父様は、馬の横に立っていた。
いつものように背筋を伸ばし、厳しい顔をしている。
けれど、その目は少しだけ疲れていた。
「行ってきます、叔父様」
自然に出た言葉だった。
叔父様は、不意を突かれたように目を丸くした。まるで、初めて見るかのように、声もなく立ち尽くしている。
なぜそんな顔をするのか、一瞬だけ分からなかった。
けれど、すぐに思い至る。
冷たく閉ざし、何も映さず、己を呪い……ただ誰かを殺すためだけに研ぎ澄ませてきた目。
私が今まで見せてきたのは、そんな刃のような眼差しばかりだったからだ。
でも、今の私はきっと違う。
見守ってくれた人に、きちんと見送ってほしい。今はそう願っている。
その想いを込めて、叔父様を見つめる。
その喉が、小さく震えた。
「……行ってこい」
短い言葉だった。
「……お世話に、なりました」
そう言うと、叔父様の目じりに涙が溜まるのが見えた。
違う。お別れの言葉にしたかったのではない。
ただ、今まで受け取ってきたものを、ちゃんと伝えたかっただけだ。
そして。
また会いたいのだ。
「帰ってきます」
叔父様は、すぐには答えなかった。
目じりに溜まったものを、瞬き一つで押し戻す。
「――うむ。いつまでも、待つ」
一礼し、私は馬へ足をかける。
少し離れた場所に、ヴァルネシア公国の文官が一人控えていた。
エリオ・サルバート。
対外調整局の主席調整官だという。
ユリウス第二王子殿下は、すでに本軍を率いて出立している。
王国の主だった将も、政治的な権力を持った文官も、ほとんどが前線へ移っていた。
なのに彼だけが、このカストレイルに残っていた。
理由は、連合軍の連絡調整。
そう説明された。
王国と公国の間に立ち、戦況、補給、派遣部隊の連絡を整えるためだと。
理屈は通る。通るけれど。
この人は、なぜ私の出立を待っていたのだろう。
サルバートは丁寧に頭を下げた。
「セレスティア殿下。道中、ご同行いたします」
声は穏やかだった。
礼も正しい。
けれど、その目だけは、少し違った。
私の表情を、じっと見ている。
医者が患者を診るように。
ひびの入った器が、どこから割れているのか確かめるように。
一つも見逃すまいという意志が、その視線にはあった。
「……私に、何か?」
「いいえ」
サルバートは、すぐに微笑んだ。
「連合軍として、必要な確認を行うだけでございます」
必要な確認。
その言葉だけが、少し耳に残った。
私は馬腹を蹴った。
『残響』を腰に。
風理の剣を胸に。
戦場へ戻る。
◇◇◇◇◇◇◇◇
ユリウス殿下の本軍へ追いついたのは、翌日の昼過ぎだった。
軍列はすでにアルヴェールの手前に布陣していた。
王国の旗が並び、騎兵が左右に展開している。
魔術師隊は後方で詠唱陣を組み、歩兵は盾を前に押し出すようにして前線を支えていた。
空気は重い。
「来たか」
ユリウス殿下が、馬上からこちらを見た。
「アルヴェールは?」
私が尋ねると、ユリウス殿下は短く答えた。
「硬い。想定よりも、ずっとな」
その言葉に、近くの騎士が顔をしかめる。
「帝国軍は、街を守る気でいます。壕、土塁、魔導砲。城門前には殺し間もある。初攻めでは、こちらも押しきれませんでした」
別の将が続ける。
「ただし、奇妙な話も。帝国の主力は、王国軍迎撃のため街を出た、と住民が証言しているようです」
「主力が?」
ユリウス殿下が、ピクリと片眉を動かした。
「では、なぜ抜けない」
「残った守備兵の練度が高いのでしょう。あるいは、住民の証言が誤りか」
私はアルヴェールの方を見る。
低い壁に囲まれた平原の街。
帝国領最南端の都市。
5年前に王国が奪い、2ヶ月前に帝国が奪い返した街だ。
