第37話 風理の剣
王都外縁、訓練円形場。
石で組まれた半円状の観覧席は、すでに人で埋め尽くされていた。
貴族、騎士、文官、そして民衆。
中央には直径30メートルほどの円形の舞台があり、わずかに高いため、どこからでも、よく見える。
――御前出陣の儀、前段。
「試し」の儀。
私は中央に立ち、腰の剣を抜いた。
(……風)
浅く息を吸う。
ざわめき、熱気、無数の気配。
その中で、肌を撫でる空気の流れを探る。
(まだ、遠い)
あの領域には、届かない。
観客席のざわめきが耳に入る。
「あれが皇女か」
「エーテルを使わぬと聞くが」
「ただの剣など――」
値踏みするような声。疑う声。
――気にしない。
今日は、大事な日だ。
そのとき、重い足音が響いた。
一人の男が前に出てくる。
大柄な体格。分厚い鎧。無駄のない立ち姿。
近づいてくるだけで、場の空気が少しずつ張っていくのがわかった。
誰かが小さく呟く。
「バルドだ」
「近衛でも五指に入る男を出すのか」
バルドは無言のまま舞台の中央へ歩み出て、私の前でぴたりと止まった。
「王国近衛騎士団、第三機動隊隊長。バルド」
低く、よく通る声だった。
「……本来ならば、皇女殿下には敬意を払わねばならん。だが、貴殿は帝国の皇女でもある。王国の騎士として、ここで敬語は使えん。承知いただきたい」
飾りも、脅しもない。
ただ、自分の立場を示しているだけだった。
「構いません」
私は小さく頷いた。
「お願いします」
バルドが剣を抜く。
鋭い金属音と同時に、内燃錬成が起動した。
空気が変わる。
熱と圧が一気に膨れ上がり、存在が一回り大きくなる。
理屈じゃない。
強い、と身体が先に理解していた。
(……速い)
そう思った次の瞬間には、もう踏み込まれていた。
一直線。
迷いのない突進。
その一撃に、反射的に剣を合わせるしかなかった。
――ギィンッ!!
刃を逸らしただけで、腕に重たい衝撃が走る。
(違う……!)
まともに受ければ、剣ごと持っていかれる。
そうわかっているのに、身体が反応しきれない。
思考より先に押し込まれ、間合いを詰められる。
速く、重く、正確な連撃が止まらない。
剣を合わせる。
逸らす。
(ぶつかっちゃ、だめ、なのに……)
また、合わせてしまう。
今度は逃がしきれない。衝撃が腕に残り、指先が痺れる。
それでも、一度だけ、風の流れが見えた。
踏み込みの外へ身体を滑らせ、バルドの剣先をすり抜ける。
すれ違いざま、脇腹へ刃を走らせた。
だが、浅い。
バルドは半歩だけ身を引き、鎧の表面で受け流していた。
「……今のは悪くない」
短く、それだけを言う。
次の瞬間には、もう剣が返ってきていた。
(重い)
クロードの剣は、こんなものじゃなかった。
もっと軽くて、もっと自然で、何もないように見えて――なのに、完成されていた。
空だった。そこにいるのに、どこにもいないみたいに。
なのに今の私は、はっきりとここにいる。
だから見られる。
読まれる。
捕まる。
重い斬撃が掠め、袖が裂けた。
一歩引いて距離を取り、乱れた呼吸を整える。
「……やはりな」
「エーテルを使わぬ剣など――」
冷たい声が降ってくる。
(違う)
剣を握る手が、わずかに震える。
(こんなものじゃない)
思い出す。
何もないようでいて、全部がそこにあった。
あの美しすぎる剣を。
(証明するって、決めた)
私は、まだ自分が『ある』。
だから重い。
だから見える。
だから――届かない。
バルドが再び構えた。
次で終わらせる。
そういう必殺の気迫だった。
(ここで、終わるの?)
違う。
全部――捨てる。
力も、構えも、『私』という存在も。
すべてを空にする。
バルドが踏み込んでくる。圧倒的な速度。
だが――風の道が、見えた。
瞬間、身体から一切の力を抜いた。
「私」という存在の重さを、限りなくゼロに近づける。
そこにいるのに、いない。バルドの剛剣が、空を斬る。
私は横に避けたわけでも、後ろに退いたわけでもない。
ただ、風のように通り過ぎていた。
「――なっ」
すれ違いざま。
バルドの喉元に、ぴたりと剣を添える。
確実に命を刈り取る位置。
バルドは動かない。
いや、動けなかった。
「……今のは、入っている」
低く呟くバルドの声に、会場のざわめきがピタリと止まった。
静かに息を整える。
(……足りない。まだ、全然)
だが、ほんの一瞬だけ、あの領域に届いた。
バルドがゆっくりと振り返る。
その目は、完全に戦士のものに変わっていた。
「……もう一度だ。全員、出ろ」
本気の号令。
周囲の空気が一変し、十人の騎士たちが次々と前へ出る。
全員が内燃錬成を起動した、完全な実戦編成の包囲網。
バルドは、剣を構えたまま私を見る。
「その剣が、戦場で通じるものか。―― 見せてもらおう!」
静かに構え直す。
(……来る)
十人が一斉に踏み込んでくる。
逃げ場のない包囲攻撃。
(受けるな)
(流せ)
(空になれ)
最初の一撃が触れる瞬間――完全な脱力。
【渦風】
独楽のように回り、相手の突進力をそのまま流して体勢を崩す。
次。
間髪入れずに放つのは、【静流剣】。
踏み込みの“先”へ、存在そのものを抜けさせる。
騎士が斬ったのは、ただの空。
すれ違いざまに、その急所へ剣を這わせる。
もう一人。
また一人。
だが――完全ではない。
(……遅い)
相手からはまだ見えている。
読まれている。
一瞬の力みを拾われ、攻撃を受けてしまう。
重さに押される。
数が多い。
息が乱れ、対応しきれずに足が止まりかける。
(クロードは――こんなものじゃなかった)
もっと自然に。
何でもないことのように。
私は圧倒的に未完成だ。
(それでも――!!)
