第31話 遺された音
第二章、開幕です。
第一章から5年。
失われた家、遺された音、そして忘れてはいけない名前。
ここから物語は、再び戦場へ向かって動き始めます。
目を閉じ、全身の力を抜く。
風の気配を探り、大気の流れに身を委ねる。
そうして中庭の真ん中で、ただ風に揺られるだけの時間を、私は毎日欠かさず繰り返している。
(……全然、ダメ)
どれだけ大気と一体になろうとしても、あの人が見せてくれた『静かさ』にはたどり着けない。
目を開き、木剣を構える。エーテルは一切使わない。彼が遺した『無名の剣』の型だけを、狂ったように反復する。
5年、ひとりで振り続けた。
それでも、自分がどこまで行けるのかは、もう嫌というほど見えてしまっている。彼には、まったく届いていない。
それでも、やめることなど許されなかった。
無力でもいい。この剣が届くと、証明するために振り続ける。
私がこの剣を否定してしまったら、あの人が生きた証が、この世界から完全に消え去ってしまう。
剣帯に結びつけた古い真鍮の風鈴が、チリンと鳴った。
5年前の『白翼の日』。彼が私に託してくれたもの。
私が彼に渡した手作りの風鈴は、あの光の向こうへ消えてしまったのだろう。せめてその音が、彼が迷わず進めるよう、導いてくれていることを願うしかない。
――なのに。
届かない。
何度振っても、何百回と繰り返しても。
あの時、目の前で見せられた剣には、かすりもしない。
私が、この剣を証明しなければならないのに。
彼が遺したものは――ッ。
「っ……!」
石畳に、膝をつく。
胃の中身が、勝手にこみ上げた。
息が荒れる。視界が滲む。
(……また)
5年間、毎日続けている。それでも、身体はまだここまでしか持たない。
限界など、とうに超えているのかもしれない。
それでも、やめるという選択肢が、私の中には存在しなかった。
クロードは――彼は、こんなものじゃなかった。
もっと自然に。もっと、何でもないことのように、剣を振るっていたのに。
「リリア様」
背後から、侍女の声がした。私は静かに剣を納め、振り返る。
王国へ逃げ延びてから5年。
ロラン侯爵家に保護された私は、侯爵家の遠縁――『リリア』という名を与えられた。この鳥籠のような屋敷で、息を潜めて生きるために。
「昨日は領地に現れた魔獣の討伐、本当にありがとうございました。領民たちも、リリア様のご慈悲と素晴らしい魔法剣に、涙して感謝しておりましたわ」
「……私にできることをしただけよ。皆が無事でよかった」
私は、侯爵の縁者として完璧な笑みを浮かべて頷いた。
だが、その裏で胸の奥は冷え切っていた。
昨日の魔獣討伐。私はまたしても、あの人の剣だけでは敵を倒しきれなかった。
内燃錬成の力を使わざるを得なかった。
領民は救えた。
それでも――
(違う)
あの人の剣は、こんなものじゃない。
私の未熟で、上書きしていいものじゃない。
クロードは、こんなんじゃなかった。
そう思っているのに、細部がうまく思い出せない。
剣の特訓のためにブーツをくれたジルの笑顔や、励ましてくれた言葉は、まるで昨日のことのように完璧に思い出せる。
それなのに……。
「……失礼するわ」
それ以上言葉を続けることができず、私はその場を後にした。
自室に戻り、一人きりになる。
机の引き出しの奥から、一冊の古いノートを取り出した。
5年前、王国へ逃げ延びる馬車の中で書き殴った手記。
あの時すでに「何か大事なことを忘れてしまった気がする」という焦燥に駆られていた。だから記憶を逃がさないよう、必死に文字として記録した。
クロードとジル。
王国に頼み込み、調査を二度、してもらった。
結果は残酷だった。
『クロードという人物は存在しない』
『ジルはセレスティアを確保した日以来、行方不明』
『ボイラーは無残な残骸のまま打ち捨てられている』
王国の見解は、私の「錯乱」だった。
馬鹿げている。
彼はいた。
あの家で、私に笑いかけてくれた。
この風鈴が、何よりの証拠だ。
帝国が放ったあの光が、すべてを奪ったのだ。
ページをめくる。
指先が、わずかに震える。
『――白翼の日の直前。風邪を引いたクロードのために、お粥を作った』
その一文を見た瞬間――
「……あれ?」
思考が、止まった。
クロードが、風邪を引いた?