王国はこの5年間、この街の人々に「帝国は魔王復活に連なる危険な国」だと語り続けた。
王国こそが、人々を守る解放者なのだと。
だが、この街はもともと帝国領だった。
帝国の法で暮らし、帝国の税を払い、帝国の兵を見て育った人々がいる。
たった5年で、すべてが塗り替わるわけではない。
アルヴェールの城門には、淡い魔法陣の光が浮かんでいた。
対魔法防御。
普通の魔術師なら、あの門を抜くには時間がかかる。
何人もの魔術師が詠唱を重ね、護衛をつけ、砲撃と矢を耐えながら、ようやく削る。
だから街は守れる。
普通なら。
「私が開きます」
私が言うと、周囲の兵が一斉にこちらを見た。
期待と不安。そして疑い。
そのすべてが混ざり合った視線が、私の背中に突き刺さる。
カストレイルで、風理の剣の名は少しだけ広がった。
だが、それで城門は落とせない。それは、私が一番よく分かっている。
前へ出る。剣は抜かない。
城門の上から、帝国兵の声が飛ぶ。
弓兵が構え、魔導砲の砲口がこちらを向く。
ユリウス殿下が短く命じた。
「前衛、散開。魔術師隊、防御。彼女の射線を開けろ」
王国兵が左右へ割れる。
私は、右手を上げた。
身体の中心からエーテルが膨らみ、形を持つ。
城門の防護刻印が、こちらへ反応して明滅した。
集中し、息を吸う。
「天の白閃」
白光が走った。
城門に刻まれていた魔法陣が、一つずつ弾けた。
外側の防御刻印が焼ける。
次に、内側の補強線が砕ける。
帝国兵が何かを叫んだ。
けれど、その声は光に呑まれた。
城門が、ひしゃげる。
木材と鉄板と魔導補強の層が、白い光の中心から押し潰されるように割れた。
轟音と共に、門の一部が内側へ吹き飛ぶ。
「突入!」
王国軍の号令が響いた。兵たちが雪崩れ込む。
帝国兵は門内の狭い通路に盾を並べ、横合いから魔法を撃ち込んできた。
だが、すでに門は開いており、王国兵の数が押し進んでいく。
私はその後ろから進んだ。
敵の剣を流し、味方の槍が入る隙を作る。
進路を塞ぐ兵を崩す。
斬り伏せるよりも、道を開く。それだけでよかった。
しばらくして、帝国兵が退き始めた。
乱れているように見えた。
けれど、完全な混乱ではない。
奥へ。
横道へ。
小隊ごとに分かれて、散っていく。
王国兵が歓声を上げる。
「抜いたぞ!」
「帝国が逃げた!」
「アルヴェールを獲ったぞ!」
街の中からも、人々が顔を出し始めた。
最初は恐る恐るだった。
窓の隙間や路地の奥、壊れた扉の陰から。
けれど、やがて誰かが叫んだ。
「風理の剣だ!」
私は足を止めた。
「王国には風理の剣がある!」
声は広がっていく。
「見たか!? 帝国の門を一撃で壊したぞ!」
「風理の剣だ!」
「王国には風理の剣がある!」
違う。
門を開いたのは、風理の剣ではない。
あれは単なる魔力の塊だ。
私の、皇族としての力だ。
クロードの剣術ではない。
でも、声は広がっていく。
心の底に、小さな温もりが灯る。
けれど同時に、罪悪感がチクりと刺さった。
違うと言いたかった。でも、言えなかった。
この名が広がることを、私は望んでいた。
あの人の剣が。
あの人の生きた証が。
誰かに届くことを。
だから、私は黙り、剣を鞘へ戻した。
その時。
視線を感じた。
路地の奥に、老女が一人立っていた。
歓声を上げる王国兵の間を縫うように、ただこちらを見ていた。
その目に、怒りはなかった。
ただ、深く沈んだ諦めだけがあった。
また、奪われる。
そう言われた気がした。
私は、視線を逸らせなかった。
風理の剣。
王国の英雄。
帝国の裏切り者。
その老女にとって、私はどれだろうか。
歓声が続く。
私だけが、その音から切り離されていた。
次回更新は7/31(金)の予定です。




