第41話 墓標の名
前話からの続きです。
少し長めですが、セレスティアにとって大事な整理の回になります。
私は、まだ地下の部屋にいた。
カストレイルへ入ってから、もう何日も経っていた。
ユリウス殿下は、早馬でロラン侯爵を呼んだという。
殿下自身は、少し前に本軍を率いて出立していた。
帝国に防衛線を築かせるわけにはいかない。カストレイルで足を止める余裕など、王国軍にはなかった。
戦争は進んでおり、私だけが止まっていた。
地下の部屋は、変わらず静かだった。
窓はない。厚い石壁がドーム状に半円を描いた空間。
声を出せば、わずかに反響する。
あの日から、何度も食事が運ばれてきた。
けれど、ほとんど手をつけられなかった。
泣いていたのか、ただ息をしていただけなのかも曖昧だった。
私は、ずっと壁際にいた。
扉が開く音がした。
誰かが入ってくるが、顔は上げなかった。
「……酷い顔をしている」
絞り出すような声だった。
その声に、かすかに意識が揺れた。
「クロードとジルか」
身体がビクッと反応する。
ゆっくりと顔を上げると、ロラン侯爵が立っていた。
急いで来たのだろう。外套には土埃がつき、白髪混じりの髪もわずかに乱れている。
侯爵は私を見下ろし、深く息を吐いた。
「優しいあの二人を、思い出したんだな」
「……叔父様」
声が出た。
掠れて、まるで自分の声ではないかのように感じた。
侯爵は近づいてこなかった。
少し離れた場所に椅子を置き、そこへ静かに腰を下ろす。
「話せるか」
私は、すぐには答えられなかった。
喉が震える。
言葉が、奥で絡まる。
侯爵は待っていた。
急かさず、慰めず。
ただ、そこにいてくれる。
「……私が」
何分も経ってから、ようやく声が漏れた。
「私が、ジルに……選ばせました」
侯爵は何も言わない。
「私を切ることを。私を追い出すことを。クロードを守るために、泣きながら……選ばせました」
息が苦しくなる。
「私は、それを受け取ったんです。ジルの決断を。心をちぎって選んだ答えを」
指先が震える。
「それで、二人を守れると思っていました」
でも、違った。
その言葉が、また頭の奥で暴れる。
「私がいなくなれば、二人はまた静かに暮らせると思っていたんです。クロードとジル。二人だけなら、幸せに戻れるって」
侯爵は、静かに聞いていた。
「でも……」
声が詰まる。
「選んだのは、私じゃなかった」
涙が滲む。
「私が、ジルに選ばせたんです。私を捨てることを。私を切ることを。クロードを守るために、私を失うことを」
胸に手をあてる。じくじくと痛む。
「ジルは、泣いていました。声を上げて、子供みたいに。あの人は、私を憎んで追い出したんじゃない。クロードを守るために、私を切ったんです」
震えが止まらない。
「私は、それを知っていました。分かっていたはずなのに……」
「セレスティア」
侯爵が隣にしゃがみ、ゆっくりと背中に手を置く。
「息をしろ」
言われて初めて、呼吸ができていないことに気づいた。
息を吸う。
浅い。
うまく入らない。
「ワシを見ろ」
私は、侯爵を見る。
「今は、ここだ」
その言葉に、少しだけ現実が戻る。
地下の部屋。
石壁。
ランプの明かり。
侯爵の顔。
私は、まだここにいる。
「……はい」
掠れた声で答える。
侯爵は頷いた。
「続けろ」
私は膝の上で手を握る。
「最後の日だけじゃ……なかったんです。ジルは、もっと前から苦しんでいました」
喉が震えた。
「クロードが、私の漏れ出るマナを吸い出していました。探知機に引っかからないように。私を隠すために。ずっと……自分が消えかけても」
唇を噛む。
「ジルは止めようとしました」
あの薄暗い部屋。
透けていくクロード。
隣で膝を抱える私。
ジルの震える声。
「私に、出ていけと言ったのではありません。私を責めたのでもありません」
声が、少しずつ崩れていく。
「感情とエーテルを切り離すこと。力を制御すること。そうしないと、クロードが消えてしまうから。だから、教えようとしてくれたんです」
ジルは、いつもそうだった。
分からないことを教えてくれた。
できないことを、できるようにしようとしてくれた。
少しぶっきらぼうで、でも、いつも力になろうとしてくれた。
「なのに」
喉が詰まる。
「クロードは、怒鳴りました」
侯爵は黙っている。