記憶を探る。
鍋をかき混ぜていた光景は、確かにある。
けれど――おかしい。
あの時、寝込んでいたのは……ジルじゃなかった?
いや、違う。
ジルは、あの頃ずっと元気だったはずだ。
なら、私は誰のために、お粥を作った?あの家にはクロードとジルしか居なかったのに……。
心臓が、強く打つ。
書かれている記録と、頭の中の記憶。
どちらも確かで、どちらも噛み合わない。
「私が……間違ってる……?」
静かな部屋に、自分の声が落ちた。
一瞬だけ、足元が崩れた気がした。
けれど――
「違う」
私は強く首を振る。
クロードはいる。
それだけは、絶対に間違っていない。
なら、間違っているのは――私の記憶の方?
ぞわり、と背筋を何かが這い上がる。
私はノートを閉じ、風鈴を強く握りしめた。
「クロード……」
その名だけは、決して手放さないように。
チリン。
指の中で、風鈴がかすかに鳴る。
その音だけが、確かなものだった。
記憶が揺らいでも、世界が否定しても、この音だけは変わらない。
私はゆっくりと息を吐き、手を離した。
風鈴は小さく揺れ、やがて静止する。
窓の外では、春先の風が庭木を揺らしていた。
柔らかな陽射し。よく手入れされた芝。遠くで聞こえる使用人たちの足音。
何もかもが穏やかで、何もかもが現実味に欠けていた。
(ここは、安全だ)
そう理解しているのに、胸の奥は少しも安らがない。
あの日からずっと、私はこの場所にいる。
守られ、隠されている。
けれど――
(置いてきた)
その感覚だけが、消えなかった。
クロードを。
ジルを。
自分の選択で。
ぎゅ、と無意識に拳を握る。
爪が食い込み、鈍い痛みが走った。
「……まだ、足りない」
剣も。
記憶も。
覚悟も。
何一つ、届いていない。
だから私は、ここにいる。
ここで、生きている。
不意に、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「リリア様。失礼いたします」
先ほどとは別の、落ち着いた女性の声。
この屋敷での私の『監視役』に近い存在――筆頭侍女だ。
「どうぞ」
声を整えて応じると、扉が静かに開く。
年配の侍女は一礼し、淡々と告げた。
「侯爵様より、お呼び出しがございます。至急、応接間へとのことです」
「……今?」
「はい。急ぎのご用件と伺っております」
その言い回しに、わずかな違和感があった。
この屋敷で『急ぎ』という言葉が使われることは、ほとんどない。
「……わかったわ。すぐ行く」
一息ついて立ち上がり、部屋を出る。
廊下は長く、静かだった。
応接間の前で、侍女が扉を開く。
中にはロラン侯爵と、見慣れない男が一人。
軍属だと一目でわかる、硬い気配を纏っていた。
その場の空気が、わずかに張り詰める。
「リリア、来たか」
侯爵が短く告げる。
「急な呼び出し、申し訳ない。だが……状況が変わった」
私は一歩、室内へと足を踏み入れる。
「状況、とは?」
問いかけると、軍服の男が一歩前に出た。その目は、感情を殺したように冷たい。
「5年前に結ばれた停戦条約を、帝国が正式に破棄しました」
(停戦の、破棄……)
「現在、王都では緊急会議が開かれております。各地の貴族にも、順次通達が下る見込みです」
淡々とした報告。
だがその一言は、5年間止まっていた時間を、容赦なく動かすには十分だった。
帝国が。
あの帝国が。
(やっぱり――)
思考より先に、感情が浮かぶ。
自然と鼓動が速くなる。
――怒りだった。
抑え込んでいたはずのそれが、静かに、確実に形を取り始める。
奪った。
壊した。
あの日、私のすべてを焼き払った――。
気付くと、握りしめた手から、血が流れていた。
「……状況は理解しました。王都への出立は、いつになりますか」
「準備が整い次第だ。お前にも、役目がある」
じっとこちらを見つめる目に対して「承知しました」と短く応じた。
血に濡れた手を、ゆっくりと開く。
掌には、爪の跡が深く残っている。
痛みは、なかった。
剣帯に結ばれた風鈴が、小さく鳴る。
チリン。
その音だけが、やけにはっきりと耳に残った。
戻る場所などない。
取り返せるものも、もうない。
ただ、あの日奪われたものの大きさが、胸を締め付ける。
そよ風が、大きく空いた心の穴に、久しぶりに滲みるようだった。
次回更新は6/23(火)予定です。




