9話 仄暗い一滴
【人物像】
宮島克也
52歳 / 172cm
週刊誌の記者、バツイチ
現場に残された、被害者の血液が混じった足痕をジョイスにおぼえさせ、被疑者の向かった先を追わせてみたのだが──アンダーパスの中ほどでは迷いなく進んでいたはずの彼女は、立哨する制服警察官と怜士の前までやって来ると小さく鼻を鳴らして立ち止まり、困ったように佐伯を振り返るのみだった。
結局、警察犬の鼻をもってしても〝アンダーパスのどちら側から来て、どちらに去って行ったのか〟しか分からない。当然、それも捜査においては重要な情報ではあるのだが、やはり雨によってありとあらゆる痕跡が遮断、消滅しているのが致命的だった。
そんなジョイスをして怜士は「役立たずでも可愛さが上回るのは得だな」と、日ごろあまり見せることのない優しげな笑みでその頭を撫でさすっていた。
「役立たず、役立たずって! あの人、顔面しか取り柄はないんですか!」
県警本部へと戻ったあと。ジョイスを犬舎へと送り届けてひととおりの世話を終えてきた佐伯は、鑑識課の執務室へ入るやいなや、怜士への苛立ちからか顔を真っ赤にしてそう叫んだ。
「顔だけはいいのがまたむかつく!」と地団駄を踏む佐伯に、
「西原巡査部長ですか? ちょっと怖いですけど優しいですよ」と真白が困ったように微笑む。
鑑識課がこんなに賑やかなのは珍しいなと、光洋もまたつられて口もとを綻ばせていた。
ほんの一時の平穏に、張り詰めていた空気がやわらいだ折。廊下から顔だけを出した今野主任が、こちらへ向かって手招きをしていた。
「田之倉、ちょっと」
「はい!」
呼びかけに応じて廊下へ出ると、今野は「大丈夫だったか。無理してないだろうな」と眉をひそめて訊いてきた。
無理をしているか否かで言えば、きっと大なり小なりの無理はしている。だが、それ以上にあの模倣犯を止めなければならないという、ある種の使命感にも似た底知れぬ怒りが自身を突き動かそうとしていた。
「ご心配をおかけしました。大丈夫です、もう倒れたりなんかしませんから」
よどみなくそう言い切った光洋に、今野はやや渋そうにしながらも、「そうか」と笑みを返してくる。
「では、姫路の研修が終わりしだい、捜査本部に復帰だ。堀尾課長からも承諾は得ている。良いな?」
「承知しました」
これで、堂々と胸を張って事件に向き合える。
不安がないと言えば嘘になるが、今このときは後ろを向いてなどいられない。
◇
事件の犯人が未だ特定できていないことを思えば、安易に現状をポジティブに捉えることができないのはもっともだ。しかし、この数ヶ月間沈みっぱなしだったのがじわじわと浮上してきたのを実感すると、喜びに近い感情が足取りを軽くするのをおさえられなかった。
その感情が、災いしたのか──早めの帰宅が叶い、母に安定剤を飲ませて寝室へと送り届けたあと。はやる足を落ち着かせるために夜のランニングへと出たのが、仇となった。
「やあやあ、こんばんは」
軽く近所を回ってマンションに戻ってくると、エントランスの前に二度と合わせたくない顔が待っていた。
──宮島。
額に浮かぶ汗をぬぐい、ヤニ臭さをまとう痩躯の横を通り抜けようとするも、男は意外にも身軽に目の前へと回り込み、道をふさいできた。
「どいてください。これ以上母に干渉するなら──」
「あぁちがうちがう。この前のキミの反応で、キミが黒崎洋一について知ってるってことはよぉーく分かったからさ。今日は田之倉……お父さんについて、ちょっと話したくて」
三度にわたって触れられたその名に渋面を浮かべたことなど構いもせず、宮島はへらへらと光洋の顔をのぞき込んでくる。
いま一度口を開こうとしたが、背後から「すみません、とおります」とマンションの住人がやって来たことで、それは喉の奥へと引っ込んでいった。
