3話
窓から差し込む日差しはうす灰色の雲にさえぎられて、鈍く室内を照らしていた。
白い壁に囲まれたガラスを見やった光洋は、雨の前触れにじっと耳をそば立てている自分に気づいていた。すぐそこにある気配から、意識的に気をそらそうとしているのだ、とも。
「ごめんね光洋、お仕事忙しいでしょうに」
「……いや、別に。今日は非番だし」
背後からそっと、遠慮がちにかけられた細い声に、光洋は振り返りもせず答える。
母・香穂里とまともに顔を合わせたのは、父が亡くなってからは今日が初めてだった。
十数年前から、母は精神的な病をかかえている。ここしばらくはいくぶんか落ち着いていたようだが、父の死によって再び不調をきたし、数週間にわたって入院をしていた。
だから、彼女は夫の葬儀に立ち会っていない。不安定な母には、あの場の空気を受け止めるのはきっと荷が重すぎる。そう判断したのは自分だった。
「……これ、退院の時に処分していいの?」
「あぁ、そうね……好きにしてちょうだい」
だれが持ってきたのか知らないが、病室にはソープフラワーが入ったプレゼントボックスが置かれていた。そこには〝M〟と一文字だけが書かれた、小さなカードも添えられている。
昔から花が好きな母にはじゅうぶん似つかわしい品だが、本来ならばかぐわしい香りがするはずのそれは、光洋にはほとんどなにも感じられなかった。それ以上に、病院特有の消毒液かなにかの匂いの方が鼻について、ここに存在するべきではないような気さえしてくる。
──それが自分自身か、作り物の花かは、どちらでも良かった。
「退院の日は、迎えに来るから……母さんも自分でできる範囲で荷物まとめといてくれよ」
あまり長居をしたいとは思えず、そっけなく言い放って書類の入った封筒をかかえたまま振り向いた。真っ白なベッドに半身を起こして座る母は、穏やかな笑みをたたえている。
いつも見ていた、〝母親の顔〟。
警察学校に入校して以来ほとんど実家に寄りつくことがなく、実に数年ぶりに目にした顔だった。
光洋は、彼女のその表情が苦手だった。
幼いころは、間違いなく母性を感じていたのだ。けっして裏切らない、絶対的な愛がそこにあるのだと、幼いなりの本能で。
その眼差しが本当は、どこか別のところへと向けられているのでは──そう気づいてしまったとき。その疑念が、確信へと変わったとき。彼の中で、なにかが音を立てて崩れていった。
「ねぇ光洋……そろそろ家に戻ってこない?」
請い願うようなその言葉に、一瞬重なり合いそうになった視線をほんの少し下げた。
あともうしばらくも経てば、光洋は28歳になる。いま現在は警察の独身寮に身を置いているが、寮長からは「次世代のために」と退寮を迫られている。
機を逃して巡査部長への昇任試験には挑んでいなかったものの、年齢的にもキャリア的にも、いつまでも寮暮らしに甘んじていられないのはたしかだった。
「……お母さん、一人はいやなのよ……」
聞こえるか聞こえないかというほどのつぶやきがどうにも白々しく、演技じみて聞こえる。
普通なら、子供の方から率先して同居を申し出るのだろうか。
父さんだって、忙しくてほとんど家にいなかったのに、今さらなにを。
母を思う気持ちと反発心との二律背反に、すぐさま答えを出すことはできなかった。胸の前で握り締めた白い封筒が、がさりと悲鳴を上げる。
「……今日はもう、帰るから」
たしかな答えを出せない我が子に対し、母はそれを咎めるでもなく、急かすでもなく。ただ静かに「そう」と微笑む彼女に背を向けて、光洋は病室をあとにした。
◇
父が非業の死を遂げてから、およそ1ヶ月あまりが経とうとしている。
鑑識と科捜研は日ごろ舞い込んでくる鑑定と、ヤタガラス事件の鑑定との並走に追われていた。
いっこうに減らない仕事を抱え、このところ早朝から出勤していた光洋は、忙しさを理由にして母との対話をないがしろに──あるいは、無視をしていた折でもあり。いっそのこと、このままずっと鑑識作業に追われていられたらいいのに、などと思い始めていた。