もう一度、踏み込む。
全部、捨てる。
思考も、恐怖も、限界も。
ただの、空へ。
その瞬間。
十人の騎士が、私を見失った。
一陣の風。
ほんのわずかに、舞台を撫でただけの無音の風。
――奇跡のように、歯車が噛み合った。
包囲の一角を、抜ける。
一人目の首筋。
二人目の胸元。
三人目の脇腹。
急所の寸前で、剣を止める。
深くは斬らない。
ただ、そこに届いたという事実だけを残す。
だが、四人目へ向かう前に、呼吸が乱れた。
背後から迫る剣圧に、足が止まりかける。
刃が袖を裂き、頬を浅く掠めた。
完全ではない。
今の一瞬でも、全員には届かない。
それでも――包囲は崩れていた。
騎士たちをすり抜け、その外側に立つ。
刃を滑らせた姿勢のまま、静かに息を吐いた。
決して、目にも止まらぬ神速ではない。
内燃錬成の爆発的な速度に比べれば、それはあくまで生身の歩みでしかない。
だが、確かに通った。
力と力の隙間を。
意識の死角を。
ただ、風が抜けるように。
「……今ので、包囲を抜けました」
完全な静寂が、円形場を支配する。
バルドがゆっくりと剣を下ろした。
「……包囲は破られた」
そして、その場に膝をつく。
「……認めます」
低く、確かな声が響いた。
「――皇女殿下の剣を」
爆発的なざわめきと歓声が、遅れて会場を揺らした。
だが、私は歓声に目を向けることなく、静かに剣を収めた。
(……まだ、遠い)
クロードの剣には、まだ届かない。それでも今の一瞬だけは、ほんの少し近づけた気がした。
胸の奥に、小さな熱が灯る。
これだ。
これが、クロードの剣。
これが、私が受け取ったもの。
誰にも、ままごとなどと言わせない。
誰にも、存在しないものだなどと言わせない。
クロードが学んだのは、水理の剣だった。
けれど、彼にはエーテルがなかった。
本来の水理には届かない。
だから彼は、自分の身体で、自分の在り方で、別の形にした。
水の理を真似て。
風のように流れ、抜け、消える剣へ。
『水理の剣もどきだよ』
クロードはそう笑っていた。
でも、違う。
これは、もどきなんかじゃない。
クロードの剣に、私が名を付ける――。
顔を上げる。
歓声が、まだ渦を巻いている。
その中で、剣を握り直した。
「――風理の剣」
声は、自分でも驚くほどよく通った。
「『風理の剣』のセレスティア!」
一瞬、円形場が水を打ったように静まり返った。
次いで、爆発的などよめきが広がり、やがて熱へ変わっていく。
誰かが、その名を繰り返した。
風理の剣。
誰も知らなかったその名が、歓声の中で少しずつ確かな形を持っていく。
胸の奥が、熱くなった。
(……届いた)
5年。
誰にも信じてもらえなくても。
存在しないものだと笑われても。
それでも、たった一人で握り続けた。
クロードの剣に、私がつけた名前。
その名が、今、確かに人々に刻まれた。
ふっと、身体から力が抜けた。
剣先が石畳に触れる。
かすかな金属音が鳴った。
視界が、滲む。
(……クロード)
泣くつもりなんてなかった。でも、止まらなかった。
歓声が遠くなる。称賛の中にいるはずなのに、私だけが一人ぼっちだった。
この剣の本当の美しさは。
私しか、知らない。
震える手で、腰の風鈴に触れる。
チリン――
ざわめきの中でもはっきりと聞こえる、透明な音。
まるで、よくやったと笑ってくれたような気がした。
(ねえ……クロード)
涙を拭うこともできないまま、私は心の中で呟いた。
届いたよ。
あなたの剣が、世界に。
第37話『風理の剣』でした。
それは救いというより、彼女が5年間、手放せなかったものの形でもあります。
次話は7/14(火)更新予定です。