……宮島を振り切ろうにも、どうせこの男はタイミングを変えて何度も現れるのが目に見えていた。ならばいっそ、短時間でも適度に相手をした方が良いのだろうかと。気乗りはしなかったが、近くの公園へと場所を移して話を聞くことにしたのだった。
木製のベンチに腰かける光洋に、その向かいに立つ宮島はしばらく前にも見せた写真を差し出した。
「こっちのきれいな女の子。このスナックでチーママやってた半井智美っていうんだけどさ、知らないかな?」
「……知りませんよ」
わざわざ注視するまでもなく、指し示されたその智美という女性のことはまったく知らなかった。涼しげな目もとが印象的で、ともすれば幸うすいとも言えそうな……。
「この子さぁ、田之倉のお気に入りだったんだ。ずいぶんと入れ込んでたみたいでね、彼女のために通ってたって言っても過言じゃないんだよ」
懐かしむよう写真を眺めた宮島が煙草を口に咥えたのに気づき、公園で喫煙とはいかがなものかとひと言たしなめようとしたが、その手に灰皿が握られているのを見てとどまった。夜風に乗って、白い煙が霧散していく。
「その女性が、何なんですか」
宮島がもったいぶった言い方をしているのは気づいていた。こうして毎回腹の探り合いをしに来る理由こそ見えはしないが、光洋に対してなにかをほのめかしている。それだけはたしかだ。
しばし無言で煙を吸っては吐いてを繰り返していた宮島は──これもきっとわざとだろう──聞こえるか聞こえないかという音で、声を発した。
「智美ちゃん、亡くなってるんだよね。もう15、6年前になるかな……当時彼女はまだ36歳だった。美人薄命ってやつかね」
見知らぬ女性とは言え、まだ相当に若い時分に命を落としたという事実に、光洋は少し気の毒な思いを抱いた。
けれども同時に、自らの父がよその女性になにがしかの想いを抱いていたと聞かされるのは、あまり良い気分ではない。決して夫婦仲が冷え切っていたとは思わないが、しかし母があれでは……という考えもかすめていく。
だめだ、どちらに対してもこの態度は良くない。悪しき疑念だ。
かぶりを振り、首にかけていたタオルで汗をぬぐう振りをして顔を覆った。となりに、宮島が座る気配。煙草の煙が、こちらに流れてくる。
「ボクがなんでこんな話をするのか、分かるかい」
「知りません。そんなこと……知りたくもない」
「つれないねぇ」
タオル越しに、視線を感じた。見えなくても分かる。こちらの反応を、一挙手一投足のがさず観察してやろうというのだ。
この男はいったい、なにが目的なのか──視界を包むタオルにため息を押し込んで、ゆっくりと顔を上げる。となりへと意識を向けると、再び宮島が口を開いた。
「キミはよく知ってるはずだろ? 人間、だれしも人に言えない秘密の一つや二つ、隠し持っているものだと。……キミがあの巡査部長と深い仲であるように。ね?」
「……っ!」
はじかれたよう、男を振り向く。
また、この目だ。深い皺に埋もれ、たしかに弧を描いているはずなのに、するどく相手の内側へ切り込もうという、狩猟者の目。
不意を突かれて言葉も出ずに硬直する光洋に、宮島は「あは、図星かあ」と、手にした煙草を口もとに運ぶ。
「時代も時代だし、べつにキミたちがどうなろうとボクが口出しすることじゃあないんだけどさ……キミはあまりにも、性善説で生きているような気がしてね」
「……何が言いたいんですか」
「平成21年の、1月29日。半井智美が死亡した日だ。警察のデータベースにも残ってるんじゃないかな? 調べてみるといい」
◇
宮島の不穏な言動の数々に翻弄され、最悪な気分をかかえたまま真白の研修を終えた光洋は、あれから数日ののちにF署へと向かった。
そう、最悪だった。それなのに、なぜかあの男が口にした『半井智美の死亡した日』が頭から離れず、自分でも気味が悪いと思いながらもメモに書き残してしまっている。
スマートフォンのメモに一文だけ表示されたその数字を眺めて画面を暗転させると、背後に気配を感じた。振り向けばそこには怜士の姿があり、ギョッとしたのと同時に小さく心臓が跳ねる。
