18話 真っ赤な花火
1万字の独白です。お付き合い頂ければ幸い。
1994年1月20日。
半井智美が俺を産んだ日。俺が、半井怜士として生を受けた日。
……彼女は、未婚の母だった。
物心ついたときには、俺は母の勤め先であるスナックで夜を過ごすことが日常になっていた。店主をはじめ、他のスタッフも客も、子どもがそんな夜の店にいることを責めなかった。母の人徳があってのことだろう。
実際、店主の右腕として働く彼女には数多くの固定客がついていたようだし、店主も母のことを信頼していた。
いつも見る常連客の中に、田之倉孝幸と宮島克也はいた。
あいつらは他の客とは違って、俺のことを疎みこそすれ可愛がるなんてことはしなかった。ただいつもの席でいつもの酒を飲んで、スタッフたちにくだを巻く。煙草臭くて嫌いだった。
小学生になると、なぜ俺には父親がいないのかと疑問に思い始めた。
授業参観も、運動会も、発表会も。みんながみんなではないが、大きな行事には父親が出てくる。同級生たちは、それを誇るように視線を送る。
ただ、父親がいなくても困ったことはなかったから、それを母に尋ねたこともなかった。
状況が変わり始めたのは、高学年になってからだ。
いったいどこから聞きおよんだのか、一部の生徒が
「お前んち、母親しかいないんだろ」
「父親に捨てられたのか」
そう、はやし立てるようになった。
ケンカっ早くて腕っぷしの強かった俺は、そいつらを殴り飛ばして母に迷惑をかけた。
昼間はなるべく寝ていたいはずなのに、学校から呼び出されて頭を下げる母……悪いのは向こうだっていうのに。なぜ俺が怒られなきゃいけないのかと、無理矢理下げさせられた頭には不満だけが残った。
そうして俺は、初めて母に疑問をぶつけた。
「どうしてうちには父親がいないんだよ」
多分、半泣きでそう訊いたと思う。訊かれた母も、泣きそうな顔をしていた。
「ごめんね、お母さんがいけないの」
質問への答えになっていなかった。
彼女のその言葉の意味は、10歳そこそこの俺には理解できなかった。
◇
同級生を殴ったあとから、どこからか母の仕事についてもほかの保護者たちに知れ渡ったようだった。
ますます俺は「あの子と関わっちゃいけません」と言われる子どもになり、孤立していった。
母は夕方ごろから開店準備に出てしまうし、俺の家がある古びた団地には遊ぶ場所もない。学校が終わるとひとりで公園、図書館に入りびたることが増えた。
うす暗くなった公園でひとり過ごしていると、近所の交番の警察官が話しかけてきた。
「きみ、そろそろ帰らないとお母さんが心配するよ」
あの人の名前は今も知らない。思い返すと、階級は巡査だった気がする。
ざっくりと身の上を話すとあの人は「そうかあ」とつぶやいて、
「じゃあ、お母さんのお店まで送ってあげようか」
夜の繁華街に子どもだけで行かせるよりは、と思ったんだろう。俺はその提案をことわって、家に帰った。
それから、図書館で借りてきた本を公園で読んでいると、たびたびあの巡査が話しかけてくるようになった。それが純粋に心配していたからなのか、職務としてなのか……今となってはわからない。
ただ、あの人と話す時間はいやじゃなかった。むしろ、あの人と話したくて公園で待っていた。そんな気がする。
巡査は、母の仕事を否定しなかった。
「色んな事情があってその仕事をしているんだろ。きみを育てるために頑張ってるお母さん、立派だと思うよ」
初めて母を肯定する大人に会えて、嬉しかった。
俺が警察官を志したのは、間違いなくあの人の影響だ。市民に寄り添って親身になってくれる、正義の味方。正義の象徴。
特別にかっこいいことなんかなにもしていないはずなのに、テレビで観るヒーローよりもずっと、俺にとっての〝ヒーロー〟だった。
◇
巡査と話すようになってすこし経ったころ、家に帰ると見覚えのない靴が玄関にあった。
その日は母は休みで、久しぶりに一緒に夕飯を食べられる、と喜んで帰宅した俺を出迎えたのは、
「よぉ、レイジくん」
みっともなく泥酔した男。田之倉孝幸だった。
あいつは俺の名前をずっと〝レイジ〟だと勘違いしていた。
それもそうだ、スナックで見たときも、俺の家で見たときもあいつはいつも酔っていた。まともな状態じゃなかったんだ。
せまいキッチンで夕飯を作っていたはずの母は、顔にアザを作って「おかえり」と小さく笑った。皿の上に並んだ料理は、大半が食いさしだった。あいつが食ってしまったらしいことは、すぐにわかった。
