19話 弾けとぶ花弁
そう遠くないところで、木々のこすれ合う音が風を告げていた。
湿り気をまとうそれが焼けた屋根と壁を揺すり、ぎしぎしときしみを上げる。
ガレージに置き忘れられたビニールシートに腰を下ろした怜士と、地を這ったまま唇を戦慄かせる光洋。その目はどこを見つめるでもなくただ見開かれ、視界におさめた怜士の姿もどこかぼやけていた。
淡々と、それでいて内には燃え盛る激情を秘めながら──いつになく冷静さを欠いた様子の怜士から語られた、想像だにしなかった彼の人生と、父の真実。
光洋の頭の中では、信じがたい可能性が浮かび上がって……それは向かい合う男の話が終わるまでずっと、破裂しそうな心臓の表面にするどく爪を立てていた。まばたきを忘れた瞳は、きっと血走って乾いている。
怜士に問いたいはずなのに、早く浅い呼吸の奥で、その言葉が声になるのを拒む。
疑問が、疑念が、喉に詰まる。
「……お前から、なにか言いたいことがあるんじゃないのか」
こちらの状態を察したのか、風に吹き消されてしまいそうなほど小さく低い声が、投げかけられる。彼の眼差しは、触れずとも切れてしまいそうなほど鋭利だった。
いつかのように過呼吸を起こすのでは、と思わせるような息に肩を上下させながら、はくはくとして定まらない口を、どうにか意思の元に置いて。
「お、おまえと、僕は……き、きょうだい、なのか……」
しぼり出した音は、みじめなほど上擦っていた。
怜士の話を信じるならば、彼と自分とは〝腹ちがいのきょうだい〟なのではないか。それなのに、およそ他人には口外できない関係を結んで、あまつさえ自分は彼のことを──
そうとまで思い至った光洋に反し、怜士は意外なほどおだやかな表情のままにふん、と鼻を鳴らした。
「今の話だけを聞いたら、そう思っても不思議じゃないな」
「……それは、どういう……」
べったりと汗で貼り付いた髪を払うこともできず、額と頬の不快感が緊張に混じり合おうとする。
けれども視線をそらしてなるものか、と無理矢理に自身をふるい立たせんと気を張る光洋の耳に、想定外の言葉が鮮明に突き刺さった。
「──黒崎洋一、と言ったか」
さっきまで風にざわめいていた木々の葉擦れが、不自然なまでにしいん、と止んだ。
なぜ、怜士がその名を知っている。
なぜ、今ここでその名が出てくる。
声帯を揺らす呼吸が甲高く音を鳴らし、背に回された腕の先でがたがたと戦慄が走る。
血の気が引いていくこちらを見ておもむろに立ち上がった怜士は、先ほどまでとは打って変わり、そっと肩に触れてきた。
小さく「落ち着け」とつぶやいた彼の手は、怖いくらい優しく背を撫でさすってきて。
「……俺が高校生のとき、宮島がやってきた。母に線香をあげたいと抜かして。そしてそのとき、どこまで本気か知らないが──俺と母に詫びたいとかいう理由で、色々聞かされた。田之倉孝幸が警察官であること。そして、お前という大事に可愛がっている息子がいることを」
◇
宮島は、あいつなりに母の死に対しての負い目を感じていたらしかった。だから、遺された俺のことも、ずっと追いかけていたんだろう。そして、田之倉孝幸の息子であるお前のことも。
──学校帰りを待ち伏せていた宮島にお前のことを聞かされたとき、俺の境遇とはあまりにかけ離れた生活を思ってどうしようもなく腹が立った。
両親がいて、金に苦労することなく、安泰した生活……。
だから俺は、あの男の息子がどんなやつなのかを見に行ってやろうと思った。宮島を軽くつつけば、口の軽いあいつはあっさりお前に関する情報を明かしたからな。
B市の私立中学だろ? 通ってる学校も使ってる電車も、ぜんぶ教えてくれたよ。ご丁寧に写真まで。
あれはたしか、テスト期間で終業が早かった日だ。
お前がいつも使う駅に行けば、夕方までには現れるだろう。そう思って駅の待合室で本を読んでいた。
あの日は凄まじい土砂降りだったな。制服の裾がぐっしょり濡れて、肌に触れる感触が気持ち悪かったのをよく覚えてる。
お前は思いのほか早く現れた。中学も試験の時期だったんだろ? 昼過ぎに反対側のホームにやって来たお前を見つけたとき、俺は食い入るように見て……いや、睨んでいた。
雨で電車が遅延して、混み合うホーム。なぜかお前は、そこに並ぶ人ごみの中に釘づけになっていた。
あのときも、すぐにでもぶっ倒れそうな形相だった。今のお前と同じ顔だよ。
……俺の言っている意味がわかるか?
