17話 雨の兆し
どうしても、信じられなかった。
……あるいは信じたくないという思いから、鑑識作業に没頭しようとした。
数日後に退院してきた真白は「もう大丈夫です!」と朗らかな笑みを浮かべてはいたが、自身の中の罪悪感はぬぐえなかった。鑑識業務は今まで通りにできる、と聞いたあとであっても。
「ごめん……ほんとにごめん。僕があの店のことを教えなければ……」
消え入るような声で謝罪を口にした光洋に、真白は真新しい手術痕が痛々しい両腕をぶんぶんと振り、
「田之倉先輩はなにも悪くないですよ! おれのためにって、それだけだったんですから」と困ったようにしながらも、屈託なく笑う姿に救われたような気がした。
捜査本部は捜査員の動員人数を増やし、なかなか解決に向かわない事件に業を煮やしていた。刑事課をはじめとした面々は誰しもが終わりの見えない捜査に疲弊しきっていたし、怜士とも顔を合わせることはなかった。
もし、真白と光洋が抱く小さな疑問を上申したなら、捜査は進展するのかもしれない。警察官として、本来それがあるべき姿なのだと思う。
……けれど。
心のどこかにずっとわだかまる「そんなわけがない」という気持ちが、それをするだけの勇気を与えてはくれなかった。
◇
真白の復帰翌日、執務室のパソコンで鑑定資料をまとめていた光洋は、心ここに在らずという自身の心理状態から目を背けていた。
「田之倉先輩、元気ないですね……」
果たしてそれを察したのかどうか、眉を八の字にした真白が声をかけてきた。
「え……そ、そうかな? 最近ちょっと、寝不足だったからかな……」
「ぱっと見で『元気そう』とは言いがたいツラなのは間違いないな。ちゃんとメシ食ってるのか?」
真白を挟んだデスクの向こう側から、こちらを振り向いた今野主任もそう問いかけてくる。
言われてみれば、ここしばらくはなにかをしていないと、ずっと出口の見えない考えごとをするばかりだった。自炊はもちろん出来合いのものでも、まともに食べていないかもしれない。
そう思い至ったところで急に空腹をおぼえるはずもなく、
「まあ、とりあえずなにかしら腹には入れてます」と愛想笑いとともに答えた光洋に、今野が目つきだけで咎めてくる。
「……姫路の快気祝いもかねて、事件が落ち着いたら鑑識のみんなで焼肉でも行くか」
光洋を思いやってか、今野はにやりといたずらっぽく歯を見せながら提案してきた。なんと返すべきかと迷った矢先、
「えっ! 主任のおごりですか!」
「馬鹿、声がでかい!」
目を輝かせた真白とそれをいさめる今野に、思わず吹き出してしまう。こんなふうに自然に笑えたのは、果たしていつぶりだったろうか。
「佐伯さんと津留崎巡査部長も誘いましょうね!」
屈託のない笑みでいきいきと話す真白に、毒気が抜かれるようだった。
目を細めて背中を起こすと、今野の方をちらと確認した真白がぼそりとささやいてくる。
「あの、焼肉なんか行ったらバレませんかね? おれの目のこと……」
「ん? あぁ、そっか……」
真白が打ち明けた、彼の秘密──色覚特性。
趣味であるプラモ作りではカラーチャートや彼なりのパターンで色合いを覚えているらしく、日常では大きな問題を感じたことがなかったのだという。それが彼の夢であった鑑識という現場に来たことで、初めて〝問題〟が明るみになってしまった。
鑑識として、正しい色味が分からないことは致命的だ。ただ、今回の件は彼の〝濃淡への精緻な識別〟が、光洋の中で点と点をつなげるための一助になった。
……それを捜査に活かすべきか否かは、未だ答えが出ないまま。
「大丈夫、主任は〝奉行〟だから。大人しく言われるままに食えばいいよ」
「まじですか? 良かったー!」
拳を握って飛び跳ねる真白に、今野が「うるさいぞ」と振り向く。
「……でも、ちゃんと自分から打ち明けろよ。悪質だと思われたら、始末書じゃ済まないかもそれないし」と静かに耳打ちした光洋に、真白はばつが悪そうに「はい……」と背を丸めた。
この平穏な時間が、ずっとつづいてほしい。きっとだれもがそう願っているはずだ。
そのためにも、自分から確かめなければならない。
──天気予報では、土砂降りが予測されている。
◇
もう一度、あそこへ行ってみようと思った。
父が非業の死を遂げた、あの場所へ。
ようやく決心がついたのは、予想された土砂降りの日……仕事の合間を縫って、母のいる病院へと面会に向かったときだった。
今にも降り出しそうな真っ黒で厚い雲を見て、不安そうに光洋の手を握った母。この人の、そして自分自身の呪縛を解くためにも、まずはあの日の事件現場に向き合わなければ。そうすれば、自身の抱く疑念を打ち明ける勇気が出るかもしれない……そう考えてのことだった。