「クロードが怒ったのは、あとにも先にも、その一度だけです」
あの声が蘇る。
『良いんだッ!!』
優しいクロード。
誰かを責めることなんてなかったクロード。
そのクロードが。
「ジルに、怒鳴ったんです」
涙が落ちた。
「私を、庇うために」
ぐしゃぐしゃに歪んだジルの顔。
泣きそうで。
悔しそうで。
それでも、言葉を飲み込んだ顔。
「ジルは、善意で言っただけなのに。現状を良くしようとしただけなのに。クロードを守ろうとしただけなのに」
声が震える。
「それを、大切な人に怒鳴られて」
首を振る。
「私なら……耐えられません」
膝の上で拳を握る。
「私は絶対に耐えられない! 善意で言ったことを、大切な人にあんなふうにはねつけられて! それでも飲み込むなんて。私を責めないなんて。出ていけと叫ばないなんて!」
言葉が止まらない。
「元凶じゃないですかッ! なんで! なんで、そんなことができるんですか……」
視界が滲む。
「なんでジルは、あんなに強かったんですか」
ぽたり、と。固く握りしめた手の甲に、冷たい滴が落ちて弾けた。
侯爵は何も言わず、ただ私が次を絞り出すのを待ってくれている。
「それだけじゃ、ありません」
声が、自分でも分かるほど震えていた。
「あの日。最後の日に、マナ探知機の警報が鳴り続けていました」
ピーッ、ピーッ、ピーッ。
耳の奥で、また音が鳴る。
「私のせいです。私の漏れ出したエーテルのせいで。私が抑えられなかったから、ずっと鳴っていました」
息を整えようとする。
でも、うまくいかない。
「ジルは、耐えていました。肩を震わせて。それでも、何度も耐えて」
あの姿が浮かぶ。
耳を塞ぎ。
膝に顔を埋め。
それでも、私を責めなかったジル。
「私は、警報が鳴らないように、制御しようとしました。でも、できませんでした」
喉が痛い。
「だから、探知機を止ました」
侯爵は、何も言わなかった。
「ジルのためだと思っていました。あの音を、これ以上聞かせたくなかっただけだと思っていました」
でも。
「本当に、そうだったのでしょうか」
言葉が、胸を裂く。
「私は、もう自分では止められないと、認めてしまっただけではなかったのですか」
「エーテルを抑えることを。ジルが教えようとしてくれた、感情との切り離しを。最後の最後で、諦めたのではなかったのですか」
膝の上で、指が震えた。
「警報を止めた後、ジルはしばらく耳を塞いだまま動きませんでした」
あの静寂。
音が消えた後の、あまりにも重い沈黙。
「そして、顔を上げました」
今でも覚えている。
「泣き腫らした目でした。頬は青ざめて、こけていて。今にも壊れそうなのに」
それでも。
「決めてしまった顔でした。……決めさせたのは、私でした」
膝の上の布を、引きちぎるように強く握りしめた。
「私が諦めたから。私が、ジルに選ばせたんです」
侯爵は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「強い娘だったのだな」
その言葉に、奥歯を強く噛み締めた。
「優しいだけではない。己の痛みを飲み込んで、それでも相手を壊さぬことを選べる者は、強い」
「……強い」
「そうだ」
侯爵は静かに頷いた。
「その少女は、弱かったから泣いたのではない。優しかったから、痛かったのだろう。それでも最後まで、お前を責めなかった」
視界が、また歪みそうになる。
「その強い娘を、お前の罪だけに閉じ込めるな」
「……っ」
「彼女が優しかったことを。強かったことを。お前が覚えていろ」
侯爵はジルを知らない。
会ったこともない。
それでも。
ジルを、弱い人として扱わなかった。
壊された哀れな少女としてではなく。
強く、優しい人として見てくれた。
それだけで、また涙がこぼれた。
侯爵は、少しだけ間を置いてから言った。
「クロードという少年も、同じだ」
びくりと、肩が跳ねた。
「その少年は、なぜそこまでしてお前を庇った」
「……分かりません」
「本当にか」
私は言葉を失う。
「その少女を傷つけてまでだ。恋か。情か。憐れみか」
侯爵の声は静かだった。
「それだけではあるまい。その少年は、お前に託したのだろう」
侯爵は私の腰の剣を見た。
「自分の剣を。自分が生きた証を」
胸の奥が、強く痛んだ。
クロードは、誰かの記憶に残りたい人だった。