それからが、地獄のはじまりだった。
あの男は、ヒマさえあれば母のところにやって来る。
たまに用があって俺からスナックに顔を出せば、いつもの席に。昼間でも向こうさえ時間があれば、母が寝ているのもお構いなしに俺の家に。
シラフなら、そして人の目がある店の中ならまだよかった。だがあいつは、俺の家に来て酒を飲む。そして泥酔すると母を殴る。
……店であいつと、宮島が話しているのを聞いたことがある。
「うちの嫁はいいとこのお嬢さんでさ、神経質なのが困るんだよな……家にいてもちっとも休んだ気がしやしない」
「酒も煙草も目くじら立てるんだろ? よくもまぁ、良いパパを演じてられるもんだよ」
「あぁ、息子は可愛いんだ、息子は……」
自分の家で発散できないストレスから外で酒に逃げて、俺の母へ暴力を振るっていたってわけだ。ただのクズ野郎なんだよ、あいつは。
顔はもちろん、身体のいたるところにアザを作って出勤する母を、店の連中が見ていないわけがない。そしてきっと、あの男との関係にもうすうす気づいていたはずだ。それなのに、だれも彼女に手を差し伸べなかった。
……じゃあ、俺はどうだったのかって話だな。
だれかに助けを求めなければ。そう思って相談したのはあの巡査だった。
「……お店のお客さんが、お母さんに暴力を振るってるってこと?」
ほかのだれに頼ればいいのかも分からず、「悪いことをした人は警察に捕まる」という子どもなりの浅い知識をもとに、夕方の交番に駆け込んだ。
巡査と、もうひとり交番の中にいた警察官は、困ったように顔を見合わせていた。
なぜだろうな。〝ちょっと問題のある家庭の子どもが、妙なことを言ってきた〟ぐらいの認識だったんだろうか。……夜の仕事をしている女なら、そういうこともあるなんて思われたんだろうか。
「おまわりさんたちで、やれることはやるから。今日はもう遅いから帰りなさい」
そう言われて、細かな聴取もなく帰された。
結局、まともに取り合ってもらえなかったんだ。
そのとき、俺の中の〝正義〟が揺らいだ。
◇
中学生になっても、あのクズは変わらず店に、そして俺の家に来ていた。
そんな歳にもなれば、俺の方から抵抗することもできたかもしれない。だがお前も知ってのとおり、あいつは腕が立つ。
柔道の団体戦も入賞してたな? あぁ、あの写真は俺が切り刻んだんだよ。
……ガキだった俺でも、こいつには敵わないってことは理解できた。だから、自分が正義の側に立って裁くんだと、そう決意した。あてにならない巡査への失意もあって、以来〝俺なりの正義を貫いて母を助ける〟という一心で。
あのころの俺は、まさかあのクズが警察官だなんて思いもしなかった。
スナックにいても、それを公言することはなかったはずだ。場所が場所だから、変に警戒されることを避けたんじゃないか、と思う。真相は知らない。
思春期の俺は、あれだけ暴力を受けながら警察にも頼らない、ほかのだれかに助けを求めようともしない母を不憫に思うと同時に、半ばあきれる気持ちもあった。
彼女を「助けたい」という気持ちと、「なぜ」という疑問との板挟み。
複雑で多感な時期だったのもあって、頭も心もずっとぐちゃぐちゃだった。なにが正しくてなにが悪なのかも、分からなくなっていた。
……だから、15歳の誕生日。「好きな本を買いなさい」と言って渡された図書券に、素直に「ありがとう」と言えなかったんだ。
その手は骨が浮かぶほどガリガリにやせ細って、目もとには隈を作って。
綺麗だったはずの母の面影は、すっかり消えてしまっていて……。
あの男さえ入り込んでこなければ、こんなことにはならなかったのに。そう思いながら、ひったくるように図書券を受け取った。
その九日後、母は死んだ。
もう分かっているだろう。宮島に教えられたその日を。
あの日、俺は受験先の高校について担任と話していた。まさしく高校受験をひかえている、ちょうどそんな時期だった。
「高校に通うぐらいのお金はあるから安心して」
日ごろからそう言っていた母の顔は、よくおぼえている。
店に出ているときとはちがって化粧っ気もなく、うすい唇で力なく笑う……。
真冬の夕方、止む気配のない雨の中、俺は家に向かって歩いていた。その数年前に買ってもらった黒いマフラーを巻いて、骨が折れたビニール傘をさして。