およそ半年ぶりに訪れた、ひと気のない雑木林に囲まれた廃ガレージはどこもかしこもすっかり焼け落ちていて、ここが元はなにであったのかも、知らぬ人が見ればまるで分からないだろう。
鉄骨だけが残り、触れればたやすく崩れてしまいそうな屋根も、たよりない柱に支えられてどうにかその姿を保っている。
自動車が四、五台ほどは納められそうではあるがさして広くもないガレージは、解体、整地されている可能性も考えて来たのだが、当時とほとんど変わらない様子に息が詰まりそうだった。
火事は周辺の雑木林にも飛び火したらしく、ガレージから数メートル離れたあたりまで黒焦げのなにかが飛散していた。歩みを進めると、スニーカーの底が焼けた木材を踏んでぐしゃりと音を立てる。
ガレージの中ほどで足を止めた光洋は、事件後に一度だけ見た写真を思い出していた。
……黒焦げになった、二人分の遺体。
片方は父で、もう一方は安斉。
安斉がシンボルを描くために使っていた、被害者女性から奪い取ったとされる口紅。あの男がコレクションしていた中から、それと同じものを見つけることはできなかった。すべてが、焼けてしまっていたから。
もし安斉がこの場所で最期を迎えたときも、その口紅を持っていたとしたら……これだけの火災であれば、ともに火に包まれているはず。
それなのに、真白は「模倣犯の使った口紅が安斉の使用したものと同じだ」と言った。そして化粧品のメーカーは、ロットの違いについてこう言ったのだ。
『限定品と同じものは、現時点では正規に購入する手段はございません』と。
であるならば。
あの日、この場にいて。安斉から、それを奪うことができる人物──
胃の奥からせり上がってくるものに、口もとを押さえる。
そうであってほしくないと、願っていた。
だって、
「うっ、……!」
ばちり、と。
目の前に走った光に、全身を駆けめぐる衝撃。
吸い込もうとした呼吸が「かっ」と妙な音を立て、背後から掛かったなにかに、地面へと組み倒され。
意識が、闇に落ちる。
◇
鼻腔に広がる嗅ぎ慣れた匂いに、ゆっくりと目蓋を持ち上げた。
目の前には煤けた黒や、灰色……遠くに、ぼやけた緑と、茶色。
かすんでいた視界が鮮明になるにつれ、いま自分は焼けたガレージの床に寝転がっているのだと気づいた。同時に、背中に回った腕が動かせないということにも。
「……くそっ……」
起きあがろうと身をよじるも、思うように身体が動かない。気を失う前の衝撃のせいか、それともまた別のものなのかも確認できなかった。ただ、身動きに合わせて背後から響いた金属音に、いやな憶測が浮かぶ。
吸い込んだ息に、灰か埃でも混じったのだろうか。背を丸めてむせ込んでいると、足音とともにあの匂いが近づいてきた。
「よぉ、巡査長どの」
見るまでもない。その声も、燻らせる煙草の香りも。
いやと言うほど、よく知っている。
「…………怜士……」
床を踏む足音が足もとへ、そして前方へと回り込み、唇に煙草を挟んだ怜士が眼前で膝を折る。その手には彼と、光洋のスマートフォンとが提げられ……一方には地図と、点滅する何らかのマーカー。
「わざわざ自分から、こんなひと気のない所に出向くなんて。やっぱりお前馬鹿なんじゃねえの」
「……GPS……?」
いびつな弧を描いた、うすい唇から漏れ出た白煙が、目に沁みる。
いつの間に仕込まれていたのか、見せられたスマートフォンの画面にはたしかに入れたおぼえのないアプリと、『位置情報を送信する』の項目があった。
目を疑う光洋のさまを見て、
「お前がスマホ音痴で助かった」と鼻を鳴らす怜士の顔は、間違いなく笑っているはずなのに。そこに宿る冷たさは、初めて相対するものだった。
「どう、して」
「……それは、なにに対する疑問だ?」
降ってくる声色は、どこまでも低く冷淡で。今までに見てきた彼の姿はなんだったのかと、光洋の意識を狂わせる。
何度息を吸っても、吐いても、拍動はおさまろうとしない。
「……お前、が……こ、殺した、のか。今までの……」
どうしても、信じたくなかった。この可能性を。
声が、裏返りそうになる。こんな質問を、投げかけたくなんかないのに。
短くなった煙草を光洋の顔の前に投げた怜士は、それを足で踏み消した。すぐ目の前で、じゅう、と燃え尽きる音が灰に呑み込まれる。
そっと視線を上げるとその左手にはナイフが握られており、こちらへと見せつけるかのようにひらひらと揺れていた。
「そうだ、と言ったらどうするんだ?」
「っ……!」
