第40話 返して
本話は、セレスティアの内側に深く触れる回です。
第30話「残り火が消える日」の出来事を受けた内容になります。
少し重い回になります。
カストレイルへ入城した頃には、空は赤く染まり始めていた。
もとは王国領。
帝国に占領され、奪還した街だ。
城壁には、砲撃の跡が残っている。
崩れた石壁。焼け焦げた見張り台。砕けた門扉。
だが、街そのものは思っていたよりも静かだった。
道端でこちらを見る住民たちの目は、怒りよりも困惑に近かった。
王国軍の帰還を喜ぶ者もいる。だが、それは歓喜というより、長く息を詰めていた者がようやく吐き出すような、弱々しい安堵だった。
(……思っていたより、荒れていない)
略奪の痕は少ない。
井戸は使える状態で残されている。
焼かれていない家も多い。
帝国は、この街を壊すつもりではなかった。
奪うためではなく、統治するために残していた。
その事実だけが、静かに胸の奥へ沈んでいく。
「帝国の犬どもめ」
背後で、王国兵の一人が吐き捨てた。
「魔族と組む連中に占領されて、よく無事でいられたもんだ」
「停戦を破って攻め込んできたんだ。やはり、まともな連中じゃない」
住民の一人が、その言葉に肩を震わせる。
けれど、何も言わない。
今日この街へ入った王国兵と、占領下で過ごした住民とでは、見えているものが違うのだ。
何が正しいのか、まだ分からない。
帝国が侵略したことは事実だ。
この街を奪ったことも、王国の民を戦火に巻き込んだことも。
それでも。
目の前の街は、聞かされていた地獄とは、少し違っていた。
「……風理の剣」
小さな声が、耳に届いた。
振り向くと、物陰から子どもがこちらを見ていた。
母親らしき女が、慌ててその肩を抱く。
「こら、見るんじゃありません」
「でも……兵士さんが言ってた人でしょ?」
別の声が重なる。
「左翼を救ったって……」
「帝国兵を、一人で止めたって聞いた」
「風理の剣のセレスティア様……」
その名が、街の片隅で囁かれている。
風理の剣。
その響きだけが、胸の奥に小さく灯った。
この名は、私が決めた。
でも、まだ誰も知らない。
この剣が、この名が。
私だけのものではないということを。
(……届いている)
ほんの少しだけ。
本当に、少しだけ。
口元が緩んだ。
クロード。
あなたの剣が、人々に届いた。
あなたが、何も残せないまま消えたのだとしても。
私は、あなたを知っている。
あなたの剣を知っている。
それを、誰かが呼んでくれた。
ただそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
ユリウス第二王子殿下が、こちらを見ていた。
「……笑うのだな」
低い声だった。
私は、わずかに目を伏せる。
「不快でしたか」
「いや」
ユリウス殿下は短く答えた。
「初めて見た」
その視線は、いつものような、いずれ国を統べる立場から向けられるものではなかった。
ただ、一人の人間を見たというような、柔らかな目だった。
私は視線を外した。
そんなものを向けられる資格が、自分にあるとは思えなかった。
その後、私は街の中心部にある旧領主館へ案内された。
今夜はここで休むことになるという。戦場に近い都市とはいえ、帝国の皇女である私を雑に扱うことはできないのだろう。
用意されたのは、領主館の地下にある安全区画だった。
「砲撃にも強く、侵入経路も限られます。暗殺対策としても最適です」
案内役の騎士がそう説明した。
石造りの階段を下りる。
空気が少しずつ変わっていく。地上の声が遠ざかり、代わりに湿った石の匂いと、こもった熱が肌に触れた。
扉が開かれる。
部屋は広かった。床には厚い敷物が敷かれ、寝台も上等なものが用意されている。机には水差しと食器。壁際にはランプ。
汚くはない。むしろ、丁寧に整えられていた。
だが、窓はなかった。
壁は分厚い石で、天井は緩やかな半円のアーチを描いている。声を出せば、きっと少しだけ反響する。
閉じた空間。逃げ道の少ない場所。
なのに。
(……落ち着く)
不思議と、そう思った。
王宮の広間や、野営地の豪奢な天幕より。兵士たちの歓声が届く地上よりも、ここは、ずっと静かだった。
私は息を吐く。
ここなら、誰にも見られない。何の立場もない。ただ、目を閉じていられる。
その安堵が、胸の奥に触れた瞬間。
押し込めていたものが、少しだけ緩んだ。