自分がいつ消えるかも分からないから。
いなくなった人ではなく、最初からいなかった人になってしまうから。
私も、一度忘れていた。
クロードとジルに助けられたはずなのに。
船に乗せてくれたのは二人だったはずなのに。
記憶の中には、ジルしかいなかった。
クロードの姿だけが、抜け落ちていた。
あの人は。
記憶から、本当に消えてしまう人だった。
だから、誰かの中に自分を残したかった。
そして。
私に、剣を教えてくれた。
「……私に、そんな資格はありません」
声が震える。
「私は、ジルを傷つけてまでクロードに選ばれたのに。クロードの言葉に救われて。居場所をもらって。それなのに……最後には、嘘をついて、置いていきました」
侯爵は首を横に振らなかった。
否定しなかった。
ただ言った。
「資格があるから託されたのではない」
私は顔を上げる。
「託されたから、背負うのだ」
その言葉が、重く響いた。
逃げられない重さだった。
「最後。クロードにも、嘘をつきました」
私はぽつりと言った。
「私には逃げ込める場所があるって。一人でも平気だって。……そう言わなければ、あの人はついてきてしまうと思ったから」
言葉にすると、また胸が裂けるようだった。
「でも……三人で行こうって、言えばよかった」
侯爵は黙っている。
「私が、本気で二人を連れて逃げていたら……帝国は、撃てなかったかもしれない。私を殺すわけにはいかなかった。王国だって、私を欲しがっていた。殺すより、手に入れたかったはずです」
息が荒くなる。言葉が、せきを切ったように溢れ出した。
「帝国軍。王国暗部。そして私たち三人。混戦になっても、私が本気を出せば……その場だけなら、切り抜けられたかもしれない。二人も、一緒に来られたかもしれない。なのに……!」
こみ上げるものに耐えることができず、両手で顔を覆う。
「私は、一人で背負ったつもりになって……二人を置いていったんです。私が、全部間違えました……!」
「……そうか」
侯爵は、否定しなかった。
それが、少しだけ救いだった。
「そうかもしれんな。歩かなかった道ほど、まっすぐに見えるものだ。後からなら、いくらでも正しい道が見える」
「でも……!」
「分かっている。その言葉が慰めにならんことくらい、分かっている」
私は顔を上げる。
侯爵は、まっすぐにこちらを見ていた。
「お前がそう思うのなら、その罪は消えん」
「消えない、ですよね」
「お前が消す気にならん限りはな」
侯爵は目を逸らさなかった。
「だが、セレスティア。罪にするものを間違えるな」
「……間違える?」
「あの少年が、お前に剣を教えたことまで罪にするのか」
息が、止まる。
「あの少女が、お前に温かい食事を作ったことまで罪にするのか」
「……っ」
「二人がお前を守ろうとしたことも。お前と笑ったことも。お前に居場所を与えたことも」
侯爵の声は、穏やかだった。
「それまで全部、偽物にするのか」
私は、何も言えなかった。
クロードの声が蘇る。
『強い、速い。カッコいい!』
ジルの声が蘇る。
『私はさ、一つのことに向かって一生懸命頑張る子は、好きだよ』
そう言って、ブーツをくれた。
私が前へ進めるように。
あれは、嘘ではなかった。
私がそう思いたいだけではなく。
本当に、あの人たちは笑ってくれていた。
「でも……私は」
「奪ったのかもしれん」
侯爵は言った。
「壊したのかもしれん。お前がいなければ、別の未来があったのかもしれん」
厳しい言葉だった。
けれど、不思議と冷たくはなかった。
「だが、お前が受け取ったものまで、罪の泥で塗り潰すな」
侯爵は静かに身を乗り出す。
「その剣術は、何だ」
私は、視線を落とす。
クロードの、剣術……。
「――墓標です」
声が震えた。
「風理の剣は……墓標です」
侯爵は、黙って聞いている。
「あの人たちが、生きた証です」
言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなった。
「クロードは……誰かの記憶に残りたい人でした。自分がいつ消えるかも分からないから。誰かの中に、自分を残したかった」
事実を口にするたび、声がひどく掠れていく。
「でも、私が来てから、クロードは私の隣にいることしかできなかった。街へ行くことも、誰かを助けることも、少なくなって……」
身体が震える。
