5話 煙に巻かれた蛇
人物補足
田之倉孝幸
光洋の父 享年56歳
警部補→殉職により二階級特進し警視
術科関連の教養に優れ、柔道が得意だった。
田之倉香穂里
光洋の母 54歳
退寮届を寮長に提出してから、2週間あまり。
届出を受領した寮長は「やっとか。お袋さんに孝行してやれよ」と笑顔で見送ってくれたが、光洋はそれに対して引きつった笑みを返すしかできなかった。
寮から運び出した荷物は、実家の車を使ってたった一度の往復のみですべて移動し終えてしまった。もとより最低限の家具、家電がそなえられたワンルームタイプの寮であったし、わざわざ持ち込みたいようなものが無かったからだ。
趣味らしい趣味も特になく、唯一それと言えるようなものは習慣としてつづけているランニングぐらいなものだ。光洋にとっては、現場で地道に事件や犯罪の痕跡を探ることこそが、趣味でもあり生きがいでもあった。
そして、その生きがいを取り戻すため。ゆがみを生じた家族と向き合うため。光洋は、およそ10年ぶりとなる実家の自室に立っていた。
田之倉家は、父が一括払いで購入した分譲マンションの8階にある。けっして新しくも豪奢でもないファミリーマンションだが、購入当時としては十二分に〝ぜいたくな買い物〟だったのだと、ときおり母が上機嫌な時に語っていた。
自室の窓を開け放つと、陽射しはすっかり春のそれだというのに、吹き込んでくる風は肌の上を冷たく撫でていく。
引っ越しは早々に終わったはずが、しばらくぶりに対面した自室の掃除に追われて、せっかくの非番もこれでは休むひまがなかった。
果たして母は、あれから一度も掃除に入ってはくれなかったのだろうか。地味とも言えるシンプルなデスクはすっかり埃をかぶっていて、周辺の本棚やタンスも同様だった。
最低限、玄関からリビング、キッチンなどの母が動き回る範囲は掃除されていたようだが、彼女が踏み入らないであろう場所に関しては完全に時が止まっていた。
「つかれた……」
ベッドに腰を下ろし、かたわらに置いたペットボトルの水に口をつける。
コップひとつ取っても母は〝自身が使うもの〟以外は放置していたらしく、すこしばかり不潔なものへの抵抗がある光洋は、それを使う気になれなかった。掃除が終わったら、食器類にも手をつける必要がある。
布団まわりはコインランドリーに押し込めてきたので、ベッドには新しく買ってきたマットレスが置かれているのみだった。ただし、その下のベッドは十数年前から変わらずここにあるものだ。
中学時代は身長が伸び悩んだものの、高校に入るととたんに急激な成長をみせ、当時使っていたベッドが手狭になった。
高校受験をひかえるころから諸々のストレスによる不眠が続いていたのもあり、それを不憫に思ったらしい父が「これで新しく買いなさい」と封筒に入った現金を渡してきた。当時は反抗期が抜けきらず、ぶっきらぼうに受け取ったきり「ありがとう」を言えなかったのを思い出すと、胸の奥がちくりと痛む。
自身の部屋だけでも、父との思い出がそこかしこに転がっていた。そのひとつひとつに触れるだけで、小さな針が確実に心のどこかに刺さっていく。こんなさまを見たら怜士などは「ファザコン」と嘲笑うのだろう。
不意にあの冷たい目を思い出して、なぜ今ここで彼のことが浮かぶのかと、光洋はかぶりを振った。
◇
「なんなんですか、話って。僕から話すことなんてありませんけど」
「あはは、守秘義務? まあまあ、ボクが一方的に話したいだけだからさ。キミはだまって聞いてくれりゃあいいのよ」
休日の、どこにでもあるチェーンのレストラン。太陽がてっぺんから傾き始めた頃合いの店内は、勉強をしている学生か、子連れのグループがちらほらと席を埋めている。
光洋はその片隅、いちばん奥の角に面した席で、見知らぬ男と対峙していた。
テーブルの上に差し出された名刺には〝週刊□□編集部・宮島克也〟と印刷されている。そのとなりには、起動を待つボイスレコーダーが鎮座していた。
もしかすると、知らぬうちにすでに録音は開始されているのかもしれない──と、疑いの目を向けてしまう。
宮島と名乗った男が光洋に声をかけてきたのは、自室の掃除をあらかた終え、近所のコインランドリーに布団を取りに行った帰りだった。
「キミのお父さんについて、ちょっと話したいことがある。キミが知らないこともボクは知ってるよ」と含み笑いを浮かべた男。
そこで無視を決め込んでしまってもよかった。しかし光洋は、
「……荷物を置いてきますから。少し待っていてください」と、その誘いに乗ったのだった。
それがまだ見ぬ父を認めようとする意思から出た判断だったのか、昏い好奇心から来るものなのか……自らの胸の内でもはっきりとした答えは得られないまま、今こうしてここに座っている。
手もとに置かれたアイスコーヒーをひと口飲むと、宮島が「じゃ、録音させてもらうよ」とレコーダーを持ち上げる。
「どうぞ」と返した声は、自分が思っていた以上に乾いて聞こえた。
「いやあ、キミが寮を出てくれて助かったよ。いくらボクでも警察の寮にまで押しかけるなんて真似はしたくないからね」
したくないのではなく〝できない〟のだろう、とよぎりつつ、光洋はなにも言わなかった。
あれだけ世間の注目を集めた事件の関係者なのだ、きっといつかどこかで取材をする機会をうかがっていたのであろうことは、容易に想像できた。セキュリティが厳重な寮を出たことで、記者の網に捕えられてしまったのだ、とも。
「キミはボクのことをただのうさん臭い記者だと思ってる。そうだろう?」
