7話 純真と秘密
『今日、新人がそっち行くからな』
そんなそっけない事務的な一文が届いたのは、翌日の朝。
帰宅するなり声をかけたにも関わらず、なかなか起きて来ない母に業を煮やし、光洋一人で朝食を終えたころだった。
怜士とのトークルームは数日間動きがないことはめずらしくなく、このときも前回の会話から4、5日ほど空いていた。
新人……というのはいつか彼が話していた〝可愛らしい名前〟の人物であろうと察しがついたものの、わざわざ連絡してくるほどのことか? と、母の分の朝食にラップをかけながら首を傾げていた。昨晩一緒にいたのだから、そのときにでも伝えることはできただろうに、とも。
言うまでもなく、本部に新人が研修にやって来ることは事前に知らされている。常に人手が足りない所轄よりは人員があること、本部にしか置かれていない機器が多数あることから、機会はそこまで多くはないがままあることだったからだ。
さらには光洋が現在、内勤を命じられている関係から、堀尾課長からも「実質あなたが研修担当だと思ってちょうだい」と告げられていた。おおよその研修内容は今野主任が組んでいるから、とも。
怜士からのメッセージに『了解』とだけ返し、結局そんな他愛もないことをわざわざ送ってきた理由が判然としないまま出勤した光洋は、鑑識課の執務室で「なるほどこれか」と見上げながら面食らっていた。その視線のやや外れた先には、含み笑いを浮かべた怜士がいることも込みで。
「姫路真白と申します! ご指導ご鞭撻のほど、どうぞよろしくお願いいたします!」
びりびりと空気を震わせるような大音声に、真白の真向かいに立っていた光洋は思わず気圧されてあとずさった。真白の背後に立つ怜士は、耳を塞いでいる。
ひとことに言えば〝でかい〟と、ただそれに尽きる。
声が、というのはもちろん──
「た、田之倉光洋です。君、めっちゃタッパあるね……」
「よく言われます! 身長は188センチ、趣味は食べ歩きとプラモデルです!」
彼を本部へと連れてきた怜士も180センチほどあるはずだが、はきはきと明朗に答える真白はそれ以上に上背のある男だった。
日本人としては平均的な身長である光洋は、自分を見下ろしてくる男二人に囲まれてなんとも言えない気分だった。すこし離れて見守る佐伯は、そんな光景を見て目を輝かせている。
「うん……わかったから、もう少し声をおさえて話そうか……」
「了解です!」
真白の背後で怜士が、自身の背後で佐伯が笑う気配がして、光洋は「これは大型新人が来たな」と頭を抱えた。
◇
真白が挨拶を終えたあと、鑑定嘱託書に添える付箋を書こうとして、ペンが見当たらないことに気づいた。
父の形見であるのに、いったいどこに置いてきたかと焦りをおぼえ始めたとき、「おい」というそっけない声が背後へと振り向かせた。
「ん。忘れもん」
そこにはむすっとしたままペンを突き出す怜士がいて、
「あ、ありがとう……なくしたかと思った」と、知らず頬がゆるむ。
向かい合った怜士は目を細めたかと思うと、静かに視線をそらした。
差し出されたペンに手を伸ばしながら、なぜ彼が持っているのかと疑問が浮かぶ。黒檀色のそれが持ち主の元へ戻るのを待つ怜士は、まるで触れることそのものを忌避するかのように、指の先で小さくつまんでいた。
「お前、俺ん家に忘れてっただろ。そんなもんウチに置いてくんじゃねーよ」
苦々しげにそう言い放った怜士に、一瞬、彼の家に泊まった事実への気恥ずかしさと、形見を〝そんなもん〟と称されたことへの苛立ちが同時に込み上げる。けれども自分のために持ってきてくれたのに違いはないと思い直し、
「……今度、なんかお礼するから」
「いらねぇ。お前のそういう義理堅いとこめんどくせえんだよ、お坊ちゃんめ」
口汚く吐き捨てた怜士はついと背を向けたかと思うと、佐伯と真白の横を通り過ぎてそのまま鑑識課から姿を消した。
ため息をついてその背を見送り、受け取ったペンを胸ポケットに差すこちらに、佐伯がそっと近づいてくる。
「素直じゃないですよねぇ、あのひと。先輩のことが眩しいんですよ、きっと」
「眩しい、って……?」
「うーん……なんて言ったらいいのかな」
佐伯の言った意味が汲み取れずに首を傾げると、しばし顎に手を当てて考え込んでいた彼女は急にはっと目を見開いて。