父の死と、母との軋轢……いつまで、逃げつづけるのだろう。
向き合わねばならないことは重々承知しつつも、心のどこかで言い訳を探してしまう自分がいた。
そうして目の前、パソコンの液晶画面にもまた、さながら『現実から逃げるな』と言わんばかりの無慈悲な──ヤタガラス事件にまつわる証拠品の数々が映し出されている。
ヤタガラスこと安斉は、発覚しているだけでも4人を殺害している。そのすべてが風俗店に勤務する女性であり、いずれも生前に安斉の接客をしていた。その際に、女性たちに対し自らを〝ヤタガラス〟と名乗っていたらしいことが判明している。
神聖な存在の名を借りた男の犯行において、もっとも特徴的であったのが──
「例の口紅って、やっぱり判別できてないんですよね」
濃紺の現場鑑識作業服に白衣を羽織った小さな背中が、黒焦げの金属片と写真とを見比べてそう言った。
同じく白衣に身を包んだ光洋は、背を丸めて難しそうな顔をしている佐伯を振り向く。二人に挟まれた白い机には、さまざまな証拠品が並べられていた。
「うーん……そこまで焼けてたらさすがに難しいんじゃないかな……」
手袋に包まれた、佐伯の手の中。おそらく元は口紅であったであろうその物体はすっかり中身が溶け、赤い顔料を包んでいたはずの金属は、真っ黒に変色してしまっていた。回収したばかりのときよりはいくらかマシになっていたが、顔を近づけると溶け落ちた顔料のなんとも言えない匂いが鼻を刺す。
佐伯の目の前には、うす暗い路地の壁に描かれた、赤色の模様の写真が数枚並べられている。鳥の足あとのようにも見えるそれが、毎回安斉が犯行現場に残していたシンボルであった。
それは被害者女性から奪い取った口紅によって描かれたものであり、安斉は隠れ家に被害者たちの〝口紅コレクション〟を隠し持っていたようだった。
「現場から採取した成分は、科捜研で分析してもらってるんでしたよね? これだけ焼けてるのに、どれが同じものかなんて断定できるんですかねぇ」
「どこのブランドか、どの色か、っていう結果はたしかに出てたね。僕にはなんだかさっぱり分からない名前だったけど」
苦笑してそう話す光洋に、ちらと目線を上げた佐伯は
「田之倉先輩、彼女にプレゼントとかしないんですか?」と、吊り上がる口もとを隠しもせずに問いかける。
下まぶたが小さく引きつるのを感じ、極力わざとらしくならないよう、彼女に背を向けた。
「とりあえず、それも科捜研に送った方がいいだろうね」
「あ、もしかして今はぐらかしました?」
甲高い声がつづけざまに問うてくるも、光洋は聞こえないふりをして手もとに視線を落とした。
膨大な写真と、ずらりと並ぶ文字列。最後の現場となったガレージの写真だけは、佐伯が「私の仕事です」と横から奪い取っていった。
後輩にまで気遣われる自分が情けなく、本当にこのままでいいのだろうか、と。
ため息を噛み殺し、「ちょっとこれ保管室に置いてくるね」と証拠品保存袋を手に立ち上がったそのとき、通信司令課からの入電が鳴り響いた。
『F区繁華街裏通りにて、変死体発見の通報あり。現場の住所はF区◯◯町△番街。近隣の捜査員は確認のためただちに現場へ急行せよ。繰り返す──』
無線の内容に、心臓が不吉な拍動を刻み始める。
通常、死体が発見されたときにはその状態によって呼称が使い分けられる。今回のように〝変死体〟と呼ばれたのなら、それはすなわち初動の段階で『事件性の疑いがある』と判断されたことを意味する。
通報の時点で司令課がその言葉を選択したということは、ひと目にそれと分かる不審な点──争いの痕跡や、あきらかな外傷が残されていた、ということだろう。
どうか、電話が鳴りませんように。
保存袋を胸の前にかかえたまま、光洋はその身を強張らせていた。分析室の外からは、とり立てて普段と変わった様子は感じられない。
杞憂に終わったのだ、と胸を撫で下ろした時、廊下の向こうから「田之倉ー!」と己の名を呼ぶ声が聞こえた。
やはり、予感は当たっていた。