しばらくして、食事が運ばれてきた。
白い陶器の器。湯気の立つポタージュ。
スプーンを手に取る。
その白い湯気が、揺れた。
――揺れた湯気の向こうに、ふと、あの日の光景が重なった。
指先が止まった。
――ジル。
奈落谷の底にある、残り火の家。廃棄ボイラーの丸い壁を照らすヒカリゴケの淡い光。鉄の匂いと、温かい湯気。
ジルが鍋をかき混ぜながら、振り返る。
『今日はちょっと塩多いかも』
『いや、うまい』
『クロード、味覚壊れてない?』
『リンは?』
『……おいしいです』
『ほら見ろ!』
『いや絶対リン、気を遣ってるでしょ!?』
くだらない会話だった。
でも。たまらなく温かかった。
クロードが笑っていた。
ジルが呆れていた。
私は、その隣に座っていた。
たったそれだけのことが、どうしてあんなにも幸せだったのだろう。
スプーンが震える。
違う。これはただの記憶だ。
何度も思い出しては、何度も押し込めてきた。
けれど今日は、違った。
部屋の形、こもった熱、閉じた空気。そして白い湯気。
それらが、忘れたふりをしていたものを、記憶の奥底から引きずり出してくる。
『週に一回くらいなら、添い寝してもいいんじゃない?』
ジルの声が、鮮明に蘇った。
少しぶっきらぼうで、お姉さんぶっていて。冗談みたいに笑って。
でも。
今なら、分かる。
あの笑顔は、少しだけ無理をしていた。
ジルだって、孤独だった。
父を亡くし、母とも長く連絡を取っていないと言っていた。
クロードの隣が一番似合う場所だった。
家族のように。
私より、ずっと前から。
それなのに、私は。
何も知らない顔で、迷子みたいにあの家へ入り込んだ。温めてもらい、食べさせてもらい、守られて。
そして。
クロードの隣に、座った。
ジルが街へ行っている間、クロードと二人で食事をした日もあった。
剣を教えてもらって、笑って、褒められて。嬉しくて。
私は、そこが自分の場所なのだと思った。
でも。
そこは、最初から私の場所ではなかったのではないか。
ジルの場所だった。ジルが守ってきた場所だったのだ。クロードの隣も、あの家の温もりも、あの食卓も。
私は、無邪気に。
当たり前みたいに。
奪っていた。
「……違う」
声が漏れた。
違う。そんなつもりじゃなかった。
私はただ、嬉しかっただけだ。あの場所が好きだっただけだ。三人で笑っていたかっただけだ。
でも。
ジルは、どうだったの。
そうだ。
最後の日に、突然始まったわけじゃない。
『リン。そろそろ、感情とエーテルの切り離しをやってもらわないと困るの。じゃないと、クロー――』
『ジル。良いんだ』
クロードの声。
『でも、それじゃ――』
『良いんだッ!!』
あの人が、怒った。
あとにも先にも、たった一度だけ。いつもまっすぐで、優しくて、誰かを責めることなんてなかったクロードが。
ジルに、怒った。
ジルの顔が、ぐしゃぐしゃに歪んだ。
泣きそうで、悔しそうで。それでも言葉を飲み込んだ顔。
――クロードが、消えちゃうじゃない。
きっと、そう言いたかったのに。
ジルは、私を責めなかった。
ただ、その時の状況を良くしようとしてくれただけだった。
感情とエーテルを切り離し、力を制御すること。クロードが消えてしまわないようにすること。
いつもそうだった。
分からないことを教え、できないことをできるようにしようとしてくれて。いつも力になろうとしてくれた。
そのジルが。
クロードに、怒鳴られた。
私を庇うために。
私は、その時。何を思った?
クロードが、私を庇ってくれた。私に、ここにいていいと言ってくれた。
そう思った。
救われたと思った。
でも。
違う。
私は、あの瞬間も。
ジルを踏みにじらせていた。
『ピーッ、ピーッ、ピーッ』
耳の奥で、マナ探知機の警報が鳴った。
最後の日、警報は止まらなかった。
不安定になった私のエーテルは、もう探知機の閾値の内側に収まらなくなっていた。
必死に押さえ込もうとするたびに、音は一瞬だけ弱まった。
けれど、すぐにまた鳴り始めた。
そのたびに、ジルの肩が跳ねた。
やがてジルは、両手で耳を塞いで、膝に顔を埋めてしまった。
見ていられなかった。
だから私は、マナ探知機に手を伸ばした。
耳を刺すような警報音が、ぷつりと途切れた。
ジルが苦しそうだったから。あの警報音を、これ以上聞かせたくなかったから。
そう思った。
でも。
本当にそうだったの?