あの日、あの瞬間、俺は見ていたんだよ。
お前が、黒崎洋一を──
◇
「ちがう!」
とっさに飛び出した叫びは、裏返りながらもガレージの壁に反射していった。
背後では、ガチャガチャと耳障りな金属音が鳴り止まない。
見上げた怜士は、ただ無表情でこちらを見つめていた。
「ちがう……ちがうんだ。あれは、僕じゃない……!」
「……そうかもな。でも、そうじゃないかもしれない。ただ最終的には事故として処理された。そうだろ?」
「……調べた、のか……」
不意に、肩を抱き起こされる。冷徹なようで優しげでもある怜士の目には、顔面蒼白の自身が映し出されていた。汗に濡れた髪と、怯える瞳。
14年前のあの日と、変わらない顔。
◇
──母さんの浮気に気づいたのは、中学に上がってすぐのころだった。
僕は母さんのすすめで、中学受験前から塾へ通っていた。その中で数学のクラスを担当していたのが、黒崎洋一だった。
はじめのうちは、なにも気にしていなかった。ただ入塾前の面談で母さんと話すあの人はずっとふわふわした笑みを浮かべていて、母さんも家で見るよりなんだかおだやかで、嬉しそうで……。
母さんと黒崎の距離が妙に近いな、という違和感はあった。
特に母さんの様子がまるで少女のような、はずんでいるような。そんなふうに機嫌が良くなった彼女の口から聞かされたのが、二人は高校時代の同級生だったという話だ。
あぁ、だからか。そうは思ってもどうにも納得しきれないものはたしかにあって、たまの面談でやたらと黒崎に手を触れる母さんになんとなく「気持ち悪いな」と思っていた。
父さんは、まともに家に帰ってくることはほとんどなかった。だから夜は母さんと僕、二人きりでいることが当たり前だった。
……あれは、急激な冷え込みに目が覚めた夜。暖房をつけようかと起きたとき、リビングからなにかが聞こえた。
父さんが帰ってきたのか。そう思ってリビングに通じる扉をうすく開いた僕の目に飛び込んできたのは、母さんと黒崎が裸で抱き合っている姿だった。
吐きそうなのをどうにかおさえて、僕は布団に潜りこんだ。あの日から僕は、母さんへの嫌悪感がずっとぬぐえない。
僕が二人の関係に気づいていることは、だれにも言わなかった。もちろん、父さんにも。
僕の告発によって家庭が壊れたら、父さんの仕事にも悪影響があるかもしれない……そんなことを考えていた。
父さんには、最後まで立派な警察官であってほしい。そう思っていたから。
でも、黒崎のことは許せなかった。勝手に僕の家族のあいだに入り込んできて、母さんと一緒に父さんを裏切るようなことをして……。
かと言って、僕になにができるかなんて、思いつかなかった。
どうにかして穏便に、母さんとの関係を終わらせてくれたら……そう願いながら、時間だけが過ぎていった。
そうしてあの日……土砂降りの、駅のホーム。
なかなかやってこない電車に痺れをきらして辺りを見回す僕の目に、黒崎の姿が飛び込んできた。
心音がうるさかった。目が離せなかった。
だからって、変な気を起こしたわけじゃない。ただ、「母と会うのをやめてくれませんか」と言えたら、なにかが変わってくれるんじゃないか、と……。
小さな望みを胸に足を踏み出した僕は、けれどもその言葉を口にすることができなかった。
このまま見なかったことにして、隠れてしまおうかと思ったとき、
「……あれ? 光洋くん?」
僕に気づいたらしい黒崎が声をかけてきて、もはや無視することはできなくなってしまった。
「偶然だね、今から帰るところ?」とにこやかに話す黒崎に、僕はどんな顔を向けていたんだろう。うまく動かない口でどうにか
「あ、は、はい。僕は、むこうから乗るので……」とそっけなく返して背を向けたうしろから、電車の通過をしらせるベルとアナウンスが聞こえて。
……定期入れを、落としただけなんだ。慌てて黒崎から離れようと、ただそれだけしか考えてなかったんだ。