あのころすでに、団地の住人は激減していた。だからほとんどが空室で、まして冬の雨の中……周辺を出歩く人間は、俺以外には見あたらなかった。
透明なビニール傘の向こう、視線を上げた先には俺の家があった。たいして広くもないベランダ。そこに、黒い人影が見えた。
母がこんな時間に、こんな天気の中ベランダに出る理由などないはずで、なにをしているのかと立ち止まった。
傘を叩く雨音に混じって、うっすらと聞こえる怒声。室内から差す蛍光灯をうしろにして、ふたつの影が揉み合っていた。
また、あいつが来ているのか。そう思って視線をそらした俺の耳に、にぶい衝撃音が響いた。
すぐそこから聞こえたその音に顔を上げると、生き物としてあり得ない方向に腕を曲げて、頭から血を流した母の姿があった。
人間は本当に恐怖したとき、声も出ないんだよな。
俺は腰が抜けて、その場に崩れ落ちた。全身が雨でびしょ濡れになって、視線は〝母だったもの〟に釘づけで……雨とともに血が流れてくるのに気づいて、吐いた。
それから、どうやって通報したのか……今となってはあまり覚えていない。ただ、雨と涙と吐瀉物とで不快なまま自宅へと走って行ったときには、もうあの男の姿はなかった。
そのあとは、お前も事件のデータを見て知っているだろ。
いくら俺が「母は殺された」と主張しても、警察は取り合ってくれなかった。「証拠不十分だから」と言って。
あのクズは、警察がどこを見て、なにを調べるのかを熟知している。だから自分が疑われる可能性を、徹底的につぶしたんだろう。
俺もあいつにまつわることは苗字ぐらいしか知らなかったから、「スナックの客」としか伝えられなかった。
結局、ろくに捜査もしてもらえないまま母の葬儀が終わった。もしかすると、裏であのクズが捜査に手を加えていたのかもしれない。
◇
母の葬儀で、初めて俺は母の姉──伯母とその夫、長女と顔を合わせた。
「水商売なんかしてるからろくな死に方をしないんだ」
「まったく、いったいどこの男と子どもなんて作ったんだか……」
そんなふうに母を悪く言う大人たちを見て、のちに義姉となる長女も笑っていた。
腫れ物扱いをするなら養護施設に入れるという選択肢もあっただろうに、なぜ俺を養子にすると判断したのかはよく分からない。どうせ世間体とかくだらない理由だろう。
失意の中でどうにか高校受験だけは終えて、入学前に俺は『西原怜士』になった。
最低限の衣食住があるだけでも、伯母たちには感謝すべきなのだと思う。
ただ、俺が警察官を目指していると知ると「あとで返すように」と言って収支の明細を見せてきた。無表情で「わかりました」と言って以来、金のやり取り以外で伯母夫婦と会話したことはほとんどない。
俺の住んでいた団地は、数棟を残して取り壊された。幸い母と過ごした部屋はその対象とならないと聞いたから、自分で収入を得られるようになるまではと伯父に頼み込んで、借りたままにしていた。
いずれ、俺がひとり立ちしたら移るつもりで。
団地の名称と部屋番号こそ変わっているが、いまの俺の家は元々母と住んでいた部屋だ。
高校卒業後、警察学校に入って……腕っぷしの強さがそのまま術科訓練に活かされたのは誇らしかった。知ってのとおり、制圧術ではずいぶんと褒められたからな。……それすらも俺を苦しめる一因になるなんて、あのときは思いもしなかった。
交番勤務が始まると、臨場した刑事課のやつらと顔を合わせる機会があるだろう。俺は自分の目を疑ったよ、所轄のパトカーからあのクズが降りてきたとき。まさかこんなに近くにいたなんて、と。
最後に会ってから数年経ってずいぶんと老けてはいたが、見間違えるはずがない。
反してあいつは俺を見ても、半井智美の息子だとは気づかなかった。
暴れ回る心臓と、吹き出す冷や汗。動揺する俺は、よほどひどい顔をしていたんだろう。こともあろうにあのクズは、
「きみ、新人か? ずいぶん顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
……母に対して一度も見せたことのない優しい目で、俺に声をかけてきた。
俺の頭が、おかしくなったのかと思った。それとも、あの日見たクズ野郎と目の前の男は別人なのかと。
だが同行する別の警察官があいつのことを「田之倉警部補」と呼んでいるのを聞いて、やはり勘違いではなかったと確信した。
◇
俺は、刑事課への異動を希望した。それは俺にとっての〝正義の形〟を貫きたいという思いが一番にあったからだ。