「あのひとが闇なら、先輩は光なんですよ。文字どおり! だからああやってツンツンしちゃうんですね」
「ツンツンって……」
自分からすれば怜士はただ口が悪く、粗雑で野卑で……という印象なのだが、彼女の思う〝西原怜士像〟はどうやら違うようだ。
はは、と乾いた笑いを漏らし仕事に戻ろうとした光洋に、
「だってあのひと、ぜったい先輩のこと好きじゃないですかぁ」と投げかけられた言葉が想定外に、胸に突き刺さって。
「友達のことはもっと大事にすべきですよ。ねぇ?」
求められた同意に小さく頷きながら、泳ぐ視線と熱を帯びはじめた頬を悟られまいと、書類に向き直った。
◇
職場では通常の鑑識業務と、真白の研修とに追われ、あっという間に時間が過ぎていった。
事件現場の証拠のデータはこちらにも送られてくるが、やはり捜査本部に参加して直接臨場したい、と思ってしまうのは避けられない。そのためにはあの事件に向き合って乗り越えなければとも思う反面、また周囲に迷惑をかけてしまうのでは、という懸念がずっと付きまとっている。
そうしてもやもやを抱えたまま仕事を終えて自宅へと到着したとき、マンションの駐車場の影から姿を現した宮島に、顔をしかめてため息をつくのは至極当然の反応であった。
車から降りようと扉に手をかけるが、運転席側に回り込んだ宮島がその前に立ちはだかる。
そのまま開けて怪我でもさせようものなら、なにを言われるか。考えうる危険性は避けるべきであると、警察官として染み付いた危機意識から、渋々数センチだけ窓を下ろした。
「待ってたよ〜光洋クン。警察官は遅くまで大変だねえ」
「そうですね。疲れてるのでお話しする時間は取れません。どうぞお引き取りください」
「まぁそう言わないでよ」
相変わらず表情だけは人なつっこい笑みを浮かべながら、宮島のその目つきと口調からは〝けっして逃してなるものか〟という執念を感じる。こんな男と父が旧知の仲であったというのが、未だに信じられなかった。
「この前さ、途中で帰っちゃったでしょ。良かったらもう少しオジさんとお話して欲しいんだけどな」
「ですから、僕から話せることはなにもありません」
普段あまり表に出すことのない苛立ちがにじんできたのを自覚すると同時に、相対する宮島の目はやはり笑っていないことにも気づいていた。駐車場の暗がりの中にあっても、隠しきれないその不穏さにも。
「──〝黒崎洋一〟について、なんだけどさ」
荒れてひび割れた唇がその名を刻んだとき、すべての音がスローになってぼやけていった。後頭部から背中にかけてを、氷の塊がまっすぐに突き抜けていく。
ぎらつく宮島の瞳を見ているようでいて、光洋の意識は目の前の男のことなどはまったく捉えていなかった。
「平成23年、6月16日……昼ごろだったかな。このときキミはまだ中学生だったね?」
古びた皮表紙に包まれた手帳をめくりながら、宮島の口からは淡々と言葉が並べ立てられていく。その音を鼓膜に受けるたび、アスファルトの湿った匂いが、鼻腔の奥へ奥へとたどり、光洋の海馬を叩き起こそうとしてくる。
「あの日、ずいぶんとひどい大雨だったみたいだねえ。ろくに前も見えず、交通機関が止まるかもしれない……そんな雨だ」
宮島は、光洋の様子になど目もくれず……否、むしろ気にしていないようでいて、つぶさにその反応を観察しているのだろう。それは光洋にも感じ取れていたが、無意識の身体反応をおさえられるほど、彼は冷静ではなかった。
「あんまりひどい雨だったから、香穂里さん……キミのお母さんも心配していたそうだよ。迎えに行こうかって、外を眺めて悩んでいたらしいね」
「……母、さん?」
動揺を押しとどめたのは、母の名前だった。
「母さんにも、接触したんですか。うちに来たんですか」と、窓越しに叫んだ声が、ガラスの小さな隙間を飛び越えて駐車場に反響した。
その反応を見て、宮島は小さく笑みを漏らしている。
こいつ、分かっててやってるのか。
不慣れな怒りが、一挙に押し寄せてくるのを感じていた。扉の取手をつかむ手が、つむぐ言葉を探す唇が震える。
「きっと今も、キミの帰りを待ってるんじゃないかな?」とその身を引いた宮島は、勢い車から飛び出した光洋にほくそ笑んでみせた。
◇
鍵を差し込むのももどかしく、どうにかして一刻も早く、と自宅の玄関をくぐると、室内は明かりもなく真っ暗だった。