「おーい、落としたよ」
声が聞こえて振り向くと、前かがみになって定期入れを拾おうとする黒崎。そのすぐうしろから、人混みをかき分けながら走ってきた人が、大きなリュックごと黒崎にぶつかって。
降りしきる雨の中、高速で向かってくる電車。その目の前に突き飛ばされた黒崎は、にぶい衝撃音とともに砕け散った。
一瞬の静寂ののち、小さなホームは地獄絵図と化した。
雨に混じってコンクリートの地面に飛散してきた、赤黒い肉片。利用客はみんなパニックになって、そこかしこから悲鳴が聞こえてきた。
僕は雨か血かも分からないもので濡れた地面にへたり込んで、逃げ惑う利用客の喧騒と、飛び交う駅員たちの叫び声を呆然としながら聞いていた。声も出なかった。
僕が、黒崎を殺したも同然じゃないか。
あのとき、前に出なければ。声をかけられなければ。定期入れを、落とさなければ……。
気づいたときには泣きながら駅をあとにして、最寄りのバスで自宅へと向かっていた。
翌日、警察から連絡があった。血まみれの定期入れが線路に落ちていたのだから、当然だろう。
僕は呼び出された警察署で前日の出来事を正直にそのまま伝えたが、責められることはなかった。むしろ「大変な場面に出くわしてしまったね」と慰められて、それが逆につらかった。
僕に同伴してきた母さんは、魂が抜けたように真っ白な顔をしていた。それはきっと黒崎が死んでしまったからで、その日以来彼女は精神を病んでいる。
父さんも事件のことは把握していたが、母さんの様子については〝息子が非常にショッキングなものを見てしまったから〟心配性な彼女は病んでしまったのだと、そういう解釈をされていた。
真実を伝えるべきかと、ずっと悩んでいた。
高校受験も目前だというのに僕までもが病んでしまいそうで、眠れない夜がつづいた。
それでもなんとか志望校に合格し、望みどおりに警察学校に入校し……以降はすべてが順調なはずだった。
父さんが、殉職するまでは……。
◇
「俺は見ていた。お前と黒崎がなにかを話して、お前が落としたものを──」
「やめろ、やめてくれ。思い出したくない……!」
鑑識として〝人の死〟に慣れた今であっても、あの日の記憶は光洋の胸の内を深く侵し、広がりつづけている。
忘れたいのに、忘れられない。忘れさせてくれない。
宮島といい、怜士といい、どうして……。
涙とともに苦いような、酸っぱいようなものが込み上げそうになって。そのとき、すぐ目の前で光洋を見つめていた怜士の口が、ゆっくりと弧を描くのに気づいた。
忌まわしい記憶にもがき苦しむ姿を見て、せせら笑おうというのか。いつものように。
嘲りたければ嘲ればいい。そう思って目をそらしたそばから顎をぐいとつかまれ、無理矢理に前へと向けられる。
「俺とお前は、双子のオイディプスなんだよ」
「……な、……どういう、意味……」
「……すこし前に、入院中の田之倉香穂里に会いに行った。黒崎洋一のことについて訊きたくてな」
怜士はうすく微笑んだまま、そう告げて。
間近で見下ろすその鼻梁に差す影は、数分前よりもいくぶんか濃さを増している。
「おかしいと思わなかったか? 田之倉孝幸も、周囲の人間も、お前たちを『似てない』と言っていただろう。武闘派の父親に反して、頭脳派のお前。その癖毛は、だれに似た?」
埃っぽい空気に、雨の匂いが混じる。
遠かったはずの雷鳴が、すぐそこにまで迫りきている。
「お前の母親は、ずっと隠しつづけていた。そして夫亡き今、だれでもいいから本当のことを言いたくて……『私の真実の愛をだれかに知ってほしい』と、それはそれは嬉しそうに語っていた。宮島も、あの女から情報を得ていたはずだ」
「……なにを、言っている……?」
そんな、睦言みたいにやさしい声色で。
恋人にするかのような、あたたかい眼差しで。
「──お前の本当の父親は、黒崎洋一だ」
どうしてそんな、むごい真実を語れるというのか。