数年後にようやくF署への異動が叶って、直属の上司として紹介されたのが田之倉孝幸だった。
俺はまた冷や汗にまみれていたが、前に会ったときよりは冷静な自覚があった。いつかこいつの本性を暴いてやる。そんな野心を胸に。
そのころあいつの口から、交番勤務を始めたばかりのお前の名前が出ることがよくあった。
「オレと違って勉強のできるやつだから、本当は大学に行ってほしかったんだが」
苦笑いしながらそう語るあいつは、〝ちゃんとした父親〟の顔をしていた。
大学に行かせてもらえるだけの環境と金があったのに、お前はそれを蹴ってノンキャリアの道を選んだんだよな。心底気に入らなかった。
数年かけて刑事課にすっかり馴染んだころには、俺は田之倉孝幸という男のことがわからなくなっていた。
母に対して向けていたあの醜い形相も、家中に響く怒鳴り声も、「やめて」と泣く母を殴る姿も……〝田之倉警部補〟であるあの男からは、微塵も感じられなかったからだ。
ミスをした新人には、優しく声をかけてフォローする。聴取のときにも、声を荒らげたことなんかない。同僚とは、くだらない冗談で笑い合う……。
ずっと憎んでいたはずの男は、本当に存在したのかどうか。俺は混乱しっぱなしだった。
「息子が県警本部の鑑識課に引き抜かれた」とあのクズが嬉しそうに語ってから、しばらく経ったころだったな、安斉が事件を起こし始めたのは。
うちの署に捜査本部が立って、クソ面倒な準備をして署内を走り回っていたとき、お前とあいつが話しているのを見かけた。
あぁ、嬉しそうな顔してたなあいつ。お前は照れ臭そうに。
クソ喰らえ、と思った。
俺は母との時間を永遠に奪われたのに、お前らはしっかり家族ごっこをしてやがる。
どうにかして壊してやりたい。
一度は引っ込んだはずの憎悪が、再び膨れあがった。
だから俺は、お前に近づいた。あいつが大事に可愛がっているお前を心身ともに汚して、ぜんぶ壊してやる──そんなことを企んで。
◇
安斉が2件目の事件を起こしたあたりで、宮島が接触してきた。警察官になってからあいつと顔を合わせたのは、それが初めてだった。
「キミさ……だんだんお袋さんに似てきたね。目もとなんかそっくりだ」
他の目を盗むように話しかけてきた宮島は、前から俺が何者なのかを知っていた。知っていて、あの男には明かしていないようだった。
「……でも皮肉だねえ、父親にもよく似ている」
ごく自然に口をついたであろうそれを聞いて、俺は宮島につかみ掛かった。
俺は、自分の父親がだれかなんて知らなかった。母もそれを言わなかったし、俺から問い詰めることもないままだった。
「ボクは智美ちゃんから色々聞いてたからね。まあ、それが本当かは知らないけど……どうしても気になるなら、DNA検査でもしてみたら?」
へらへらと笑う宮島に腹は立ったが、そのとき信じがたい可能性を示唆されて殴る気にもなれなかった。
嘘だろう。そんなことがあっていいはずがない。
そう疑いながら、給湯室に置かれたコップから唾液を採取した。
そうして、捜査のかたわら送られてきた検査結果の数字は、あまりにも……ひどいものだった。
『99.99%』
──俺と、田之倉孝幸は、実の親子だった。
思い返せば一致する。手が出るのが早く、フィジカル面で優れているのなんかそのままじゃないか。
あんなに誇っていた体術教養の成績が、とたんにおぞましいものに感じた。ぜんぶ、あいつからの遺伝だったなんて、と。
あいつは俺が実の息子だと知らないまま、俺だけが真実を抱えて捜査をともにする日々。
毎日吐きそうだった。鏡も見たくなかった。だから、お前にぶつけた。
ある日、俺と同行するバディとしてあいつが選ばれた。放っておくと勝手な行動をするから、と言われて。
まともにあいつの目を見ることもできず、吐き気をおさえながら捜査をしていたとき、このガレージにたどり着いた。挙動不審な男がここに入っていくのを見かけたからという、まったくの偶然だった。
具合が悪いからと言ってすこし離れてあいつの後を追っていた俺の耳に、叫び声が聞こえた。
反射的に走ってここに来たときには、すでにあいつは安斉に胸を刺されていて……血だ、と思ったら銃声がした。撃たれた安斉はすぐに倒れて、あいつも崩れ落ちた。
「に、西原……! 応援と、救急車、を……!」
虫の息でそう言ったあいつは、その場ですぐに救急車を呼べば助かる可能性もあったのかもしれない。