私は、もう自分では止められないと、認めてしまっただけではなかったのか。
エーテルを抑えるために、ジルが教えようとしてくれた『切り離し』の技術を。最後の最後で、諦めたのではなかったのか。
警報が止まった後。ジルは、しばらく耳を塞いだまま動かなかった。
そして、顔を上げた。
あの時の顔を、今でも覚えている。
泣き腫らした目、青ざめた頬、こけた輪郭。
今にも壊れそうなのに。
それでも、何かを決めてしまった顔だった。
決めさせたのは、誰?
私だ。
私が止められなかったから。
私が諦めたから。
『……クロードと、静かに暮らさせて』
記憶の底から蘇ったその震える声に、ヒュッと喉の奥で息が引きつった。
『クロードが、消えちゃうよ……っ!』
悲鳴のような声。ジルの青ざめた頬と、震える唇。
分かっていた。
あの時の私は、分かっていた。
ジルは、私を憎んで追い出したのではない。クロードを守るために、私を切ったのだ。
だから私は、受け取った。
ジルの決断を。ジルが心を千切って選んだ、その答えを。
そうすれば、二人の幸せを守れると思った。
私が出ていけばいい。私さえ消えればいい。そうすれば、クロードとジルは、また静かに暮らせるのだと。
思っていた。
でも。
違った。
選んだのは、私じゃない。
私が、ジルに選ばせた。
私を切り、捨てることを。クロードを守るために、泣きながら私を失うことを。
ジルに、選ばせてしまった。
『リン……っ、うあぁぁ……っ!』
あの声。
あの泣き声。
いつからだったのだろう。ジルが笑顔の裏で我慢を重ね、クロードの隣で泣かないように苦しんでいたのは。
私は、何も知らなかった。
あの家に居座り、クロードの隣でジルの作ったスープを飲んで笑っていた。
そのうえ。
私は、判断を間違えた。
氷殻獣を倒すのが遅れた。彼らを救うためだと言い訳して、天の白閃を放った。
軍に見つかるのは、時間の問題になった。
結局、居場所が発見された。
そして。
二人だけが、死んだ。
ジルは苦悩と苦痛を抱えたまま、泣きながら私を切り捨て、見送ったのだ。
大切な二人の一生が、その瞬間に閉じた……。
私の判断が、全部悪かった。
どうせ去るなら。どうせ二人の前から消えるなら。
あの戦闘の直後、氷殻獣を倒したその足で私が一人で消えてさえいれば。
二人は、生きていた。
クロードとジル。二人だけなら、生きていた。
私は、居場所のない子羊だった。
帰る場所がなく、誰にも見つけてほしくなくて。誰かに、ここにいていいと言ってほしくて。
その優しさに、すがった。
あの二人が、私を放っておけない人たちだと知りながら。
クロードのまっすぐさに。ジルの、少しぶっきらぼうな優しさに。
私は、甘えた。
人生で初めて掴んだ幸せだと思っていた。
でも違う。
あれは、二人が差し出してくれた善意だった。人助けをしたいという、ただそれだけの温かさだった。
私は、それを。
自分の居場所だと、思い込んだ。
違う。
違うのに。
私は、あの場所が欲しかった。
クロードの隣が欲しかった。
ジルが作ってくれる温かい食事が欲しかった。
欲しくて。欲しくて。
手放せなかった。
「……わたしが」
喉の奥から、声が漏れる。
「わたしが、こわし――!」
言い切る前に、息が詰まった。
喉の奥が焼ける。胸の内側から、何かがせり上がってくる。
そんなつもりじゃなかった。
私は、あなたから奪いたかったわけじゃない。
クロードを、あの家を、あなたの幸せを。
でも。
奪った。
スプーンが手から落ちた。
甲高い音が、石の床に跳ねる。音はアーチの天井に反響し、いつまでも耳に残った。
「あ……」
喉が震える。
「ジル……」
声が掠れる。
ジルの顔が浮かぶ。ぐしゃぐしゃに歪んだ顔。泣きそうなのに、怒りも、悲しみも、全部飲み込んだ顔。
どうして。
どうして、あんな顔をしてまで。
私なら、耐えられない。大切な人に怒鳴られ、善意をはねつけられて。それでも言葉を飲み込むなんて。
できるはずがない。
なのに、ジルは飲み込んだ。
私を責めず、追い出せとも叫ばなかった。クロードを守りたくて、私も壊さないようにして。
ずっと。
ずっと、ひとりで。
「ジル……っ」
「ジル、ごめんなさい……!」
「わたし、っ……わたしが……!」
吐いた。
胃液が石床に散る。
喉が焼ける。涙がこぼれる。
それでも、止まらない。
「ジル……っ」
床に手をつく。身体が震える。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
