第34話 英雄を望む目
セレスティア視点となります
王都が見えたのは、正午を回った頃だった。
緩やかな丘を越えた先、白い城壁が視界いっぱいに広がる。
高い。広い。整っている。
遠目にも分かるほど、手入れが行き届いていた。
だが――
(軽い)
そう判断した。
脆いわけではない。
だが、積み方が違う。
帝国の城壁は、ただ侵入を拒むためのものだ。厚く、重く組まれている。
対して、目の前の壁は違う。
少なくとも、この正門では、堅牢さよりも均整と美観が見て取れた。
(魔獣も、魔族も――遠いのね)
そういう国だと、理解する。
視線を上げる。城壁の奥、王城がそびえていた。白亜の塔が幾重にも重なり、空へと伸びている。飾ることをためらわない造り。
(……象徴)
守るための核ではなく、見せるための中心。それが、この国の在り方。
馬車は門へと進む。
往来は多く、活気がある。商人の声。馬車の音。人の流れ。
平和だった。
緊張の気配は、ほとんどない。
(……本当に、戦のために呼ばれたのかしら)
ロラン侯爵の表情が、ふと過る。
送り出す時の、あの硬さ。言葉を選びきれなかった沈黙。あれは、こんな空気ではない。
門が開く。
その内側に、小太りの中年貴族が立っていた。
豪奢な衣装。胸元の紋章。
あの紋章は――ボルソ伯爵。
馬車を降り、裾を整えて一礼する。
「これはこれは! よくぞお越しくださいました、リリア様!」
満面の笑みに、弾むような声。
緊張も、警戒もない。
(……緩い)
「お迎え、ありがとうございます」
伯爵の顔が、さらにほころぶ。
「いやはや、噂以上にお美しい! 長旅でお疲れでしょう、すぐにでも――」
軽い言葉が、流れるように続く。
「道中はいかがでしたかな? 何かご不便は? 侯爵領ではどのようにお過ごしで?」
笑顔のまま、自然に差し込まれる質問。探り、というべきだろうか。
彼はロラン侯爵の立場からは、敵でも味方でもない。
ゆえに――
「問題ありませんでした。穏やかな旅でした」
角は立てず、短く返答する。
特段の情報を渡す必要はない。
「ほう、それは何より! では侯爵閣下とは――」
「大変お世話になっています」
ボルソ伯爵の声に重ねて、柔らかく会話を閉じる。
一瞬だけ、伯爵の言葉が詰まる。
だがすぐに笑顔を取り戻した。
「はは、さすがに口が堅い。安心いたしましたぞ!」
軽く笑う。
本気でそう思っているのか、それとも場を繋いでいるだけなのか。
悪意はない。
だが、この人から戦の気配は少しも感じられなかった。
帝国が停戦を破棄したというのに、緊張も警戒も薄い。
ここが戦場になるなど、考えてもいないのだろう。
私は笑みを崩さないまま、王都の門をくぐった。
門の内側には、思いのほか多くの人が集まっていた。
商人も、職人も、子供を連れた母親もいる。
私が姿を見せると、わっと歓声が上がる。
「英雄様だ!」
「どうか、王国をお守りください!」
「頼みます!」
向けられている期待が何なのかは分かった。
少なくともこの人たちは、私が戦うために来たと思っている。
歓声の中に、ひとつだけ異質な視線があった。
痩せた少年だった。
服は擦り切れ、頬はこけている。
それでも、その目だけは――強かった。
まっすぐに、こちらを見ている。
憧れ。
疑いのない、信仰にも似た光。
(……ああ)
一瞬だけ。胸の奥がやわらいだ。
あの目を知っている。
何もないのに、笑って。
それでも、前を見続ける目。
帝都。奈落谷の底。
薄暗いあの場所で、何度も向けられた。
――強い、速い!
――カッコいい!
何も持たず。全てに捨てられ。
それでも何度でも立ち上がって。
そして、届かなかった。
英雄に憧れる。あの目。
懐かしさが、胸に灯る。
――次の瞬間。
思い出す。あの時の顔を。
自分にはできないと、悔しさを押し殺しきれず、零した涙を。
あの涙は。
私が受け取っていいものではなかった。
(……違う)
胸の奥が冷える。
あれは。
あってはならないものだった。
血筋と魔力だけで立っていた自分を。
努力しても届かない誰かが、見上げる。
そんな構図は。
あってはならない。
あっていいはずがない。
視線を逸らした。
少年は、まだ見ていた。
何も知らないまま。ただ、希望を見るように。
私は歩みを速める。
その視線から、逃げるように。
やがて、人の声が遠くなる。
石畳の質が変わり、すっきりとした街並みに変わる。貴族街だ。
王城が近づいた。
華やかな馬車が、何台も行き交う。
笑い声。
軽やかな会話。
磨き抜かれた装飾。
(……違う)
帝都とはまるで違う。
あそこは勤勉で、常に昨日より良くなるように努力する。そして来るべき時への備えを怠らない人々が集まっている。
あれから5年、帝国は刃を研ぎ続けたはずだ。
(もし魔王に備えるなら――)
人の国同士の争いをやめ、共に備える。そういう判断もあり得る。
しかし、融和せずすべてを飲み込み、単一の国としてより強くなる。
帝国の論理なら、その方が理にかなっている。
視線の先で、馬車の窓が揺れる。中で貴婦人が笑っている。
この都市を。この平和な人々を。
(それでも、全てを焼き払うの……?)
答えは出ている。
帝国は止まらない。それだけは分かっていた。
やがて、王城が目前に迫る。
白亜の外壁は近づくほどにその精緻さを増し、装飾の一つ一つが無駄なく整えられているのが分かる。
門前には、すでに別の一団が待機していた。
同行したボルソ伯爵が一歩前に出る。
「ここまでです」
小さく告げる声は、先ほどまでの軽さを失っていた。
代わりに門前から進み出たのは、年配の男性だった。
簡素な衣装。だが質は明らかに違う。
無駄のない立ち姿。視線は低く、しかし隙がない。
「お待ちしておりました、リリア様」
深く、正確な礼。過不足のない動き。
それだけで分かる。
ここから先は違う。
ボルソ伯爵は軽く咳払いをし、取り繕うように言った。
「では、あとは頼む」
「あとは宮廷でお預かりいたします」
短い応答。
年配の男性はボルソ伯爵は見ず、こちらをじっと見つめている。
(……ここから)
私は一歩、前へ出る。
案内に従う。
門をくぐった瞬間。空気が変わった。
音が、消える。
人の気配はあるはずなのに、無駄な声が一切しない。
靴音だけが、規則正しく石畳に響く。
すれ違う者たちは、誰もが足を止める。
深くは見ない。
だが、すれ違う直前に必ず一度、こちらへ目を向ける。
身なりを。姿勢を。
それぞれの思惑でこちらを見ている。
その感覚が残った。
やがて、ひとつの扉の前で足が止まる。
「こちらで、少々お待ちください」
案内の男はそれだけ告げ、静かに一礼した。
扉が開く。
広く天井の高い控室だった。
金細工や古い王家の意匠が、壁にも柱にも重ねられている。
(……豪華だな)
訪れる者を落ち着かせるための部屋というよりも、王城の歴史と格を、先に見せつけるための部屋であった。
椅子に腰を下ろす。
その音が、やけに大きく響く。
一度、深く息を吐く。
(……ここから先が、本番)
次回更新予定は、7/3(金)の予定です