「あの人を知る人は、もう誰もいません。だから、せめて……」
私は剣に触れる。
「この剣術だけは、遺さないといけないんです」
風理の剣。
私が名付けた。
でも、私だけのものではない。
「これは、あの人たちの墓標です」
侯爵は、深く息を吐いた。
「ならば、守れ。墓標を立てた者が、最初に膝を折ってどうする」
私は弾かれたように顔を上げる。
「償いきれぬと思うなら、償い続けろ。背負いきれぬと思うなら、背負ったまま歩け」
重い。
その言葉に、容赦はなかった。
けれど、一人で立ち尽くしていた私に寄り添ってくれた言葉だ。
滲む視界の向こうで、侯爵は静かに私を見守っていた。
「だが、忘れるな。お前が倒れた時、拾い上げる者が一人もいないなどと思うな」
少し、声の温度が柔らかくなった。
「血の繋がりなどない。叔父というのも、最初はただの体裁だった」
侯爵は、ほんの少しだけ苦い顔をした。
「だが、今さら体裁だけだなどとは思っておらん。……ワシは、お前の叔父だ」
その言葉が、冷え切っていた芯にじわりと染み込んだ。
「叔父様……」
何度も口にしてきた呼び名だった。
けれど、その時初めて、その言葉が胸の奥まで届いた気がした。
「お前がどれほど遠くへ行こうと、どれほど血に塗れようと。ワシは、最後までお前の味方でいる」
その言葉は、冷たい石床の底から私を確実に引き上げてくれた。
与えられた言葉の重さと温かさを逃さないように、ただ深く、目を閉じた。
叔父様は立ち上がり、ゆっくりと近づいてきた。
その手が、私の頭に置かれる。大きくて、温かい手だった。
「……叔父様」
「なんだ」
「私は、許されないと思います」
「そうか」
「死んでも、償いきれません」
「だろうな」
叔父様は否定しない。
でも。
「それでも、生きて償え」
静かに言った。
「死んで楽になるな」
突きつけられたその重い言葉に、声を出せずに息を呑む。
私は、震えながら頷いた。
「……はい」
剣に触れる。
冷たい柄。そこに、自分の指を重ねる。
墓標なら。
守らなければならない。
あの人たちが、確かに生きていた証を。
誰にも、踏ませてはならない。
♢♢♢♢♢♢♢♢
その日の夕刻。
叔父様に支えられながら、私は久しぶりに地下室を出た。
足元はまだ覚束ない。
何度か膝が折れかけた。
それでも、歩いた。
地上の空気は冷たかった。
赤い夕日が、カストレイルの石畳を照らしている。
兵士たちの視線が集まる。
心配。
好奇。
失望。
計算。
いくつもの視線が肌に刺さった。
その中で、誰かが小さく笑った。
「風理の剣も、結局は皇女殿下の見せ物だったか」
足が止まった。
声は小さい。
けれど、確かに聞こえた。
「倒れたなら、次は別の旗印を立てればよい」
身体の底が、冷たく燃えた。
声の方を睨みつける。
それと同時に、叔父様が前へ出た。
「口を慎め」
低い声だった。
周囲の空気が、瞬時に変わる。
発言した兵士か、随員か。
誰かは分からない。
だが、その場にいた全員が動きを止めた。
叔父様は、静かに周囲を見渡した。
「風理の剣を、見せ物と呼ぶな」
声は荒くない。
だが、重かった。
「風理の剣には、師がいる」
ざわめきが走った。
私は、息を止める。
師。
その一語だけで、胸の奥が震えた。
「その師ごと侮辱する覚悟があるなら、前へ出ろ。文句がある者は、いつでもセレスティアと死合うことを許す」
誰も動かなかった。
「その代わり、影でこそこそ人の剣を侮辱する者は、ワシが許さん」
風理の剣は、墓標だ。
あの人たちが、確かに生きていた証だ。
だから――。
冷たい柄を、指が白くなるほど強く握りしめる。
踏みにじることだけは、誰であろうと絶対に許さない。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第40話、第41話は、この物語の中でもかなり大きな意味を持つ回でした。
何度も練り直しながら、セレスティアが背負っているものと、風理の剣という名に込めたものを、ようやく真正面から書けた気がします。
重い話が続きましたが、ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
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