◇
鑑識課主任・今野亮輔を中心に、津留崎誠治、佐伯ひかる、そして光洋。4名のチームが、通報のあった現場へと臨場した。
空には厚い雲がかかり、おのおのの雨衣にばたばたと絶え間なくしずくを落としている。
県警本部の鑑識課に出動要請が入るのは、通常ではめずらしい。事故や事件が同時発生してどうしても鑑識の手が足りないようなときであったとしても、そうあることではなかった。ただ、重大事件が発生したとあれば、話は異なる。
規制線の黄色いテープの前、立哨していた制服姿の警察官は、光洋の顔を見るなり眉を跳ね上げた。なぜそんな顔を、と奇妙に感じた矢先、路地の向こうから壮年の鑑識係がやって来るのが目に入った。
「おいおい、なんでお前がここにいるんだ、田之倉のせがれ」
「……お疲れ様です、滝山班長」
苦手な人が来た、と光洋は身構えた。
滝山の背後では、〝B県警〟の文字を背負った現場鑑識作業服に雨衣を重ねた、機鑑隊の面々が動き回っている。
機動鑑識隊──通称・機鑑隊。24時間体制でだれよりも早く事件現場に駆けつけ、迅速に現場を保存、鑑定する部隊のことを指す。
中でもこの滝山班長とは、〝ヤタガラス事件〟のときからしばしば顔を合わせる間柄であった。
機鑑隊はその特性上、刑事課の人間との接点が多い。滝山は光洋の父とも長い付き合いがあるらしく、あまり良好とは言いがたい関係だった、と小耳に挟んだことがあった。その理由までは光洋には知らされていないものの、どういうわけか厳しく当たってくる滝山に対し、苦手意識を持つなという方が無理からぬ話である。
「通報では〝変死体〟とありましたけど、コロシの線が濃厚ですか?」
「おおかた間違いないだろう。いましがた、所轄に検視官の臨場を要請したところだ」
半歩前に出た今野主任が、滝山に現場の状況を尋ねた。
いち早く臨場したであろう機鑑隊は、すでに規制線の奥へと向かう道筋を確保している。周辺には機動捜査隊の姿も散見された。
まず初めに臨場した鑑識係──それが機鑑隊か、所轄の署員かはそのとき次第だ──が現場に残された下足痕を採取し終わるまで、ほかの捜査員が足を踏み入れることは許されない。
「この雨ですし、ろくな証拠も取れなかったんじゃないですか」
両腕と頭に白いカバーを装着しながら、今野は忌々しげに空をあおぐ。その背中を見ながら同様にビニールカバーをつける光洋は、滝山の鋭い視線が一瞬、こちらを捉えたことに気がついていた。
「それはまぁ、たしかにそうなんだが……」
「では我々も行こうか」
鑑識道具を抱え、前進する一同。すると滝山はいちだんと眉間に深い皺を寄せ、にわかに光洋の肩をつかんだ。
怪訝に思い振り返る光洋に、男は低く、激しい雨にたやすくかき消されてしまいそうな声で。
「やめておけ」
「……なんですか?」
「悪いことは言わない。お前は、行くな」
押し殺した声音に立ち止まった後ろを、佐伯たちが通り抜けていく。
滝山の真剣な眼差しの横を雨粒が流れ落ちたとき、路地の奥から同僚たちのざわめく気配を感じた。
「──失礼します」
しかとつかんでいたその手を振りほどき、後方からの「おい!」という呼びかけも雨の向こうに取り残して、現場へと足早に向かう。首から下げた一眼レフを片手で支え、立ち尽くしている係員の中へと分け入った。
やってきた光洋に気づいた同僚たちは、一斉に彼へと視線を注ぐ。そのだれもが、水を打ったように静かで。
……その沈黙の意味するところは、火を見るよりあきらかであった。
「……こ、れは……」
赤。
打ちっぱなしのコンクリート壁に走る、赤色の四本線。
さながら鳥の足あとのようなそれは、ヤタガラスこと安斉道典の残していたシンボルに、酷似していた。
お読み頂きありがとうございました!
警察用語にはカタカナでルビを振っています。
県警本部の鑑識課のメインキャラクターは階級順に
警視・堀尾柚月
警部補・今野亮輔
巡査部長・津留崎誠治
巡査長・田之倉光洋
巡査・佐伯ひかる
……となります。




