16話 隠されていたもの
「寮周辺の監視カメラですか?」
「そう。ふつうどこまで把握してるもんかと思ってな」
真白が模倣犯と思しき人物に襲われた翌日、やはり捜査員たちは休むひまなど与えられないまま、各々の職務へと取りかかっていた。
流れ落ちてくる汗に目をしばたかせながら、今野主任がふう、と息を吐き立ち上がった。酷暑の中、上からは照りつける太陽、下からは熱気を立ちのぼらせるアスファルトに挟まれ、鑑識係はみな一様に滝のような汗を流している。
襲撃事件があった周辺には規制線テープが張られ、あちらこちらで警察官が動きまわっていた。
「入寮中は、夜に帰ってきたらカメラの赤いランプが目立つので……『あぁここにカメラがあるな』って、多少意識することはありますけど。どこからどこまで映ってるかは、さすがに……」
「まぁ、そんなもんだよな……」
今野の言葉に視線をめぐらせる。真白が刺されたこの現場は、寮の立ち並ぶ敷地からはやや離れていた。周辺には一般の家屋も何軒かあるが、個人宅の防犯カメラに頼ろうにも、この場所では映り込んでいない可能性が高いだろうとうかがえる。
「刑事課がカメラの映像を血眼でチェックしてるみたいだが、ほら、むこうの」
今野が手にした一眼レフを向けた先。うす暗い廃屋のあたりにも、光洋たちと同じく現場鑑識作業服に身を包んだ鑑識係が数人、しゃがみ込んでカメラやライトを向けている。下足痕や付着物、遺留物の採取をしているのだろう。
「かろうじてたどれた足跡から、被疑者はあのあたりで待ち伏せしてたんじゃないかって話だったな」
壁にツタの這うさびれた家は、住人が消えて久しいのかガラスにヒビが入り、古い木製の玄関ドアや土色の壁には、色とりどりの落書きが踊っている。周辺は草が深く生い茂り、かつては庭であったであろう部分などに不気味に影を落としていた。
「……真白がここを通ることを、あらかじめ分かってたんですかね……」
「そう勘繰ってしまうのが自然だよな。しかも、今のところカメラにも決定的なものが残ってないようだし。ここまで警戒心が強いと、ちょっとな……」
声をひそめながら言った今野の「ちょっと」の意味するところは、正確には分からない。
ただ、それと光洋の胸の内に引っかかっているものとが、きわめて近しい疑いであろうことは、顔を見合わせた二人に言葉はなくとも通じているようだった。
◇
真白が被害者となってから2週間ほどが経ち、手がかりとなりそうな情報がひとつあきらかになった。
これまで模倣犯に殺された被害者たちは、いずれも宮島と面識があったというのだ。記者である宮島は交友関係があまりにも広かったため、特定するのに難儀していたらしい。
けれどもまだ、分からないことは山のようにある。とりわけ全員をつなぐ存在が宮島であったとして、なぜそれが殺害の理由となるのか……決定的な共通点が見つけられないまま、七月は終わりを迎えようとしていた。
宮島に託された鍵は、それがどこのなにを開けるものなのかを確認するひまもなく、自宅のテーブルに置きっぱなしになっている。あれからすぐさま仕事に戻らなければならなかったし、どこに使う鍵なのかと探しまわる余裕などなかった。
……けっして、「なにを見ることになるのか」と恐れたわけではない。
まして警察関係者が被害者になったとあっては、捜査本部から離れて自宅にもどる時間も、そうやすやすとは取れなくなっているのだから。
そうして真白が退院、復帰してくる日程を聞かされた時には、さらに1週間あまりが経とうとしていた。
『限定品の流通について、でございますか』
例のシンボルに使われた口紅のことをようやく思い出した光洋は、F署の執務室で化粧品のメーカーへと電話をかけていた。
「はい、化粧品のことはよく分からないんですけど……」
最低限、知りたかったことを書き留めたメモを眺めながらたどたどしく尋ねてみると、至極丁寧に『お調べいたしますので少々お待ちください』と言われ、電話口で待つこと数分。
そのほんのわずかな時間がどうしようもなくもどかしく、スマートフォンを握る手に否応なく汗がにじむ。機械的な保留音のぎこちないクラシックが、不吉なものに聞こえてくる……。
背後をとおり過ぎていく署員たちの気配もまばらになったころ、ようやくメロディがぷつりと途切れて。
『たいへんお待たせいたしました』と鼻にかかった声に、「は、はい」と無意識に居ずまいを正す。
『こちらで把握しております範囲での回答になりますが……』と前置きされ伝えられた情報に、引き結んだ唇が、見開いた瞳がひどく乾いていることに気づいた。
……いや、でも。まだ……まだ、確証はない。
◇
その確証が、これに秘められているとしたら……?
