第35話 逆鱗と風鈴
重い扉が静かに開いた。
扉の先は、広大な広間だった。
天井は高く、光は柔らかく落ちている。装飾は多いが、控室のような過剰さはなかった。
柱も紋章も、視線の流れさえも、すべてが玉座へ集まるように整えられている。
左右には、国を動かす顔ぶれ――幾人もの諸侯が静かに居並んでいる。
歩みを進めながら、視線で一瞬だけ広間を見る。
――ロラン侯爵の姿は、どこにもなかった。
別の役目を与えられたのだろうか。
正面を向く。
一段高い場所にある玉座に、王が座している。
アルカディア王国国王、アルフォンス・グラン・アルカディア。
視線が合う。
押し潰すような圧はない。だが、偽りを許さぬ目だった。
定められた位置まで歩み、片膝をつく。
やがて、低くよく通る声が響いた。
「――面を上げよ」
顔を上げる。
アルフォンス王はこちらを見ているが、その感情は読めない。
「汝、この場に立つ意味を理解しているか」
責めるでもなく、導くでもない。こちらの覚悟を確かめるような問いだった。
息を整える。
「……はい」
王は、わずかに目を細めた。
「ならば――ここで退くことも許す」
諸侯の間に、ざわめきが走った。
退く。
選べるのだと、王は言っている。
「……いいえ」
迷いはない。
「帝国は――止めます」
王はしばらく私を見つめ、「よい。その覚悟、偽りではあるまい」と静かに言った。
そして、広間を見渡す。
「皆に示そう。これなるは、ロラン侯爵家の縁者として保護されてきた、リリア」
視線が、私へと集まる。
リリアの名自体は、領内での魔物退治などで、すでに多少知られている。
王は続けた。
「その真の名は――帝国第二皇女」
広間から音が消えた。
「セレスティア・カテリナ・フォン・ガレリアである」
次の瞬間、声が爆ぜた。
「第二皇女……?」
「では、リリア殿が?」
「5歳を境に姿を消した、あの皇女か」
「病没したものとばかり……」
「いや、帝国から正式な発表はなかったはずだ」
「なぜ、その方が王国に――」
驚きと疑念が一斉に噴き出す。
「静粛に」
王の一声で、広がりかけた声がピタリと止まった。
「皇女は5年前より、王国の庇護下にある」
「5年前……」
「停戦が結ばれた頃からか」
再び、私へ視線が集まった。
帝国人を見る目。王家が隠していた秘密を見る目。血筋の価値を測る目。
「加えて、皇女殿下のエーテル量について、軍より報告いたします」
諸侯の列から、高位武官が一歩前に出た。
見覚えはないが、私について調べていた者の一人なのだろう。
「皇女殿下の保有するエーテルは、帝国皇族の中でも桁外れです。正確な上限は、現在も確認できておりません」
ざわめきが戻る。
「上限が分からぬと?」
「皇族の中でも……」
「では、リリア殿の討伐記録も――」
「報告されている戦果は、力の一端に過ぎないと見ております」
高位武官が答える。
「S級魔獣の複数討伐も可能との推算です」
広間の空気が変わった。
「それほどとは……」
「公国も動くのであれば、勝機は十分にある」
「帝国皇女がこちらに立つ。その意味も大きい」
「戦後の統治も容易になりましょうな」
彼らの中で、期待が勝手に膨らんでいく。
その中で、一つだけ、沈黙を保つ視線があった。
第二王子、ユリウス殿下だ。彼は何も言わず、ただこちらを見ている。
「これほどの力があるなら、あとは押し潰すだけですな」
諸侯の一人が言った。
「公国と兵を合わせれば、帝国など恐れるに足らぬ」
「ここで決めるべきだ」
「勝てる戦ですな」
声には笑いすら混じっている。
(……違う)
最後の日の、白い光が目に浮かんだ。
音もなく、すべてを消し去ったもの。
クロードも、ジルも。あの温かい隠れ家も。
呼吸が少し荒くなる。
(あれは、止まらない)
言葉には出さない。
王は動かない。ユリウス殿下が、わずかに目を細める。
だが、浮足立った諸侯たちは気づかない。
「とはいえ、リリア殿といえば、内燃錬成を使わず、妙な剣技に拘っているとの噂も耳にしておりますが」
別の貴族が首を傾げた。
「戦場でまで続けるつもりなのでしょうか」
「本来の力を使えば、比較にもならぬでしょうに」
先ほど戦力を報告した高位武官が、口を開いた。
その声には、わずかな侮りが混じっていた。
「存在しない男に、記録のない流派。逃避行の果てに作り上げた幻想でしょう」
小さな笑いが起こる。
(……それは、いい)
直接見ていない。知らない。
ならば、勝手に勘違いしていればいい。
「エーテルも使わぬと聞きます。そんなものが剣とは――所詮、ままごとでしょう」
指先が、止まった。
(……なに?)
心臓が鋭い爪で鷲掴みにされる感覚。
白い光。
焼け落ちる音。
何も残らなかった場所。
(クロードの)
息が止まる。
(剣が)
抑えていたエーテルが溢れる。
燭台の炎が激しく揺れた。
(ままごと……?)
声の方へ一歩、踏み出す。
ピシッ、と硬い床に細い亀裂が走った。
「っ……!」
男の肩が大きく跳ねた。
顔から一瞬で血の気が引き、崩れかけた膝をどうにか支えている。
口を開くが声は出ず、ただ、滝のように冷や汗を流していた。
絶対に触れてはならない逆鱗に触れてしまった。
彼の顔には、そんな明確な恐怖と後悔が張り付いていた。
(……違う。ここで、やるな)
踏み出した足を止める。
拳が震える。
爪が掌に食い込む。
強引に、押し込めようとする。
剣帯に結びつけた風鈴へ触れた。
チリン――
濁った、歪な音が鳴った。
まだだ。クロードの好きな音は、違う――。
高位武官はまだ顔を上げられず、息も絶え絶えになっている。
もう一度。
今度は、強く触れる。
チリン――
ようやく、澄んだ音が広がった。
エーテルが引いていく。
燭台の炎の揺れが収まり、空気が戻る。
高位武官は荒く息を吐いた。
額の汗を拭うこともできず、視線を落としたまま固まっていた。
広間に、完全な沈黙が落ちた。
「……彼は、いました」
小さく、確かに。
事実だけを宣言する。
王だけが、変わらぬ姿勢でこちらを見ていた。
「――見事だ」
その一言で、広間の意識が玉座へ戻る。
「力を持つ者は多い。だが、それを制する者は少ない。汝は、その両方を持つか」
「……はい」
「よかろう」
王は続けた。
「此度、帝国は停戦を破棄した。民は蹂躙されている」
諸侯が、再び王を見る。
「――止めよ」
短い命令だった。
その意味は、私には明白だった。
帝国の進軍を、そして帝国を、潰せ。
「……承知しました」
ようやく少し、ざわめきが戻る。
「……これほどとは」
「公国も動く。ならば、勝機は十分にある」
「皇女殿下の力があれば、挟撃も現実のものとなりましょう」
声には、先ほどまでとは違う硬さがあった。
半分は恐怖。
それでも、その規格外の力が自分たちの側にあることで、勝利に近づいたと信じている。
(……違う。帝国は簡単には止まらない)
白い光が、まだ脳裏に残っている。
(……)
視線を上げる。
王と目が合う。
「……止めます」
短く告げる。
王は、わずかに頷いた。
「よい」
議は進む。
だが、もう誰も、あの剣を軽々しく口にはしなかった。
次回更新予定は、7/7(火)です。