違う。違わない。
私は犠牲になったつもりだった。二人を守るために離れたつもりだった。
でも、本当に犠牲にしたのは。
ジルだった。
ジルの時間、場所、願い。クロードと静かに暮らしたいという、たった一つの祈り。
全部。
私が、壊した。
そう思った瞬間、また喉が引きつった。
呼吸が浅くなる。
気づけば、両手で頭を抱えていた。
「あぁ……ああああああっ……!」
扉の外で、見張りが慌てる気配がした。
「セレスティア様!?」
「誰か、医師を——!」
声がする。でも、届かない。
私はもう、ここにはいなかった。
残り火の家にいた。
あの丸い壁の中で、ジルが泣いていて、クロードが手を伸ばしていて。
私は、背を向けている。
何度でも。何度でも。
同じ場所へ戻ってくる。
「帰りたい……」
声が漏れた。
「帰りたい……!」
帰れるはずがない。
あの場所は、もうない。
あの時間は、もうない。
あの二人は、もういない。
分かっているのに。
「帰して……」
涙が止まらない。
「帰してよぉ……!」
返して。
あの食卓を、あの湯気を、あの笑い声を。ジルの無理をした笑顔を。
「返して……!」
叫びが漏れる。
「返してよぉぉぉぉっ!!」
扉が開く音がした。
誰かが部屋へ駆け込んでくる。
けれど、私は頭を抱えたまま、ただ床に向けて叫び続けた。
「あの人たちの幸せを……!」
喉が裂ける。
「全部、返してよッッッ!!!!」
叫びは、地下の石壁にぶつかって返ってくる。
何度も。何度も。
返して。返して。返して。
私は震えながら、床に爪を立てる。
「ジル……ごめんなさい……!」
「私……知らなかった……」
「違うの……違うの……!」
「そんなつもりじゃ……!」
言葉はもう、形になっていなかった。
ただ、ジルの名だけがこぼれる。
「ジル……っ」
「ジル……ごめんなさい……」
「ジル……」
そこから先は、声だけだった。
♢♢♢♢♢♢♢♢
ユリウスが地下室へ駆け込んだ時、セレスティアは床に崩れていた。
白いポタージュの器が倒れている。石床には胃液が散り、落ちたスプーンが鈍く光っていた。
彼女は頭を抱え、肩を震わせている。
「ジル……」
「ごめんなさい……」
「返して……」
その声は、もう言葉というより、壊れた呼吸に近かった。
ユリウスは、息を呑んだ。
彼の目に映っているのは、戦場を切り裂いた剣士ではない。
帝国第二皇女でも、王国の旗印でもない。
床に崩れ、胃液と涙にまみれ、たった一人の少女の名を呼び続ける、壊れた少女だった。
彼は、理解した。
いや、理解したと思った。
帝国は、この少女を人として扱わなかった。
兵器、あるいは魔力供給装置。ただ取り戻すべき戦力として。
そのために、庶民の少女がいた小さな幸福すら砲撃で焼き払った。
クロードという、記録に存在しない少年。
ジルという、消息の消えた少女。
セレスティアが今、半狂乱で呼び続けている名。
それが、彼女の失った世界だったのだと。彼女をここまで壊した帝国の罪の深さなのだと。
ユリウスは、ゆっくり近づいた。
「セレスティア殿」
声をかける。反応はない。
「セレスティア」
それでも、届かない。
「あぁぁ……ああああああっ……!」
彼女は頭を抱えたまま、壊れたように叫び続けている。
放っておけば、自分で自分を壊してしまう。
そう判断した。
ユリウスは膝をつき、震える身体を抱き寄せた。
セレスティアの身体は、ひどく冷たかった。
戦場で見た恐るべき力は、どこにもない。
細い肩に、震える背中。浅い呼吸。
ただの、泣いている少女だった。
「大丈夫だ」
彼は低く言った。
「もう、ここには帝国はいない」
セレスティアは聞いていない。
「ジル……」
「ごめんなさい……」
「返して……」
それだけを繰り返す。
ユリウスは、強く抱きしめることしかできなかった。
その腕の中で、セレスティアはずっと震えていた。
目は開いている。だが、どこも見ていない。
彼女はまだ、残り火の家にいる。
5年前の、燃え尽きた幸福の中に。
ユリウスは、静かに目を伏せた。
帝国を。
この少女から全てを奪った国を。
心の底から、憎いと思った。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第30話の出来事が、セレスティアの中でようやく形を変えて噴き出す回でした。
かなり重い回になりましたが、次話へ続きます。
次回更新は 7/24(金)予定です。




