第28話 天才だった証拠
ニーナ視点の回です。
白い天井だった。
次に、自分の手。それから、身体の中。
――静かだ。
マナも、エーテルも、回路の軋みも。何もかもが、嘘みたいに静まり返っている。
(……死んだ?)
違う。痛みはある。生きている。
ただ、遠い。
「……目が覚めたか」
兄の声だった。
横を向くと、ガレスが椅子に座ったまま、深く俯いていた。目の下に濃い影がある。一晩中、ここにいてくれたのだろう。
「……兄様」
「動くな。まだ点滴が刺さってる」
声は静かだったが、その手は膝の上でかすかに震えていた。
天井を見上げたまま、身体の内側を確かめた。
空っぽだ。マナの気配が、どこにもない。まるで器ごと、綺麗に洗い流されたような。
(……こんなに静かなのは、初めてかもしれない)
回路の軋みがない。焼けるような熱もない。
それだけで、今はただ、眠れそうだった。
翌朝。
治療師の説明を聞いた。処置の内容、回路の状態、今後のこと。
淡々とした言葉が続く中で、一つの言葉に釘付けになった。
「――A級魔核を、応急処置に」
「……え?」
「損傷が深刻でしたので、緊急の判断で」
(A級魔核……)
冒険者が命がけで討伐して、ようやく手に入るもの。戦時の今、国すら必死でかき集めているもの。それを、自分一人のために。
「……みんなが」
「お仲間の方々が、即決されました」
喉の奥が、熱くなった。
(そんな……そんなものまで)
だが同時に。
A級魔核を使ったのなら。この静けさなら。
(――まだ、戻れる)
根拠などなかった。
それでも、そう思った。
空っぽは、満たせる。
満たせるはずだ。
♢♢♢♢♢♢♢♢
退院は三日後だった。
治療師は「まだ安静が必要」と言ったが、兄が押し切った。
理由は、窓の外にあった。
入院中に外を眺めていたが、ここ二日で、治療院の周囲を行き交う憲兵と軍人の数が、明らかに増えていた。物々しい雰囲気が、街全体を覆い始めている。何かを、必死に探している。
心当たりはあった。
あの時。
あの光。異常な収束だった。
(早く、ここを出よう)
荷物をまとめながら、内側を確かめた。
マナは、少しずつ戻り始めていた。回路の輪郭が、ぼんやりと見えてくる。
それが、良くなっているということだと、思っていた。
だが、その期待はただの錯覚にすぎなかった。
退院から三日が経った朝。
誰もいない路地の奥。
杖を握り、ほんの小さな風の刃を一枚だけ、撃つのだ。
(大丈夫。少し熱を持ったとしても、ちゃんと撃てれば。それだけ確認できれば)
「見えざる刃よ、風に宿り――」
詠唱を始めた瞬間。
回路が、軋んだ。
それは以前とは違う軋み方だった。
以前は限界まで使い込んだ後に来る痛みだった。今は、始まった瞬間から、もう熱い。
「走りて裂け――」
続ける。
熱が、喉元まで上がってくる。
「……っ」
詠唱が、止まった。
風の刃は形になりかけたまま、空気に溶けて消えた。
(もう一度)
試みた。
今度は詠唱の半ばで、口の中に鉄の味が広がった。
その場に静かにしゃがみ込んだ。
泣かなかった。声も出なかった。
ただ冷たい地面に手をついて、自分の中が静かに壊れていく音を、聞いていた。
♢♢♢♢♢♢♢♢
ルークが来たのは、翌日だった。
開口一番「ジルを呼んでいいか」と言った。
頼りになる。真っ直ぐな人だ。
――だからこそ、その視線がジルに向くのが、少し嫌だった。
(……わかってる。わかってるから、いい)
「……好きにして」
ルークは何か言いかけて、やめた。
そのまま、深く頭を下げ、静かに部屋を出て行った。
後に残った沈黙は、どんな言葉よりも重かった。
数時間後。
窓際の椅子に座って外を眺めているとき、ジルが来た。
「診させてもらうね」
それだけ言って、ジルは隣に膝をついた。
世間話も、励ましも、なかった。
掌がかざされる。
沈黙が続いた。
1時間が経った頃、ジルの眉がかすかに動いた。
2時間が経った頃、その呼吸が、少し深くなった。
その横顔をずっと見ていた。
(……この人は)
天才だと思っていた。ジルのダブルキャストを初めて見た時、理解できなかった。認めたくなかった。
だが今、こうして何時間も、無言で迷路のような私の回路を手探りしているこの人は——天才が持つ「自然とできてしまう」という顔をしていなかった。
歯を食いしばるような、必死さだった。
(……そうか)
この人も、ただ、やり続けてきただけなのかもしれない。
その気づきは、嫉妬でも羨望でもなく。
ただ静かに、私の中にストンと落ちた。
「……一つだけ、道がある」
ジルがようやく口を開いた。
その声は、努めて平静を保っているように聞こえた。
「回路全体には、もう無理に通さないで。ここだけ——この一本だけを使う。私のエーテルで道標を置くから、そこだけに集中して流してみて」
かすかな温かさが、回路の奥に灯った。
細い。か細い一本の道。
でも、確かにそこにあるというのだ。
(……やってみる)
残った1本の道に、意識を集める。
ジルの道標が、そこにある。
見える。
――わかる。
「……いくよ」
ジルの声に、頷く。
マナを、集める。全体ではなく、その一本だけへ。
――熱い。
(違う、そこじゃない。もっと細く)
もう一度。
――すぐに、熱が来る。
(細く。細く流す。ジルみたいに)
もう一度。
もう一度。
もう一度。
何度目かで、ようやく気がついた。
ジルのやり方は、精密さで制御する技術だ。
