第32話 遠き温度
ロラン侯爵は夜明け前に発った。
「リリア」
去り際、侯爵が振り返った。
「本当は……王都へ行かせたくない」
厳しい顔立ちの侯爵が、その時だけは父親のような苦渋の表情を見せた。
それ以上、侯爵は何も言わなかった。
私は深く一礼した。
「5年間、ありがとうございました」
侯爵はただ小さく頷いて、馬を進めた。
残された中庭は、静かだった。
夜明けの空が、じわりと白み始めている。
止まれない。
それだけは、5年前から変わっていない。
侯爵を見送ったあと、私も朝食を済ませ、馬車で屋敷を発った。
王都のある北へ向かう。
窓の外に、畑が続いていた。
麦の穂が風に揺れている。遠くで農夫が腰を曲げ、黙々と手を動かしている。
川沿いの道に差し掛かると、洗濯物を抱えた女性が子どもに何か呼びかけていた。親子だろうか。子どもは振り返り、差し出されたものを受け取った。
どこまでも、穏やかだった。
それなのに。
(私は、ここにいない)
景色を見ている。息をしている。でも、額縁に飾られた絵画を見ているかのような感覚。
5年間ずっと、こうだった。
ふと、道端に少年が見えた。
石壁に背を預け、大きなパンを両手で抱え、無心にかじっている。
その姿が、忘れていた記憶を呼び覚ました。
――クロードも、こんなふうに食べていた。
貪るわけでも、急ぐわけでもなく。ただ、当たり前のように。何でもない顔で。
そんなクロードに外の話をしてあげるジル。
ヒカリゴケの淡い光。
三人で囲んだ食事の記憶。
それが、どうしても忘れられない。
他愛もない話をして、笑って。それだけでよかった。
確かに幸せだった。
あの時間は、本物だった。
(あぁ……私、二人のことが、本当に大好きだった)
胸がきつく締め付けられる。
(……私が、いるから)
あの時、そう思ったのに。
それでも、止まらなかった。
ジルの、あの優しい笑顔が浮かぶ。
少しだけ、無理をしていたあの顔。
――全部、分かってたはずなのに。
あの時。
本当は――二人だけでよかったのに。
クロードとジル。
あの二人だけで、きっと、ちゃんと幸せになれたはずなのに。
(……私が、間に入ったから)
三人で笑っていたあの時間は、温かくて、大切で――。
でもそれは、最初からどこか歪んでいたのかもしれない。
(私がいたから、バランスが崩れて)
(ジルは、無理をして)
(……わたしが――)
そこで、少年の母親らしき声が、遠くから飛んできた。
少年は口いっぱいにパンを入れたまま、のろのろと立ち上がる。
私は窓から目を離し、膝の上に視線を落とした。いつの間にか握りしめていた拳から、力が抜ける。
何度目か、もう分からない。
胸の奥のつかえを、抑え込む。
出発前、侯爵は馬上から短く言った。
「今後は、第二王子殿下とご一緒する機会が増えるだろう。……誠実な御方だ。民を思い、覚悟がある。お前と釣り合う、数少ない存在だと私は思っている」
私は答えなかった。侯爵もそれ以上は言わなかった。
馬車の中で、その言葉を反芻する。
誠実。覚悟。
王子への評価は、きっと正しいのだろう。
一度だけ、会ったことがある。
整った所作と的確な言葉。王族として、立派な方なのだと思った。
けれど「釣り合う」という言葉だけは、どうしても自分に結びつかなかった。
なぜ侯爵が、私にそんな未来を望むのかわからない。
私は今も、5年前に置き去りにされたままだ。
王子の隣に立つなど、考えたこともない。
考えているのは、二人を忘れないこと。そしてどうすればあの剣に近づけるのか。
それだけなのに。
屋敷を発って2日目の夕刻、アルシアの街が見えてきた。
整った城壁。活気のある門前市。行き交う人々の顔は明るく、声は大きい。王都に近い主要都市らしく、道も建物も、丁寧に手入れされていた。
「……綺麗」
思わず、声が漏れた。
だが、その感想はすぐに宙に浮いた。
綺麗だと思った。それは本当だ。
でも胸の中には、何も残らない。
宿の食堂は、賑やかだった。
旅人らしい男たちが、卓を囲んで酒を飲んでいる。話し声が、湯気と混ざって漂ってくる。
「帝国の連中がまた動いたらしいぞ」
「そうか。まあ、あいつらのやることだからな」
「人の街を焼いといて、停戦もへったくれもない。人じゃねぇよ、ありゃ」
「滅ぼすしかねぇだろ。当然だ」
男たちは、酒を飲みながら当たり前のことのように話していた。
帝国が憎い。私もそうだ。
あの光が、すべてを焼いた。クロードを。ジルを。あの家を。
だから怒りはわかる。
でも。
(……どうして、そんなに迷いなく言えるの)
「滅ぼすべき」という言葉が、こんなにも軽い。
その軽さが、どうしても飲み込めなかった。
帝国にいた人たちの顔が、浮かぶ。
ルークの苦しそうな横顔。ニーナが限界まで魔法を振るった理由。帝都で働き、暮らしていた人たちの顔。
ここと同じように。いろんな人が生活しているのだ。
ふと、目の前の温かいスープをすする。
顔も知らない誰かが、私のために用意してくれたものだ。
ジルの手料理を思い出させるような、その塩辛さが、久しぶりにおいしく感じた。
食堂を出て、部屋へ戻る。
窓から、夜のアルシアを見下ろす。
灯りが並び、人の声が遠く聞こえる。
穏やかな街。穏やかな夜。
それなのに、耳に残っているのは『帝国は滅ぼすべき』という言葉だった。
バラバラで、私には全然結びつかない。
剣帯を手に取った。
風鈴が、かすかに揺れる。
クロードの顔が、一瞬だけ浮かんだ。
それでも私は、進まなければならない。
明日も、北へ。
次回更新予定は6/26(金)です。