「お前、連絡以外にスマホ使うことあるんだな」
「……それ、馬鹿にしてるのか?」
「いいや? 感心してるんだよ。お前がスマホ音痴なのはよく知ってるからな」
怜士はいつもの皮肉な笑みを貼り付けて、脇にかかえていたノートパソコンをデスクに置いた。
これまでの捜査資料はひととおり把握していたが、今回の二件目の模倣事件については特に安斉との相違点が顕著であった。
そのため、捜査本部に戻ってきた光洋が改めて資料、情報の確認をせねばとファイルをひっくり返していたところ、「今なら手が空いてるから説明してやれ」と吉川課長に指名されたのが怜士であった。
F署の刑事部・刑事課長の吉川が、なにをどう思ってその判断をしたのか。こちらから訊けるような立場でもないであろうことは承知しつつも、その役目に彼を抜擢したことへの妙なとまどいを抑えきれなかった。
「じゃ、おさらいといきますか」
「あ、あぁ。頼む」
怜士に割り当てられているらしいデスクの椅子に座るよう促され、その持ち主は近くから拝借した椅子を持ってきて、すぐとなりに腰かけた。
署内でこれだけ近く、肩を並べているというのがどうにも落ち着かない。だが今このときは眼前のモニターに集中しなければと、片側に触れる体温から意識をそらした。
「二件目の被害者は南城宏隆、55歳。大手不動産会社所有のマンション管理を任されてた、下請けの社員だな。家族は妻と、子供が二人。死因は一件目と同じく、ナイフと思しき鋭利な刃物で首側面を複数回刺されたことによる、失血死。防御創はなし」
「今回、安斉のときから数えても初の男性被害者だったよな」
「そのとおり」
よどみなく概要を述べた怜士は、モニターに近づけていた顔をとおざけ、椅子の背もたれに寄りかかった。
マウスを操作し、びっしりと並ぶ文字の列と何枚もの写真に目をとおす。
これまで風俗店に勤める女性ばかりがターゲットにされてきた中で、ごくふつうの会社員である男性が選ばれたのはあきらかに異質であった。
「ただ、関連性はある。安斉の事件の捜査時、この南城にも聴取を行った記録が残っていた」
「この人に? どうしてそんな……」
一見すると南城は、まるで無関係な被害者にしか思えない。
つぶやくように疑問を漏らすと、怜士の手が光洋のそれからマウスを奪い取った。一瞬の動揺が浮かびそうになるのをおさえ、彼が操作する画面を注視する。
カチリとボタンが押され、液晶にケバケバしい様相の看板や外壁、そして幾人もの顔写真が映し出された。
「安斉が利用していた風俗店のひとつだ。南城は、ここの利用客の一人として聴取を受けてたってことだな」
「え……ここ、って……」
羅列された扇情的とも言える言葉の数々と、妖艶な笑みを浮かべる女性たちの写真。ボディラインを強調するかのようなポーズで映るそれに身を引きそうになった光洋に、怜士は目を細めて。
「ソープランドだな。いわゆる〝本番アリ〟の」
「つまり、南城さんは……」
「妻子がありながらそういう店に足しげく通っていた、と。店側の話ではけっこうな常連だったらしい」
淡々とそう話す怜士の言葉に、胃の奥がずしり、と重くなる。
この人が殺されたことで、家族は初めてその行いを知ることとなったのかもしれない。どちらに対しても同情はするが、形容しがたい嫌悪感が無意識に表情を曇らせる。
すぐ真隣でそんな横顔を見つめていた怜士は、押しだまる光洋の耳もとに顔を寄せて。
「だれにだって、人に言えない秘密がある。……そうだろ?」
ささやくような、低い声。
そこに含まれるものが揶揄なのか、それともなにか違うものなのか。
液晶画面に視線を縫い留められ、ただ呆然とするばかりの光洋には、それを推し量ることもできなかった。
「……つまんねーの」
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