大きな力を、細い糸のように絞り込む。それが前提にある。
私は違った。
ずっと、圧力で押し切ってきた。
大きければ大きいほど、強ければ強いほど。
それが自分の魔法だった。
その大きさは、もう出せない。目詰まりし、爆発する。
残ったのは、一本の道だけなのだ。そこに、精密さで絞り込む技術がない。
(……できない)
声にならなかった。
杖を握る手から、力が抜けていく。
ジルが何か言っている。聞こえている。でも、頭に入らない。
(私は、ジルじゃない)
当たり前のことだった。
当たり前のことが、今初めて、本当の意味でわかった。
杖が、床に落ちた。
カラン、と乾いた音がした。
それだけだった。
ジルがいつ部屋を出て行ったのか、よく覚えていない。
気がつけば、一人、窓際の椅子に座っていた。
眼下を行き交う街の人たちは、みな、明日に希望を持っているように見えた。
もう、何も感じないはずだった。
回路と一緒に、心も焼き切れてしまったと思っていた。
でも、涙が出た。
見たくなかった。
ベッドに横たわると、切り取られた窓枠の向こうに、青空が見えた。
今日は雲一つない。痛いほどの快晴だった。
空っぽだ。
何もない。私の中には、もう何も残っていない。
あとはただ、静かに涙がこぼれ続けるだけだった。
聖国の白い治療院で、聖女に流れを見てもらった時も。
帝国の魔導技術に縋った今も。
結局、私は戻れなかった。
帝国の最上級の治療なら、まだ可能性はあるのかもしれない。
でも、そこへ辿り着くための金も、伝手もない。
そして何より。
そこまでして辿り着いた先に、治る保証などどこにもなかった。
A級魔核ですら、駄目だったのだ。
兄様と二人、いくつもの国を巡ってきた。
治るかもしれない。
まだ戻れるかもしれない。
そんな言葉を、何度も信じて、何度も失った。
その旅も、ここで終わりだ。
そう思うと、不思議なくらい何も考えられなくなった。
その日の夜。
兄に、公国へ帰りたいと告げた。
兄は、何も言わなかった。
ただ、深く頷いた。
その目が、ひどく痛そうだった。
♢♢♢♢♢♢♢♢
出発の朝。
兄が手を繋いできた。
引っ張るように、でも壊れ物を扱うように。その加減が少し可笑しかった。
歩きながら、兄がぽつりと言った。
「……帝国に来たのは、間違いだったかもしれない」
少し考えた。
「違うよ、兄様」
兄の足が止まる。
「あの色が……見えたから」
あの黒緑に沈んだ風の色。
極限まで圧縮されて、自分の色を潰し合って、それでも形になったもの。
「私が天才だった、証拠。それだけは……本物、だった……」
声が、途中で割れた。
繋いだ手に、不意に、痛いほどの力が込められた。
足は、完全に止まった。
見上げると、いつも岩のように揺るがない兄の顔が、無残なまでに歪んでいた。
「ちゃんと、見たぞ。お……覚えて、いる」
それは、ただの慰めではない。
魔法を失って空っぽになった妹の『生きた証』を、この先ずっと覚えていてくれるという、兄としての血を吐くような誓いだった。
ああ、そうか。
私が一番見て欲しかった人が、私の命の輝きをちゃんと覚えてくれている。
魔法の道は消えた。
でも、私が積み上げてきたものは、完全な無にはならなかったのだ。
『輝いていた』のだ――。
空っぽだった胸の奥に、不器用なその言葉が、静かに、温かく満ちていく。
視界が不意に滲み、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
それはもう、昨日までの絶望だけの涙ではなかった。
「忘れ、ないでね……」
ガレスはそれ以上何も言わず、ただ、繋いだ手は離さないまま前を向いた。
二人は、そのまま歩き続けた。
ジルが見送りに来ていた。
少し迷ってから、話しかけることにした。
「……あの、エーテルのない彼。ケガはなかったの?」
ジルは一瞬だけ目を丸くし、それからスッと目を細めた。
「……彼にエーテルがないって、よくわかったわね」
「魔術師だもの。戦場でのマナの動きくらい、わかるわ」
「冒険者なら、どんな下っ端でも『内燃錬成』を使う。けど、彼にはその兆候すら一切なかった」
「……」
「無茶苦茶よ。立ち向かう資格なんてないのに、ただの生身で、あんな化け物の前に出るなんて」
ジルの瞳の奥が、かすかに揺れた気がした。
彼女は小さく息を吸い込み、真っ直ぐに私を見た。
「元気よ。今日も強くなろうと剣を振ってる。努力の人なの」
そこで一度、言葉を切る。
気づくと、ジルは涙を流していた。
「……彼の雄姿を覚えているなら。どうか、ずっと覚えていて」
覚えている。
彼が私を突き飛ばした瞬間も。
死ぬはずの魔法弾を前に、それでもそこに残った背中も。
ずっと。
私は頷いて、踵を返した。
その言葉の奥にある切実な響きの意味を、探ろうとは思わなかった。
涙の理由を聞く必要も、なかった。
ただ、ジルの言葉だけが、耳に残っていた。
努力の人。
内燃錬成もできない。
戦う資格すら持っていないはずなのに。
それでも、今日も剣を振っている人。
私は、もう天才ではいられない。
細い糸一本、通せない。
それでも。
何も持っていない人が、今日もあがき続けているのなら。
私も、終わった人として、覚えられたくはなかった。
――努力を、諦めなければ……。
兄の手を握り直して、前を向く。
風が、冷たかった。
次回、第029話「温もりの代償」。
初めての、主人公/クロード視点となります。
次回更新は6/2(火)予定です。