夜も間近だというのに、未だ橙の太陽がはっきりと顔を出している、真夏の夕暮れどき。
じつに約1週間ぶりに〝着替えを取りに行くだけ〟でなく、ちゃんとした休みを得られたこの日。あの小さな鍵を手にした光洋は、父の部屋の前でたった一歩を先に進めることができず、扉と鍵とに交互に視線をさまよわせていた。
宮島と、被害者たちとの関係。
父が宮島に「捨ててくれ」と託した鍵。
ヤタガラスのシンボル。
模倣犯の目的。
絶対に「これだ」と言い切れる根拠はなにもないのに、水面下でひと知れず、細い糸がつながっているように思えてならなかった。
『キミはいちばん大事なところを見落としてるか、見ないふりをしているみたいだ』
宮島の言葉が、よみがえる。
こめかみのあたりがズキズキと痛んで、呼吸とともに飲み込んだ唾液が、乾いて貼りついた喉の粘膜を強引に拡げ、落ちていく。
いつの間にか握り締めていた右手の中では、閉じ込められた鍵が皮膚へと食い込んでいた。
ドアノブへと伸ばした左手が、ひやりと、鈍色の金属に触れる。力を込めることができず深呼吸を繰り返しているうちに、金属は淡い熱と汗を帯びていた。
──疑念を否定するために、進まなくてはならない。
ゆっくり、ゆっくりと回したドアノブに合わせ、蝶番が小さくギイ、と鳴く。
空調に冷やされたリビングとは打って変わって、重たく熱をまとう空気が漏れ出してくる。
扉を数センチほど開けたまま身動きがとれず、しばし流れる空気に身を任せていた光洋は、隙間からのぞいた光景に眉根を寄せた。
棚に置いてあったはずの父の写真──ずいぶんと前に柔道大会の団体戦で入賞したときのそれが、床に落ちている。
思わずドアを開け放つと、奇妙に襲いきた違和感の正体は、すぐさまあきらかになった。
「な……なんだこれ、どうして……」
歩み寄り、床へ膝をつく。ひろいあげた写真立てのガラスは粉々に砕け、真ん中に写る父を中心に鋭いなにかで切り裂かれていた。
まさか、母さんがやったのか……?