「……ノーコメントで」
実際、そう思っていたのだが、それをあっさりと認めることへの子供じみた抵抗があった。なんとなく、この男の手のひらの上では踊らされたくないと、そんな理由で。
ひょうひょうとした曲者……というと、彼の身近ではある男の顔がいやでも浮かぶのだが、目の前のこの男に関して言えばそれ以上に〝食えない〟という印象が強い。
鑑識課に所属する光洋は取調べの経験は無きにひとしいが、きっとそんな場において警察官が苦戦するのはこういう手合いだろう、という直感があった。
「あぁ、これじゃあまるでボクが取調べをしてるみたいだ。ねえ? 巡査長さん」
すうっと、うそ寒いものが首筋をなぞっていった。
皺の深い宮島の顔はたしかに人の良さそうな笑みを形作っているのだが、自身の中の──それは多分、ひとりの警察官としての警戒心が、アラートを鳴らしつづけている。
「あまり時間がないので。本題をどうぞ」
「うん、それもそうか。じゃあ、ちょっとボクのことを証明しておきたいんだけど……」
よれたグレーのジャケットに右手を突っ込んだ宮島は、その懐から一枚の写真を取り出した。同時に、染み付いたような煙草の匂いが鼻につく。
差し出された写真には、今よりもかなり年若い宮島と、派手な色あいの服を着た女性。そしてそのとなりには、グラスを片手にカメラに向かって豪快に笑う、記憶よりもずっと若々しい姿の父がいた。
「……父さん……?」
「そう。ボクとキミのお父さんはそこそこ長い付き合いがあってね。これを撮ったのはもうずいぶんと昔なんだけど」
ほら、と指し示されたそこには、確かに〝1992〟と印字されていた。光洋が生まれる5年前ということになる。つまり父は、このとき23歳のはずだ。
「田之倉……あぁ、お父さんのことね。あいつが28の時にキミが生まれたんだったかな? キミは今、28。追いついたってことだねえ」
懐かしむようにそう語る宮島に、そんなこともすべて把握しているのだと知らされたと理解し、唾を飲み下した。
この男はたしかに、父について知っている。
往来でそう声を掛けられたときには半信半疑だったが、深い皺の奥で弧を描く宮島の瞳に、言い知れぬ胸騒ぎをおぼえていた。
「このお店……スナックって言って通じるかな? ここでボクと田之倉は知り合ってね。お互いに家とか仕事の愚痴なんかこぼしちゃってさ……懐かしいなあ」
その言葉に込められた意味の数々に、なにも返すことができなかった。
たえず人格者であると思っていた父が、スナックに通っていたこと。
赤の他人に、愚痴をこぼしていた──それも、家族にまつわることを。そして、そんなことは無いと信じたかったが、警察内部のことも……?
たたみ掛けるよう突きつけられる情報の数々に、めまいがしそうだった。
なによりも、光洋にとって〝父の背中〟を大きく揺るがしたのは、
「家族の……? 母さんや僕への、不満……?」
とても、そんなことを言うような人には思えなかった。
警察官としては厳しい人であると常々聞かされてきたが、少なくともたまの平穏に家族で過ごしたあの時間には、嘘偽りなどないと思っていたのだ。
けれども一人の大人として考えれば、そう簡単に「有り得ない」などと言い切れないこともわかる。どんな聖人君子だとしても、その内側に積もり積もるものが無いとは言えないだろう。酒の勢いや、その場に合わせただけの可能性もある。
ただそれでも、たとえ嘘であったとしても、〝立派な警察官としての父〟という像だけはたしかなものであって欲しかった。
「あぁ、なんかショック受けちゃった? 大丈夫だよ、キミのことは『俺とちがって出来の良い息子だ。俺に似なくて良かった』っていつも自慢してたからさ」
宮島はソファの背もたれに身をあずけて、へらへらと笑っている。
その姿に、光洋は腹の奥でどす黒いものが湧き起こるのを感じていた。
なるべく表に出さないように、と両手で顔をおおい、深く大きなため息をひとつ吐く。
この男は、光洋からなにかを探ろうとしている。そのためなら、こちらの神経を逆撫ですることなど微塵も厭わないのだ。倫理観の軸が、そもそも光洋とはかけ離れている。
けっして同じ土俵には立つまいと、どうにか腹の奥底が落ち着いたのを自覚してから、再び宮島の顔を見やった。男はただひたすらに、光洋の様子を観察しているらしかった。
「おもしろいなぁ、さすが警察官ってとこかな? こりゃあ田之倉が自慢の息子だって語るのも当然だねぇ」
宮島の喉奥で笑う声が、耳障りだった。
いま口を開けば、なにを言うか分からない。公務員として、レコーダーに妙なことを残してしまうのは避けなくてはならない。
コーヒーを口に含み、何度も息を吸っては吐いて、ただし両の瞳ではその不躾な笑顔を睨め付けて。
これ以上この場にいても、なんの益もない。そう判断して無言で席を立とうとしたとき、宮島が不意に口を開いた。
「ところで、〝黒崎〟……って、知ってるよね? 光洋くん」
心臓が、強く跳ねた。
テーブルについた手のひらが、じっとりと湿り気を帯び始める。
今ここにないはずの、雨の匂いがよみがえる。
知らない。そんなものは。
「……知りません。僕はもう、失礼します」
自分でも、聞いたことのない声だった。
余分な額の金をテーブルに置き、「ふぅん、そうかあ。じゃあまた今度ね」と返した宮島に目もくれず、逃げるようにその場を後にした。
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