俺の目の前には二人分の血の海が広がって、胸に突き刺さったナイフに呻くあいつと、仰向けに倒れたままぴくりとも動かない安斉。
安斉のすぐ横には、今までの犯行で使ってきたであろう口紅が転がっていた。証拠品の保存だとかそんなものは頭に浮かばなくて、ただ理由もなく地面のそれを拾った。
あとで考えると、あのとき頭の片隅でなにか不穏な影が蠢いていた。
安斉の手口は、広く世間に知られている。これを使えば、疑いの目をそらせる──まだその時点では、そこまではっきりとした意図はなかったが。
周囲はガソリン臭さに満ちていた。見回せば、ポリタンクがいくつも倒れていた。安斉が撒いたんだろう。
このときの俺は、異様なほど冷静に、記憶をたどっていた。
あんなに嫌いだと思っていた煙草を、いつしか吸うようになっていたこと。
ライターが見つからなくてポケットを探している俺に、あの男がジッポを差し出したこと。
そして目の前に倒れる男はいつも、ジャケットの内ポケットにそれを入れていたこと……。
血塗れのジャケットに手を触れると、冬の空気で冷やされた血液がなんとも言えず気持ち悪かった。
「にし、ばら……なにを……」
苦悶の表情で俺の動向を見ていたあいつは、なにを考えていたんだろうな。
服と同じように赤黒く濡れた銀色のジッポを取り出したとき、あの男の瞳はなにか言いたげだった。
せめて最期の瞬間ぐらい、己のあやまちを知るべきだと思ったんだ。
だから、
「……俺は、半井智美の息子だ。気づかなかった自分を恨めよ」
フリントホイールを回しながら真実を告げたとき、あいつは血を吐きながら口を開こうとした。
それを言う資格なんか、ない。俺は火の点いた銀色の塊を、ガレージに投げた。
そうだ、俺が田之倉孝幸にとどめを刺したも同然だ。俺が火傷を負ったのは名誉の負傷なんかじゃない。自分で放った火に巻き込まれただけだ、馬鹿みたいだろ。
だがそれを、身内である警察の連中は都合よく解釈してくれた。
お前は、俺に対して負い目を感じていたんだろう。尊敬してやまない父親を殺した張本人が目の前にいるのに、申し訳ない顔をするお前が鬱陶しかった。哀れだった。
だから……安斉の手口を真似ることでお前が苦しめばいい、と。それをすぐ間近で見て俺の心がすこしでも晴れることを、期待していた。間違いなく、そのつもりだったんだ。
◇
俺は、田之倉孝幸が死ねばもうそれでいいと思っていた。
そのはずだったのに、安斉の事件に関係して聴き込みを進めるうちに、一ノ瀬亮子や南城宏隆と出会った。
一ノ瀬は母と同じスナックで働いていた元従業員で、たしかに俺も見覚えがあった。当時は知らなかったが、一ノ瀬は教職に嫌気がさして退職し、スナックで働いていたらしい。
店がなくなったことで教師へと復帰したが、収入への不満と〝酒の席ならちやほやしてもらえる〟という経験が忘れられずにクラブで働き出した、と言っていた。
南城は、よく一人で飲みに来ていた客だ。あいつ
も母目当てだったようだが、とりあえず女ならだれにでもちょっかいを出す、そんな姿を見ていた。まさか妻子がありながらソープに通うほどの下衆だとは思わなかったがな。
あの二人はどちらも、母の身体中のアザを見ていた。それなのになにも言わず、なにもしなかった。そして一ノ瀬は生徒たちを、南城は家族を裏切るような行いを平気でやっていた。
母に手を差し伸べず、のうのうと生き延びたやつらが別のなにかに嘘をつき、裏切って生きている。その真実が、俺の心を怒りに染めた。
そうして二人を殺害したことでなにかに気づいたんだろう、宮島がまたふらっと俺の前に現れた。
「次はボクの番かなぁ」
軽率に笑うあの男は、すべてを察しているようだった。
それでいて警察には告発することなく、わざわざ俺を煽るようなことをしにくるのだから、宮島には宮島なりのけじめがあったのかもしれない。
「あんたに訊いておきたいことがある」と前置いて、ひと気のない場所を指定した俺の言葉をそのまま受け入れたのが、きっとその答えだろう。殺される覚悟があったんだ。
……宮島を手にかける直前、あいつはお前のことに言及していた。
「きっと光洋クンはなにも知らないよ。ボクからヒントは与えたけど、真実を教えるかどうかはキミ次第かもね……」
宮島は、すべてを知っていた。
俺も、知ってしまった。
田之倉孝幸はなにも知らず──お前は、目をそらしたんだ。