平然と、こともなげに。悪びれる様子もなく言ってのけた怜士。
その眼差しは普段見るものと変わらないはずなのに、不気味なまでの底知れなさが背中をぞわりと撫で上げていく。
「お、お前はっ、警察官だろ! なんで……なんで、そんなことを……!」
上半身を持ち上げようとして、背中に回った腕がガチャリ、と硬い音を立てた。はっきりと覚醒した今では、それが手錠によって拘束されているのだと理解できる。
「……なんでだと思う?」
スマートフォンの画面を操作した怜士は、再びそれを光洋へと向けて、
「お前なら、なんとなくその答えにたどり着いてるんじゃないのか」
白い液晶には、一文だけが書かれたメモアプリが表示されている。宮島に教えられた、あの日付が。
それの持つ意味を、怜士がわかっていて示してくるということ。その事実が、これまで胸にわだかまっていたものが〝疑い〟などではなかったことを、無情にも突きつけてくる。
「宮島がお前に教えたんだろう。俺の人生を大きく変えた、あの日を」
「……それは、」
「──俺の母親の、命日だ」
◇
乾いた声に、よみがえる。
データベースにあった、『半井智美の長男の名前』が。
そこに並んだ、『半井怜士』の文字が。
別人だと思いたかった。たまたま同じ名前なだけなのだ、と。けれどもそんな淡い期待を、さらに下へつづいた半井智美の実姉、『西原陽子』の名が否定した。
そこまで判明してしまえば、想像がついてしまう。怜士は母亡きあと、伯母の家の養子になったのだろう、と。
彼が語った〝大嫌いな姉〟とは西原家の長女を指すのだ、とも。
「……それと人を殺すことに、なんのつながりがあるって言うんだ……罪もない人たちに手をかけて──」
「罪もないだと!」
「う、っぐ……!」
胸ぐらをつかまれ、強引に焼けた地面から引き起こされる。目いっぱいに力を込められた怜士の腕は震え、先ほどまで氷のようだった瞳には、ついぞ目にしたことのない熱が煮えたぎっている。
鼻息荒く歯を食いしばった怜士は、何度か肩で呼吸をしたあと、静かに口を開いた。
「あいつらは……母が受けていた仕打ちを知っていた。それなのに、だれも助けようとしなかった」
「それをっ……警察に、言えば……」
息も絶え絶えに声をしぼり出せば、つかむ腕にさらに力が込められる。眼前へと肉薄した、その燃えさかる炎で焼き尽くされそうな憤怒の表情から、目がそらせない。
「警察。そう、警察だ。母を殺したのは。事故死なんかじゃない」
怜士の声色は静かなはずなのに、たしかに腹の奥をえぐるような怒りに満ちて。
「俺は見たんだ。あの雨の日、あの場所で、この目で。地面に叩きつけられた母が、命を落とすその瞬間を」
「っ……復讐、か……」
それを人殺しの理由にして良いはずがない。そうは思っても言葉にはできず、ぎりぎりと締め上げられる苦しさに視界がかすみそうになる。
だが、着実にとおのいていく意識を引き戻したの
は、思いもよらない言葉だった。
「あぁ、復讐だよ……お前の、親父への」
「…………は……?」
目を見ひらく。
なぜ、父さんに。
驚き固まる姿を見て、怜士が口の端を持ち上げる。同時につかんでいた手が急に緩められ、光洋は受け身も取れぬまま黒い地面に背を打った。
「お前は知らないだろう。母親だけじゃなく、尊敬する親父までもが家族を裏切っていたなんて」
咳き込む光洋に、嘲りを含んだ声が落ちてくる。
言われたことの意味が理解できず、戸惑いのままに見上げると
「……俺の母を殺したのは、お前の親父……田之倉孝幸だ」
暗く厚い雲を背景にした怜士の顔は、影にさえぎられていた。
まばたきも忘れて、ただ肩を強張らせる。なにか言おうとしてひらいた口が、音を発することもできず、息だけを吐く。
「そんなはずない、って顔だな。だが俺はずっと見ていた。あの男が母を怒鳴りつけて、殴る姿を」
視線を伏せた怜士は、なにかを思い出すようにして顔をそむける。
彼の口から語られることすべてが信じがたく、反して光洋は怜士の横顔から目を離すことができなかった。
けれども、彼のうち震える拳は。歯を食いしばるその様は。
胸の内で燃え上がるものへの、証左そのものなのではないか──。
二人の間にいくばくかの沈黙が満ちて、怜士が大きく息を吸う。静かに振り向いた彼は平素のよう、凪いだ瞳でこちらを見下ろし。
「……教えてやるよ。お前が知らない、俺と田之倉孝幸の真実を」
ゆらぐ声に、とおく雷鳴が重なる。
お読み頂きありがとうございます。
真白の色覚特性については、実際にこういう話をしていた知人のエピソードから拝借したものです。
次回18話、長丁場になります……