「母さん?」と呼びかけるも返答はなく、家中の電気をつけて回り、それでも見つけられない。
残るは、気が進まず開けることのできなかった父の部屋のみ。しかし今はそうも言っていられない、と意を決してその扉を開くと──そこには、暗がりでカーテンの隙間から差す月明かりに照らされ、ぶつぶつとなにかをつぶやきながらうずくまる母親の姿があった。
「……母さん」
一歩踏み出すと、母の背が小さく跳ねる。
この人の背中は、こんなにも小さかっただろうか。
一瞬ためらったあと、そのとなりに膝をついて、丸まった背に触れようとしたとき。低く小さく繰り返されるその言葉を耳にして、光洋は伸ばしかけた手を止めた。
「……さい。……め、なさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
すうっと、光洋の中でなにかが引いていく。
すぐ真横へとやって来た息子に一瞥もくれることなく、彼女はただひたすらに謝りつづけている。その腕の中には、遺影と思しき黒いなにかを抱いて。
「だれに……なにに、謝ってるの」
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
こちらの声は、母の耳には届いてはいないようだった。
きっと彼女にとっては、今ここにある息子との時間よりも、過ぎ去った出来事の方が〝現実〟なのであろう、と。なかば無理矢理に飲ませた頓服の向精神薬が効いてくるまで、光洋はその表情を変えることなく母を見つめていた。
足もとをふらつかせる母を支えてベッドまで送り届けたあと、開け放たれたままの父の部屋の前に立ってみた。部屋じゅうに積もっていた埃は、引っ越してきたときに最低限の掃除だけ済ませている。それ以来、ここに足を踏み入れることはなかった。
壁にある電灯のスイッチに触れ、明るくなった室内を見回す。母が残していった父の遺影が、ぽつんと床に置かれていた。
息をひとつ吸って。吐いて。
踏み出した一歩がその部屋の床に触れると、昔勝手に入り込んで怒られた日の記憶がよみがえった。
寝室は両親一緒だったが、真夜中に帰ることも多かった父は家族を起こすまいと気を遣っていたのか、この場所で寝ることも多かった。さして広くはない部屋の片隅には、畳まれた布団と枕が未だ寂しげに鎮座している。
ひろい上げた遺影の向こうでは、厳格な警察官そのものという威厳に満ちた表情の父が、口を結んでいた。
そういえば、あのひとの朗らかな笑顔を目にすることはあまりなかった。いつもどこか距離を置いていて、けれども付かず離れず、光洋のことを気にかけている。そんな姿が印象的だった。
大学を出てキャリアとして道を歩んでほしかった、と父がこぼしたのは、いつだったか。
「少しでも早く夢を叶えたい」とその意に反したのを何度後悔したかはもはやおぼえていないが、今となってはすこしでも早くから同じ目線でいられたことは、かえって良かったのかもしれないと思う。あの背中を、亡くしてしまった今では。
持ち主亡き今、だれからも触れられることのない品々が静かに並んでいる光景に、息苦しさをおぼえる。いずれはこれらも、片付けなくてはならない。
おそるおそる、柔道の表彰状が飾られる父の書斎棚へと近づく。掃除をしたときから気づいてはいたが、その中の引き出しの一つには鍵がかかっていた。果たしてそれを開けても良いものだろうかと、迷った挙句にそのときは見なかったことにしたのだった。
軽く調べてみれば、なんてことはない簡素な鍵である。その気になれば、工具でも使って破壊することは容易であろうとうかがえた。それを分かっていてなお、実行に移す気になれなかった理由は……
『大人には、たとえ家族であっても知られたくない秘密があるものだ』と、光洋の深層意識に強く、色濃く、刻み込まれていたからだった。
己に置き換えてみたとて、それはたしかなものだ。すくなくとも父の存命中から怜士との関係をひた隠しにしている事実がある以上、それを差し置いて自分だけが父の秘密に触れようなどと、死者への冒涜のような気がしてならなかった。
……職務においては、被害者たちの秘密に触れることもあるというのに。
矛盾している。
そうと理解しつつもやはりそれ以上踏み込むだけの勇気は出ず、ため息だけを取り残して見ないふりをした。
お読み頂きありがとうございました!