精神的に不安定な彼女を思えば、けっして〝無い〟とは断定できない。けれども仮に父から母を憎む可能性はあったとして、その逆はどうにも想像しづらかった。
写真立てを手に立ち上がると、ぱらぱらと音を立ててガラス片が落ちる。床に散らばったそれをスリッパの足先で軽く払いのけながら、本来写真があった場所──書斎棚へと近づく。
きっと、ここの鍵だ。その気になればこじ開けることもできたはずの、小さな鍵。ただ本能的に、それを避けようとしていた……。
見るも無惨な写真をかたわらに置き、ずっと握ったままだった手のひらを開いた。皮膚には、赤く線が刻まれている。にじんだ汗と銀色が、夕日を受けてちらちらと輝く。
指先へと持ち替えた鍵は、小刻みに震えていた。まっすぐに鍵穴へ向かうことを恐れる右腕を、左手でどうにかおさえる。
抵抗なく隙間へとめり込んだ感触に、やはりこの引き出しの鍵であったという確信とともに、ゆっくりと手首を回す。
──カチリ。
胸骨の奥で、心臓が暴れ回っている。取手に伸ばした指先は、蒸すような空気の中で異様なまでに冷たく、感覚がとおい。
開けなくては。なにが待っていようとも。
ためらいを押し殺し、ひと息にそれを引いた。
「…………?」
かたり、と思いのほか軽い音に、無意識に閉じていた目蓋をうすく持ち上げて中をのぞく。そこには淡い黄色の表紙の、小さなノートがあった。
ノートの上部には、やわらかな書体で『母子健康手帳』とある。
なぜこんなものがと、不思議に思いながらそれを手に取ってみると、母親の名前欄が黒く塗りつぶされている。子どもと父親の名前は、未記入だった。
目線の高さに持ち上げたそれを、沈み始めた夕日がぎらりと照らす。
「え、」
一瞬見えたなにかに、小さく声が漏れた。
母子手帳の角度を変え、塗りつぶされたインクの下……本来そこにあった文字を探し、反射によって浮かび上がったその名前は、
「……半井……智美……?」
およそ15年前、転落死したという女性。恋人に暴力を受けながら、だれも助けることが叶わなかった……。
どうして。どうしてそんな人の持ち物が……それも、母子手帳だなんて大切なものが、ここにある?
心臓の拍動のあまりの激しさに、震えは全身にまで伝播していた。手帳のページをめくろうにも、指先がおぼつかない。
いよいよ力もうまく入らなくなった手から、黄色の手帳がばさりと落ちて。ガラスの破片の上、開いたままの手帳のあいだから、折りたたまれた紙がすべり出た。
まとまらない思考のままに追った視線の先、その紙に書かれた文字が、光洋の混乱と戸惑いをさらに増幅させた。
四角く囲まれた、真っ白な記入欄が並ぶその上──『出生届』の三文字が。
◇
まともな精神状態で運転して来れた自信などなかった。
ただ、今すぐに確認しなくてはならないというその一心で、F署よりも自宅から近い県警本部へと車を走らせていた。
久しぶりの鑑識課に私服姿で駆け込むと、分析室から佐伯と津留崎が顔を出す。
「田之倉先輩? どうしたんですか?」
「ち、ちょっと、調べもの!」
いい加減な返事をして自分のデスクへと向かう光洋に、佐伯たちは
「ふーん……捜査本部、大変なんですね」
「いいけどあんまり走るなよ」
と普段と変わらない様子で戻っていったことに、胸を撫で下ろし安堵の息をついた。
どうしても、ひとりでいる必要があった。
あれを調べているところを、見られたくなくて……この疑念と想いを、だれにも知られたくなくて。
汗で額に貼りつく髪をぐしゃりとかき上げ、パソコンをひらく。
以前調べたのがいつだったかも覚えてはいなかったが、なぜあのとき全てをくまなく見ようとしなかったのかと、自分を恨んだ。画面が立ち上がるまでのわずかな時間が、もどかしい。
ようやく映し出されたデスクトップからデータベースへと遷移し、スマートフォンに残されたままのメモを見返しながら、年月日を順に入力していく。
クリックしてひらいた、半井智美の事故死をめぐる報告書。内容などはどうでもよかった。マウスホイールを回し、下へ下へとスクロールする。
そうして、ぴたりと止まった画面の下方。半井智美の、家族関係。
長男に、姉。姉の夫と、その娘。
『一番大事なところを見落としている』
まさにそのとおりだった。
でも、なぜ。どうしてこれが、父さんにつながる?
ずっと一緒にいて、なにも思わなかったのか?
……真白のことはどうなる? なぜ、彼は襲われた?
次から次へと押し寄せてくる疑問と戸惑いとが、頭の中を満たしていく。
「なぜ」と「どうして」がぐるぐると交互にめぐるばかりで、気がつけばまた呼吸が怪しくなってくる。
だめだ、落ち着け。確信も、証拠もない。落ち着け。
どうにか深く吸い込んで吐いた息は、泣きそうなほどひどく震えていた。
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